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第四章:家出魔導士と故郷の空
第17話:孤高(笑)の魔導士と王女(自称)のお説教
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西の稜線に太陽がその最後の輝きを飲み込まれ、空が茜色から深い藍へとその表情を変えゆく頃、俺たちの馬車はなおも険しい山道を進んでいた。結局のところ、森の中で大魔法を放った挙句に派手に昏倒した少女を、熊や魔獣の餌食になりかねない山道に放置していくという選択肢は、俺たちの誰の良心にも存在しなかった。結果として、彼女――自称・孤高の天才魔導士は、俺たちの旅における予期せぬ、そして少々厄介な荷物となったのである。
馬車の荷台、普段は食料や野営道具が詰め込まれているその一角に、毛布にくるまれた少女が横たわっている。規則正しい寝息が聞こえるわけでもなく、時折苦しげに眉をひそめ、何かうわ言のようなものを呟いている。その度に、がたごとと車輪が石を踏む音と相まって、こちらの心臓までが妙にざわついた。
「おい、アレン。この先、少し開けた場所があったはずだ。今夜はそこで野営にしよう。これ以上暗くなると、馬が足を滑らせかねん」
御者台で手綱を握るジンが、後ろを振り返りもせずに言った。彼の声は、吹き抜ける山風にかき消されそうなほど乾いている。俺は荷台の隅に腰掛け、彼の背中に「ああ、分かった」と短く応えた。
やがてジンの言う通り、道は緩やかな下り坂になり、木々がまばらになった平坦な場所へとたどり着いた。馬を止め、手際よく野営の準備に取り掛かる。俺とジンが馬を休ませて水と飼い葉を与えている間に、セレスは荷台から手早く鍋と食材を取り出し、アリーシアは薪拾いだと意気揚々と茂みの中へ消えていった。こういう時の連携は、長い旅で培われた阿吽の呼吸というやつだ。
やがて、パチッ、パチパチッ、と心地よい音が響き渡り、乾いた薪がオレンジ色の炎を立ち昇らせた。標高が高いせいだろう、夜の訪れと共に空気は急速に冷え込み、肌を刺すような鋭さを持っている。その冷気とは裏腹に、揺らめく炎は俺たちの顔を暖かく、そしてどこか感傷的な色合いで照らし出した。
頭上を見上げれば、そこには言葉を失うほどの夜空が広がっていた。街の灯りなど届くはずもない山の奥深く、澄み切った大気は星々の瞬きを何一つ遮らない。まるで神様が黒い天鵞絨の上に、手のひらいっぱいのダイヤモンドを惜しげもなくぶちまけたかのようだ。天の川と呼ばれる無数の星々の帯が、乳白色の淡い光を放ちながら、空を雄大に横断しているのが肉眼でもはっきりと見て取れた。時折、すうっと尾を引いて流れる星が、夜の帳に儚い一筋の線を刻んでは消えていく。
「アレンさん、ジンさん、どうぞ。体が温まりますよ」
セレスが、木のカップに注いだ温かい液体を差し出してくれた。彼女が旅の途中で摘んだ薬草をブレンドした特製のお茶で、鼻を近づけると、ほんのりと甘く、心が安らぐ香りがした。一口すすると、じんわりとした温かさが喉から胃へと染み渡り、冷え切った体の芯から解きほぐされていくのを感じる。
「……サンキュ、セレス。いつも助かる」
礼を言うと、彼女は「いいえ」と控えめに微笑んだ。その笑顔は、この過酷な旅における何よりの癒やしだった。
俺は薬草茶をすすりながら、改めて火の向こうに視線を送った。そこには、薪拾いから戻ったアリーシアが、セレスの手伝いをしながら、例の少女を心配そうに見守っている。鮮やかなピンク色の髪が、ツインテールに結わえられている。派手な見た目とは裏腹に、眠っている彼女の顔はまだ幼く、あどけなさが残っていた。
