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森に聴こえし奏で
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一月二十五日(月)
十六時 ───────
高尾駅 **
平日だというのに高尾駅は高尾山に向かう人々でごった返していた。通常は高尾山は京王高尾線で一つ先の高尾山口駅で下車するが無知な若者グループが案内板を眺めながら笑っている。高尾山は二十四時間──徒歩でだが──登る事が出来る。
招待状に書かれていたO森はこの高尾駅からの方が近い。高尾駅よりその先は神奈川県へ入ってしまう。京王高尾線も高尾山口駅が終点だ。
「コンビニほとんど売って無かったよ。おにぎりすら無かった」
そう言いながら重崎はサンドイッチを二口で平らげた。
十二時に重崎に電話した時、この期に及んで「やっぱり行かない」と言い出し、土倉は前日に詰め終えたトランクを抱え、重崎が住む芝のマンションへ押し入った。傍らにあった巨大なリュックに着替えなどを詰めて背負わせ、無理矢理電車に飛び乗った。高尾へ向かう間に必死に説得をした結果、「腹が減ったから」と駅中のコンビニに入り、サンドイッチを買って食べてるという。なんともお気楽な性格だと、土倉は呆れた。
しばらく待っていると、松岡美幸が改札から出て来るのが見えた。土倉は手を掲げ、自分の居場所を示すと、スーツケースを引きながらこちらに駆け寄って来た、
「遅くなってすみません! お待たせしちゃいましたか?」
「いえいえ、私たちが早く着いただけです。お気になさらず」
「よかったぁ」
松岡美幸は胸を撫で下ろし「ほっ」と言った。現実に「ほっ」って言葉にする人がいるのを今この瞬間、初めて目にした。ベージュのコートに、スキニージーンズとフラットブーツを合わせてる。脚の細さが尚、強調され見えない色気が溢れ出し、揺れるポニーテールからフローラルな香りがした。
土倉はその見えない色気に胸をときめかせながら、重崎を紹介した、
「松岡さん、こっちが先日お伝えしたもう一人の同伴者の重崎謙太です。──あ?」
重崎の顔を見やると、顔を強張らせ猫背気味だった背筋がピンと張り、両腕の脇を締め、硬直している。
「はじめまして、重崎さん。私、松岡美幸と申します」
「は、ははは、はじめましてであります!!」
「(あ、”あります” ?)」
「重崎謙太という者であります! 今日から、よろしくお願いしますであります!!!」
「(うっわ……緊張してやがる)」
重崎は緊張するとあります調で話す。事件現場や逆らえない上司に会う際はこうはならないが、美人に出会うと必ずこうなる。
土倉は重崎の小脇を突き、後ろに下がらせた。頬を紅潮させながら重崎はされるがまま後ろの壁にぶつかった。思いがけない重崎の言動に松岡美幸は異形な物でも見たかのように唖然としていた。
「すみません、こいつ緊張してるんですよ」
あえて 「美人の前では」という言葉を省いた。
「い、いいえ、大丈夫です。とても面白い方ですね」
取り繕うようにクスクスと口元に手を当てて松岡美幸は笑った。その可憐な表情に土倉は思わず顔がニヤケて来るのであった。重崎は壁にぶつかった事で正気を取り戻したのか、真面目な表情になり、依頼人に向き直った、
「取り乱してしまい申し訳ございません。刑事であることは、お手数ですが、内密にお願いします」
「はい…‥わかりました」
松岡美幸はコクリと頷いて、スーツケースの取っ手をぎゅっと握り締めた。
土倉たちは旅行に出掛ける訳ではない。”殺人” が行われるという現場に向かうのだ。
─────────────────────────────