とんでもない置き土産を残してくれたもんだ、全く。森で遭遇した魔物の群れ。俺たちが苦戦していたところに颯爽と(?)現れ、詠唱破りの大魔法で一掃したのは見事だったが、その代償がこれでは割に合わない。
俺たちの旅は、決して物見遊山の気楽なものではない。それぞれが背負うもの、目指す場所があって、日々の糧を得るため、時には危険な依頼もこなさなければならない。そんな旅路に、素性も知れない少女を一人、無防備なまま連れて行くのはリスクでしかない。
そんなことを考えていると、その時だった。
「……ん……ぅ……」
ほんの小さな、吐息のようなうめき声。荷台の上で、毛布にくるまっていた少女の体が、ぴくりと動いた。俺とセレス、そしてジンとアリーシアの視線が、一斉にそちらへ注がれる。
少女は、ゆっくりと重そうな瞼を押し上げた。長い睫毛が震え、現れた紫色の瞳が、ゆらゆらと揺れる焚き火の光を映して、きらりと輝いた。
「気がつきましたか?大丈夫ですか?」
いち早く我に返ったセレスが、そっと彼女のそばに寄り添い、優しい声色で語りかけた。その声には、相手を安心させる不思議な響きがある。
少女――後にルーナと名乗ることになる彼女は、ぱち、ぱち、と数回まばたきを繰り返した。焦点の合わなかった瞳が、徐々に周囲の光景を捉え始める。俺、ジン、セレス、アリーシア。そして燃え盛る焚き火と、どこまでも広がる暗い森。自分が今、どういう状況に置かれているのかを、ようやく理解したのだろう。彼女は、むくりと上半身を起こすと、プライドの高い猫が威嚇するように、ツンと顔をそむけた。その仕草には、警戒と反発が色濃く滲んでいた。
「……別に。あなたたちに助けられた覚えはないわ」
凛としてはいるが、まだ少し掠れた声だった。
「私が、あの程度の魔物を倒したついでに、あなたたちを一方的に助けてあげただけよ。感謝なら、してあげてもよくてよ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わずこめかみを押さえた。ああ、これは面倒なタイプだ。非常に、面倒なタイプだ。
「へえ、そりゃご立派なことで」
焚き火の熱で赤らんだ刀身を、手慣れた様子で布で拭っていたジンが、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて口を挟んだ。彼はこういう、相手の虚勢を暴いてからかうのが大好きなのだ。
「で、その自慢の最強の魔法とやらを使った結果、見事に白目剥いてぶっ倒れてたわけだが、そいつは何か新しい修行の一環かい?お嬢ちゃん」
ジンの言葉は、的確に相手の痛いところを突く。案の定、ルーナの肩がびくりと跳ねた。
「ぐっ……!な、なんですって……!」
図星を指された彼女は、一瞬言葉に詰まったが、すぐに何かを思いついたように、ふんと鼻を鳴らした。
「そ、そうよ!あれは魔力を完全に使い切った後の、極限状態における精神統一と魔力回復を兼ねた、高等な瞑想訓練よ!あなたたちみたいな凡人には、到底理解できないでしょうけどね!」
苦し紛れにもほどがある言い訳を、彼女はなぜか胸を張って、さも当然であるかのように言い放った。その姿は、いっそ清々しいほどだった。
(孤高の魔導士、括弧笑い、か……)
俺は内心で、そんな的確すぎるツッコミを入れずにはいられなかった。口に出せば、さらに事態がややこしくなるのは火を見るより明らかだったので、ぐっと飲み込んだが。
「まあまあ、お二人とも。彼女も気がついたばかりなのですから」
セレスが困ったように微笑みながら、仲裁に入る。その横で、アリーシアが「そうよ!瞑想は大事よね!私もお城でよくやったわ!」などと、明後日の方向の同意を示している。この王女様は、時々話の文脈を根こそぎ無視することがある。
「まあ、ともかく、元気になったのなら良かったわ。荷物が散らばってしまっていたから、まとめておいたわよ」
親切心からだろう。アリーシアが、ルーナの物と思われる革製の鞄を「はい」と手渡した。どうやら、彼女が倒れた拍子に鞄の口が開いてしまい、中身がいくつか外にこぼれ落ちていたらしい。アリーシアが親切にもそれを拾い集めてくれたようだ。
その、こぼれ落ちた荷物の中に、一枚の羊皮紙が紛れ込んでいたことを、アリーシアは見逃さなかった。丁寧に折りたたまれ、封蝋の跡さえ残る、それは明らかに誰かが誰かに宛てた手紙だった。
「あら、お手紙?これもあなたの落とし物かしら」
アリーシアは、その羊皮紙をひらりと拾い上げると、次の瞬間、俺たちの誰もが予想だにしなかった行動に出た。彼女は、そこに書かれた文字を読み解くと、悪気があるのかないのか、まるで舞台女優のように朗々と、そして実に豊かな抑揚をつけて読み上げ始めたのだ。
「なっ!?ちょ、ちょっと、あなた何するのよ!人のものを勝手に見ないで!」
ルーナの悲鳴にも似た制止の声が、夜の静寂に響き渡る。だが、一度スイッチの入ったアリーシアは止まらない。むしろ、その悲鳴が彼女の朗読にさらなる熱を込める結果となった。
「ええと、なになに……『愛する娘、ルーナへ。元気にしているか。お前が家を飛び出してから、もう三月が経つな。村の皆が、お前のことをとても心配している。もちろん、この父様もだ。お前が、自分の力を試したいという気持ちは分かる。偉大な魔導士になりたいという夢を、父は決して笑ったりしない。信じていないわけではないのだ。ただ、ただひたすらに、お前のその小さな体が、無事でいるかどうかが心配なのだ。もう意地を張るのはやめて、そろそろ帰ってきて、元気な顔を見せてはくれないだろうか。追伸:お前の大好物の、村一番の干し草、たくさん送っておいたからな。ちゃんと食べるんだぞ』……ですって。まあ、なんてお父様想いの……あら?」
アリーシアが読み終え、感動したように息をついた、その刹那。
「「…………ぷっ、ぶふぉっ!!」」
俺とジンが、同時に吹き出すのを止めることは、もはや誰にもできなかった。干し草て。干し草って。馬かよ、このお嬢ちゃんは。いや、確かにツインテールは馬の尻尾に似てなくもないが、それにしてもあんまりだ。腹筋が、笑いの衝撃で痙攣する。
手紙の内容を吟味し終えたアリーシアは、にこやかな、しかし有無を言わさぬ圧を放つ笑顔でルーナに向き直ると、まるで名探偵が全ての謎を解き明かし、犯人を追い詰めるかのように、ビシッと人差し指を突きつけた。
「あなた!これ、ただの家出少女じゃないの!」
その一言は、決定的な一撃だった。
図星を、それも最もクリティカルな形で突かれたルーナは、顔を耳まで、いや、首筋まで真っ赤に染め上げ、金魚のように口をパクパクさせている。言葉にならない叫びが喉の奥で渦巻いているのが、ありありと見て取れた。彼女の頭からは、ぷしゅー、と効果音が聞こえてきそうなほど、白い湯気が立ち上っているのが見えそうだった。
だが、本当の地獄は、ここからが本番だった。
俺とジンの爆笑がようやく収まりかけ、ルーナが羞恥と怒りで震えている、その混沌とした空気の中、アリーシアはすっくと仁王立ちになると、まるで世界の真理を説く預言者のように、厳かな口調で説教を始めたのだ。
「まったく、なってないわね!」
第一声からして、迫力が違う。彼女は腰に手を当て、うんうんと一人で深く頷きながら、滔々と続ける。
「親を心配させるなど、人として最低の行為よ!どれだけ心を痛めているか、考えたことがあるの!?黙って家を出るなど言語道断!論外だわ!」
その言葉は、正論だ。正論ではあるのだが。