一行は北口のタクシー乗り場に向かった。
駅中の混雑さとは打って変わり、タクシー乗り場は空いており難なく乗り込む事が出来た。
重崎を助手席に、土倉はタクシーの後部座席右側に座し、松岡美幸は左の後部座席に座った。土倉は松岡美幸になるべく触れぬように、運転手に「O森まで」と告げた後、ドア側に身を縮ませながら移り変わる景色を眺めた。
閑静な住宅街から常緑樹の冬の自然風景へと変わっていく。
土倉は急に思い立ち、運転手に『オリオンの館』について尋ねてみた。すると運転手は口ごもりながら、
「あんだってお客さん……そんな物騒な名前、口にしちゃいけないよぉ?」
訛りの強い話し方に土倉は少し驚いた。東京郊外の年寄りの中には多摩弁を話す人がいると聞く。引き下がることなく、土倉は質問を続けた、
「物騒とは? どういうことですか?」
「あんだってさぁ? 毎晩毎晩叫び声がするって言うじゃないかぃ? んまぁ夜にぁO森を歩く人なんざ居ねぇっていうけんど、五十メーター離れた隣家にまで聞こえるって言うよ?」
六日前に松岡さんが言っていた事か。やはりあれは真実だったのか。松岡美幸の顔をちらと見やると窓の外を見つめ続け緩やかな艶のある髪しか目に入らなかった。
しばらく黙っていると運転手が切り出した、
「そういえばよぉ? 君たちみたいに大荷物抱えて「O森に向かってくれ」と言った人が何人かいたよぉ?」
土倉は思わず身を乗り出し詳しく聞き出そうとすると助手席に座る重崎が問うた、
「何人ぐらいか分かるか? おやじさん」
「この辺りを走るタクシーはうちぐらいなんけんどねぇ? んまぁ、数までは分からんなぁ~ごめんねぇ?」
飄々とした運転手の言い方に土倉たちは調子が狂いそうであった。
しかし、はっきりした事がある。招待客は律儀に招待状に従って『オリオンの館』へ向かったという事だ。
十分か経つか経たない内に、一行はO森に到着した。
森の入り口には看板が立てられており、噂通りハイキングコースとしてもよく利用されている森であると理解できる。運転手が土倉たちの荷物を降ろすと「気ぃ付けな」と残し、タクシーはそそくさと走り出した。
ここからは徒歩で向かう事になる。封筒に入っていた地図とスマホの方角アプリを頼りに土倉たちは『館』へ足を進めた。
はじめの内は神秘的な森の雰囲気にどこかウキウキとしていたが、だんだんとこのまま迷ってしまうのでは無いかという不安が押し寄せて来た。
外とは違い、森の空気は徐々に張り詰め始め、寒さが増して来たのだった。
やけに静かだったことも土倉たちを恐怖に陥れた。鳥の鳴き声も風による木々の騒めきさえも無い。冷たい空気は感じられるのに、まるで直立不動を強いられた兵隊のようにビクとも動かない。
しばらくすると、奥の方から音の調べが耳に入って来た。
『ルイジ・ボッケリーニ 弦楽五重奏曲 第三楽章 メヌエット』
十八世紀イタリアの作曲家で弦楽器の協奏曲・四重奏曲・五重奏曲を作曲し自らも演奏を行った人物。この森の中でこのような優雅で美しい曲を聴けるとは思わず、土倉は頭が困惑した。
重崎も松岡美幸も顔を見合わせて急に耳に入り込んだクインテットの演奏に土倉と同じ思いであったようだ。
「どこから聴こえて来るんでしょう?」
松岡美幸が肩で息をしながら言った。荒い息遣いをしている依頼人に胸躍らせたがそれどころではなかった。
「『館』が近いんじゃないか?」
「そのようだな」
重崎に応えながら土倉は早足で、舗装された道の先に聴こえて来る演奏を頼りに進み入った。するとすぐに、その『館』が姿を現した。
深い谷の先に。
「あれが『オリオンの館』か。確かに不気味だな」
重崎が目を凝らしながら『館』を捉えた。