「いいこと?旅立ちには、旅立ちの作法というものがあるのよ。私のようにね、ちゃんと置き手紙で!自分の固い意志と!明確な目的!そして、心配しないで、必ず立派になって帰ってきますという強い決意を!両親に、いえ、国民に!しかと伝えてから旅立つのが、礼儀というものなの!分かるかしら!?」
……お前が言うな。
その言葉が、俺の脳内に雷鳴のように轟いた。特大の、見事なカーブを描いたブーメランが、音速を超えてアリーシア自身の後頭部に深々と突き刺さっているのが、俺にははっきりと見えた。いや、ジンやセレスにも見えていたに違いない。ジンはもはや笑う気力も失せたのか、肩を震わせながら天を仰いでいるし、セレスは「あ、あの、アリーシア様……」と、止めようにも止められない暴走特急を前に、ただただ困惑した表情を浮かべるばかりだ。
当のアリーシアは、自分が今、どれほど矛盾したことを言っているのか、全く気づいていない。それどころか、自分の完璧な家出(と本人は思っている)を例に出し、得意満面の表情でルーナに説教を続けている。
「そもそもね、家出というのは、それ自体が目的であってはならないのよ!それはただの逃避!現実逃避に過ぎないわ!私のように、王族としての責務を果たすため、まずは外の世界を知り、民の暮らしを肌で感じるという、そういう高尚な目的があってこそ、家出は『旅立ち』へと昇華されるの!あなたの場合はどうなの!?『最強の魔導士』?結構よ、夢は大きい方がいいわ!でも、そのためにまずすべきことは、身近な人を安心させることじゃないかしら!お父様が送ってくれたという干し草!これはただの干し草ではないわ!父親の、海より深い愛情の結晶なのよ!それを無下にするなんて……!」
もはや、アリーシア劇場だった。彼女の説教は、家出論から始まり、親孝行論、果ては干し草に込められた父性愛の形而上学にまで発展しようとしている。
俺は、一方の主役である家出少女に視線を移した。ルーナは、顔を真っ赤にして俯いたまま、ぎゅっと唇を噛みしめ、ただひたすらに耐えている。時折、アリーシアの言葉に「うっ……」とか「そ、それは……」とか、か細い反論を試みるが、アリーシアの圧倒的な声量と支離滅裂な論理(?)の前に、ことごとくかき消されてしまっていた。
そして、もう一方の主役、自分のことを完璧に、一点の曇りもなく棚に上げて、悦に入りながら説教を続ける元・家出王女を交互に見比べる。
燃え盛る焚き火よりも熱く、そして混沌とした頭を、俺は思わず両手で抱え込んだ。
「どっちもどっちだ……」
俺の、心からの疲れ切った呟きは、誰の耳に届くこともなく、パチパチと楽しげに爆ぜる焚き火の音に、虚しく、実に虚しくかき消されていった。星空は、そんな俺たちのちっぽけな騒動などまるで意に介さないとでも言うように、ただただ静かに、そして美しく輝いているばかりだった。
馬車の荷台、普段は食料や野営道具が詰め込まれているその一角に、毛布にくるまれた少女が横たわっている。規則正しい寝息が聞こえるわけでもなく、時折苦しげに眉をひそめ、何かうわ言のようなものを呟いている。その度に、がたごとと車輪が石を踏む音と相まって、こちらの心臓までが妙にざわついた。
「おい、アレン。この先、少し開けた場所があったはずだ。今夜はそこで野営にしよう。これ以上暗くなると、馬が足を滑らせかねん」
御者台で手綱を握るジンが、後ろを振り返りもせずに言った。彼の声は、吹き抜ける山風にかき消されそうなほど乾いている。俺は荷台の隅に腰掛け、彼の背中に「ああ、分かった」と短く応えた。
やがてジンの言う通り、道は緩やかな下り坂になり、木々がまばらになった平坦な場所へとたどり着いた。馬を止め、手際よく野営の準備に取り掛かる。俺とジンが馬を休ませて水と飼い葉を与えている間に、セレスは荷台から手早く鍋と食材を取り出し、アリーシアは薪拾いだと意気揚々と茂みの中へ消えていった。こういう時の連携は、長い旅で培われた阿吽の呼吸というやつだ。
やがて、パチッ、パチパチッ、と心地よい音が響き渡り、乾いた薪がオレンジ色の炎を立ち昇らせた。標高が高いせいだろう、夜の訪れと共に空気は急速に冷え込み、肌を刺すような鋭さを持っている。その冷気とは裏腹に、揺らめく炎は俺たちの顔を暖かく、そしてどこか感傷的な色合いで照らし出した。
頭上を見上げれば、そこには言葉を失うほどの夜空が広がっていた。街の灯りなど届くはずもない山の奥深く、澄み切った大気は星々の瞬きを何一つ遮らない。まるで神様が黒い天鵞絨の上に、手のひらいっぱいのダイヤモンドを惜しげもなくぶちまけたかのようだ。天の川と呼ばれる無数の星々の帯が、乳白色の淡い光を放ちながら、空を雄大に横断しているのが肉眼でもはっきりと見て取れた。時折、すうっと尾を引いて流れる星が、夜の帳に儚い一筋の線を刻んでは消えていく。
「アレンさん、ジンさん、どうぞ。体が温まりますよ」
セレスが、木のカップに注いだ温かい液体を差し出してくれた。彼女が旅の途中で摘んだ薬草をブレンドした特製のお茶で、鼻を近づけると、ほんのりと甘く、心が安らぐ香りがした。一口すすると、じんわりとした温かさが喉から胃へと染み渡り、冷え切った体の芯から解きほぐされていくのを感じる。
「……サンキュ、セレス。いつも助かる」
礼を言うと、彼女は「いいえ」と控えめに微笑んだ。その笑顔は、この過酷な旅における何よりの癒やしだった。
俺は薬草茶をすすりながら、改めて火の向こうに視線を送った。そこには、薪拾いから戻ったアリーシアが、セレスの手伝いをしながら、例の少女を心配そうに見守っている。鮮やかなピンク色の髪が、ツインテールに結わえられている。派手な見た目とは裏腹に、眠っている彼女の顔はまだ幼く、あどけなさが残っていた。
とんでもない置き土産を残してくれたもんだ、全く。森で遭遇した魔物の群れ。俺たちが苦戦していたところに颯爽と(?)現れ、詠唱破りの大魔法で一掃したのは見事だったが、その代償がこれでは割に合わない。
俺たちの旅は、決して物見遊山の気楽なものではない。それぞれが背負うもの、目指す場所があって、日々の糧を得るため、時には危険な依頼もこなさなければならない。そんな旅路に、素性も知れない少女を一人、無防備なまま連れて行くのはリスクでしかない。
そんなことを考えていると、その時だった。
「……ん……ぅ……」
ほんの小さな、吐息のようなうめき声。荷台の上で、毛布にくるまっていた少女の体が、ぴくりと動いた。俺とセレス、そしてジンとアリーシアの視線が、一斉にそちらへ注がれる。
少女は、ゆっくりと重そうな瞼を押し上げた。長い睫毛が震え、現れた紫色の瞳が、ゆらゆらと揺れる焚き火の光を映して、きらりと輝いた。
「気がつきましたか?大丈夫ですか?」
いち早く我に返ったセレスが、そっと彼女のそばに寄り添い、優しい声色で語りかけた。その声には、相手を安心させる不思議な響きがある。
少女――後にルーナと名乗ることになる彼女は、ぱち、ぱち、と数回まばたきを繰り返した。焦点の合わなかった瞳が、徐々に周囲の光景を捉え始める。俺、ジン、セレス、アリーシア。そして燃え盛る焚き火と、どこまでも広がる暗い森。自分が今、どういう状況に置かれているのかを、ようやく理解したのだろう。彼女は、むくりと上半身を起こすと、プライドの高い猫が威嚇するように、ツンと顔をそむけた。その仕草には、警戒と反発が色濃く滲んでいた。
「……別に。あなたたちに助けられた覚えはないわ」
凛としてはいるが、まだ少し掠れた声だった。
「私が、あの程度の魔物を倒したついでに、あなたたちを一方的に助けてあげただけよ。感謝なら、してあげてもよくてよ?」