ざっと二十メートルは離れてる。誰も容易にあの場所へ辿り着く事は叶わないし、そんな長い橋のような物を手にわざわざここまで来るとは考えにくい。侵入者を拒む孤高の砦と言ったところか。
「どうすればあそこまで辿り着けるのでしょうか……」
松岡美幸が不安げにそう言うと、後ろから賑やかな若い女の声がした。
「あ~! あったあった!! あったよ! れいか!」
「かおる……! ちょっと待って……は、早いよぉ……」
薄暗がりの森には相応しくない、青春を謳歌しているかのような掛け声が響き渡り、土倉たちを振り向かせた。その時、土倉はある女の目線にどこか胸騒ぎを感じたのだった。気のせいだと思いたいほど深く、冷たい瞳であった。
「あ、すみません! もしかして招待された方たちですか~?」
ふわふわとした触り心地の良さそうなコートを着た女が土倉たちに向かって楽しそうに尋ねた。松岡美幸が急な問いに戸惑いながらもはっきりとした声色で答えた、
「そうですよ。あなた達も?」
「はい! はぁ~よかったぁ。私たちだけなんじゃないかって心配してたんですよ~! ね? れいか」
女がもう一人の、お揃いのコートを着た ”れいか” という三つ編みの眼鏡の女の顔色を窺いながら言うと彼女はうんうんと頷く。
風貌から見受けるに、二人共二十代そこそこの学生のようだ。一方は軽快で一方は気弱そうである。森の薄気味悪さから逃げるように走って来たのであろう。二人とも、息が荒く、胸を押さえながら整える様に深呼吸していた。
するとそこへ『館』側の方で物音がし、土倉たちは振り返った。門扉が鈍い音を立てながら開き、中からタキシードを着た人物が背筋を正してこちらを凝視している、
「ようこそ!! HOUSE OF THE ORIONへ!」
タキシードの人物はやけに響く深い声で流暢なイギリス英語を発した。その声から察するに五十から六十代半ばの老紳士だと分かった。動き出した向こう谷の『館』に土倉たちはたじろいだ。
「橋を下ろしますので後ろへお退がりください」
タキシードの老紳士に従い、土倉たちが後ろへ、一、二歩退がると稼働式の橋が頭上から下ろされた。中世の城でよく見られる跳ね橋とは違い、まるで天から下ろされたように上から下へと降下する不思議な形状だった。
橋が大きく音を立てて完全に固定されると、若い二人の女が歓声を上げながら古そうな木製の橋を渡って行った。橋は幅十メートル程で耐久性は良さそうだった。土倉たちも二人の女に続くように橋を渡って行った。
目の前には大きな門柱が聳え立ち、右側に薄い字で『HOUSE OF THE ORION』と書かれている。更に奥へ進むと『館』の全貌が明らかになった。
木々が取り囲むように生い茂り、石造りの建物は二階建てで、一見歪さを醸し出していたがその何とも言えぬ神秘的な雰囲気に惹かれ、土倉は思わず見惚れてしまった。
「土倉!? どうした? 入ろうぜ」
重崎に肩を叩かれるまで、土倉は何処か得体の知れない場所へと旅していたかのようだった。これが『幽霊屋敷』と呼ばれる所以なのか、見た者を魅了する何かがそこにあった。
若い二人の女がタキシードの老紳士と何やら話をした後に『館』に入って行くのを見送ると、老紳士は扉をすぐに閉め土倉たちを玄関から見下ろした、
「ようこそ、『HOUSE OF THE ORION』へ。招待状をお預かり致します」
近くで見ると、皮膚に刻まれた無数の皺がこの紳士の過ぎ去った年月を完璧なまでに表していた。老紳士ではあるものの、心地良い程までの深い声が何処か若々しく年齢の不詳を思わせた。
松岡美幸は肩に掛けたポシェットから招待状を取り出し、老紳士に手渡した、
「どうぞ」