その言葉を聞いた瞬間、俺は思わずこめかみを押さえた。ああ、これは面倒なタイプだ。非常に、面倒なタイプだ。
「へえ、そりゃご立派なことで」
焚き火の熱で赤らんだ刀身を、手慣れた様子で布で拭っていたジンが、にやにやと意地の悪い笑みを浮かべて口を挟んだ。彼はこういう、相手の虚勢を暴いてからかうのが大好きなのだ。
「で、その自慢の最強の魔法とやらを使った結果、見事に白目剥いてぶっ倒れてたわけだが、そいつは何か新しい修行の一環かい?お嬢ちゃん」
ジンの言葉は、的確に相手の痛いところを突く。案の定、ルーナの肩がびくりと跳ねた。
「ぐっ……!な、なんですって……!」
図星を指された彼女は、一瞬言葉に詰まったが、すぐに何かを思いついたように、ふんと鼻を鳴らした。
「そ、そうよ!あれは魔力を完全に使い切った後の、極限状態における精神統一と魔力回復を兼ねた、高等な瞑想訓練よ!あなたたちみたいな凡人には、到底理解できないでしょうけどね!」
苦し紛れにもほどがある言い訳を、彼女はなぜか胸を張って、さも当然であるかのように言い放った。その姿は、いっそ清々しいほどだった。
(孤高の魔導士、括弧笑い、か……)
俺は内心で、そんな的確すぎるツッコミを入れずにはいられなかった。口に出せば、さらに事態がややこしくなるのは火を見るより明らかだったので、ぐっと飲み込んだが。
「まあまあ、お二人とも。彼女も気がついたばかりなのですから」
セレスが困ったように微笑みながら、仲裁に入る。その横で、アリーシアが「そうよ!瞑想は大事よね!私もお城でよくやったわ!」などと、明後日の方向の同意を示している。この王女様は、時々話の文脈を根こそぎ無視することがある。
「まあ、ともかく、元気になったのなら良かったわ。荷物が散らばってしまっていたから、まとめておいたわよ」
親切心からだろう。アリーシアが、ルーナの物と思われる革製の鞄を「はい」と手渡した。どうやら、彼女が倒れた拍子に鞄の口が開いてしまい、中身がいくつか外にこぼれ落ちていたらしい。アリーシアが親切にもそれを拾い集めてくれたようだ。
その、こぼれ落ちた荷物の中に、一枚の羊皮紙が紛れ込んでいたことを、アリーシアは見逃さなかった。丁寧に折りたたまれ、封蝋の跡さえ残る、それは明らかに誰かが誰かに宛てた手紙だった。
「あら、お手紙?これもあなたの落とし物かしら」
アリーシアは、その羊皮紙をひらりと拾い上げると、次の瞬間、俺たちの誰もが予想だにしなかった行動に出た。彼女は、そこに書かれた文字を読み解くと、悪気があるのかないのか、まるで舞台女優のように朗々と、そして実に豊かな抑揚をつけて読み上げ始めたのだ。
「なっ!?ちょ、ちょっと、あなた何するのよ!人のものを勝手に見ないで!」
ルーナの悲鳴にも似た制止の声が、夜の静寂に響き渡る。だが、一度スイッチの入ったアリーシアは止まらない。むしろ、その悲鳴が彼女の朗読にさらなる熱を込める結果となった。
「ええと、なになに……『愛する娘、ルーナへ。元気にしているか。お前が家を飛び出してから、もう三月が経つな。村の皆が、お前のことをとても心配している。もちろん、この父様もだ。お前が、自分の力を試したいという気持ちは分かる。偉大な魔導士になりたいという夢を、父は決して笑ったりしない。信じていないわけではないのだ。ただ、ただひたすらに、お前のその小さな体が、無事でいるかどうかが心配なのだ。もう意地を張るのはやめて、そろそろ帰ってきて、元気な顔を見せてはくれないだろうか。追伸:お前の大好物の、村一番の干し草、たくさん送っておいたからな。ちゃんと食べるんだぞ』……ですって。まあ、なんてお父様想いの……あら?」
アリーシアが読み終え、感動したように息をついた、その刹那。
「「…………ぷっ、ぶふぉっ!!」」
俺とジンが、同時に吹き出すのを止めることは、もはや誰にもできなかった。干し草て。干し草って。馬かよ、このお嬢ちゃんは。いや、確かにツインテールは馬の尻尾に似てなくもないが、それにしてもあんまりだ。腹筋が、笑いの衝撃で痙攣する。
手紙の内容を吟味し終えたアリーシアは、にこやかな、しかし有無を言わさぬ圧を放つ笑顔でルーナに向き直ると、まるで名探偵が全ての謎を解き明かし、犯人を追い詰めるかのように、ビシッと人差し指を突きつけた。
「あなた!これ、ただの家出少女じゃないの!」
その一言は、決定的な一撃だった。
図星を、それも最もクリティカルな形で突かれたルーナは、顔を耳まで、いや、首筋まで真っ赤に染め上げ、金魚のように口をパクパクさせている。言葉にならない叫びが喉の奥で渦巻いているのが、ありありと見て取れた。彼女の頭からは、ぷしゅー、と効果音が聞こえてきそうなほど、白い湯気が立ち上っているのが見えそうだった。
だが、本当の地獄は、ここからが本番だった。
俺とジンの爆笑がようやく収まりかけ、ルーナが羞恥と怒りで震えている、その混沌とした空気の中、アリーシアはすっくと仁王立ちになると、まるで世界の真理を説く預言者のように、厳かな口調で説教を始めたのだ。
「まったく、なってないわね!」
第一声からして、迫力が違う。彼女は腰に手を当て、うんうんと一人で深く頷きながら、滔々と続ける。
「親を心配させるなど、人として最低の行為よ!どれだけ心を痛めているか、考えたことがあるの!?黙って家を出るなど言語道断!論外だわ!」
その言葉は、正論だ。正論ではあるのだが。
「いいこと?旅立ちには、旅立ちの作法というものがあるのよ。私のようにね、ちゃんと置き手紙で!自分の固い意志と!明確な目的!そして、心配しないで、必ず立派になって帰ってきますという強い決意を!両親に、いえ、国民に!しかと伝えてから旅立つのが、礼儀というものなの!分かるかしら!?」
……お前が言うな。
その言葉が、俺の脳内に雷鳴のように轟いた。特大の、見事なカーブを描いたブーメランが、音速を超えてアリーシア自身の後頭部に深々と突き刺さっているのが、俺にははっきりと見えた。いや、ジンやセレスにも見えていたに違いない。ジンはもはや笑う気力も失せたのか、肩を震わせながら天を仰いでいるし、セレスは「あ、あの、アリーシア様……」と、止めようにも止められない暴走特急を前に、ただただ困惑した表情を浮かべるばかりだ。
当のアリーシアは、自分が今、どれほど矛盾したことを言っているのか、全く気づいていない。それどころか、自分の完璧な家出(と本人は思っている)を例に出し、得意満面の表情でルーナに説教を続けている。
「そもそもね、家出というのは、それ自体が目的であってはならないのよ!それはただの逃避!現実逃避に過ぎないわ!私のように、王族としての責務を果たすため、まずは外の世界を知り、民の暮らしを肌で感じるという、そういう高尚な目的があってこそ、家出は『旅立ち』へと昇華されるの!あなたの場合はどうなの!?『最強の魔導士』?結構よ、夢は大きい方がいいわ!でも、そのためにまずすべきことは、身近な人を安心させることじゃないかしら!お父様が送ってくれたという干し草!これはただの干し草ではないわ!父親の、海より深い愛情の結晶なのよ!それを無下にするなんて……!」
もはや、アリーシア劇場だった。彼女の説教は、家出論から始まり、親孝行論、果ては干し草に込められた父性愛の形而上学にまで発展しようとしている。
俺は、一方の主役である家出少女に視線を移した。ルーナは、顔を真っ赤にして俯いたまま、ぎゅっと唇を噛みしめ、ただひたすらに耐えている。時折、アリーシアの言葉に「うっ……」とか「そ、それは……」とか、か細い反論を試みるが、アリーシアの圧倒的な声量と支離滅裂な論理(?)の前に、ことごとくかき消されてしまっていた。
そして、もう一方の主役、自分のことを完璧に、一点の曇りもなく棚に上げて、悦に入りながら説教を続ける元・家出王女を交互に見比べる。
燃え盛る焚き火よりも熱く、そして混沌とした頭を、俺は思わず両手で抱え込んだ。
「どっちもどっちだ……」
俺の、心からの疲れ切った呟きは、誰の耳に届くこともなく、パチパチと楽しげに爆ぜる焚き火の音に、虚しく、実に虚しくかき消されていった。星空は、そんな俺たちのちっぽけな騒動などまるで意に介さないとでも言うように、ただただ静かに、そして美しく輝いているばかりだった。
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しかし彼は、異世界の知識を利用して新な魔法を生み出すスキル【魔学者】を使用できるが、彼はそのスキルを隠し、無能を演じていただけだった。
そうとは知らずに、彼を追放した赤いバラは、今までシロウのサポートのお陰で強くなっていたことを知らずに、ダンジョンに挑む。だが、初めての敗北を経験したり、その後借金を背負ったり地位と名声を失っていく。
一方自由になったシロウは、新な町での冒険者活動で活躍し、一目置かれる存在となりながら、追放したマリーを助けたことで惚れられてしまう。手料理を振る舞ったり、背中を流したり、それはまるで押しかけ女房だった!
これは、チート能力を手に入れてしまったことで、無能を演じたシロウがパーティーを追放され、その後ソロとして活躍して無双すると、他のパーティーから追放されたエルフや魔族といった様々な追放少女が集まり、いつの間にかハーレムパーティーを結成している物語!
悪役顔のモブに転生しました。特に影響が無いようなので好きに生きます
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ある部屋の中で男が画面に向かいながら、ゲームをしていた。
そのゲームは主人公の勇者が魔王を倒し、ヒロインと結ばれるというものだ。
そして、ヒロインは4人いる。
ヒロイン達は聖女、剣士、武闘家、魔法使いだ。
エンドのルートしては六種類ある。
バットエンドを抜かすと、ハッピーエンドが五種類あり、ハッピーエンドの四種類、ヒロインの中の誰か1人と結ばれる。
残りのハッピーエンドはハーレムエンドである。
大好きなゲームの十回目のエンディングを迎えた主人公はお腹が空いたので、ご飯を食べようと思い、台所に行こうとして、足を滑らせ、頭を強く打ってしまった。
そして、主人公は不幸にも死んでしまった。
次に、主人公が目覚めると大好きなゲームの中に転生していた。
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主人公は大好きなゲームの中に転生したことを心の底から喜んだ。
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わけありな教え子達が巣立ったので、一人で冒険者やってみた
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教え子達から突然別れを切り出されたグロウは一人で冒険者として活動してみることに。移動の最中、賊に襲われている令嬢を助けてみれば、令嬢は別れたばかりの教え子にそっくりだった。一方、グロウと別れた教え子三人はとある事情から母国に帰ることに。しかし故郷では恐るべき悪魔が三人を待ち構えていた。
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