礼儀正しく老紳士が頭を下げた後、手袋をはめた両手で招待状を受け取り、中を確認し頷いた、
「確かに。松岡美幸様、土倉勇雄様、重崎謙太様。皆様方が最後のお客様でございます。さあ、どうぞお入りくださいませ」
土倉は一瞬の違和感を感じた。招待状に名前はなかったはずだ。
「すみません……何故、私たちの名前を知ってるんですか?」
土倉の問いに老紳士は顔色を変えず、問い人の瞳の奥を見据えるように答えた、
「我が主は皆様が来ることを既にご承知なのでございます。さぁ、早くお入りください。外は冷えます」
そう言うと二度目の問いを拒否するかのように中へ入る様促して来た。五段の階段を登って『館』に入ると中は石造りの外観とは違い豪奢な城の中にいるようだった。
玄関ホールとでも言おうか。円形状の大理石の広間の頭上にはシャンデリアが煌々とオレンジ色の灯りを照らし、ホールを取り囲むように二階へ続く螺旋階段がある。壁には数々の肖像画や風景画が飾られており訪問者を迎えてくれている。
全体的にヴィクトリアン調で纏められており、アンティークファンにとっては堪らない空間であることは間違いない。
瞬く間に惹かれた『オリオンの館』。噂と外観からのギャップに土倉は度肝を抜かれた。噂で囁かれるような『幽霊屋敷』ではない。
シャーロック・ホームズを敬愛してやまない土倉にとっては、こうしたイギリス文化が色濃く表れる美術や家具に興味をそそられ、すべてに注意深く観察したいと考えたが、扉に鍵をかけ終えたタキシードの老紳士が急かす様にこちらを見つめて来た。
間もなく、『宴』が開かれる。
* * * * * *
もうすぐだ
もうすぐ……やつらを殺れる。
十六時 ───────
高尾駅 **
平日だというのに高尾駅は高尾山に向かう人々でごった返していた。通常は高尾山は京王高尾線で一つ先の高尾山口駅で下車するが無知な若者グループが案内板を眺めながら笑っている。高尾山は二十四時間──徒歩でだが──登る事が出来る。
招待状に書かれていたO森はこの高尾駅からの方が近い。高尾駅よりその先は神奈川県へ入ってしまう。京王高尾線も高尾山口駅が終点だ。
「コンビニほとんど売って無かったよ。おにぎりすら無かった」
そう言いながら重崎はサンドイッチを二口で平らげた。
十二時に重崎に電話した時、この期に及んで「やっぱり行かない」と言い出し、土倉は前日に詰め終えたトランクを抱え、重崎が住む芝のマンションへ押し入った。傍らにあった巨大なリュックに着替えなどを詰めて背負わせ、無理矢理電車に飛び乗った。高尾へ向かう間に必死に説得をした結果、「腹が減ったから」と駅中のコンビニに入り、サンドイッチを買って食べてるという。なんともお気楽な性格だと、土倉は呆れた。
しばらく待っていると、松岡美幸が改札から出て来るのが見えた。土倉は手を掲げ、自分の居場所を示すと、スーツケースを引きながらこちらに駆け寄って来た、
「遅くなってすみません! お待たせしちゃいましたか?」
「いえいえ、私たちが早く着いただけです。お気になさらず」
「よかったぁ」
松岡美幸は胸を撫で下ろし「ほっ」と言った。現実に「ほっ」って言葉にする人がいるのを今この瞬間、初めて目にした。ベージュのコートに、スキニージーンズとフラットブーツを合わせてる。脚の細さが尚、強調され見えない色気が溢れ出し、揺れるポニーテールからフローラルな香りがした。
土倉はその見えない色気に胸をときめかせながら、重崎を紹介した、
「松岡さん、こっちが先日お伝えしたもう一人の同伴者の重崎謙太です。──あ?」
重崎の顔を見やると、顔を強張らせ猫背気味だった背筋がピンと張り、両腕の脇を締め、硬直している。
「はじめまして、重崎さん。私、松岡美幸と申します」
「は、ははは、はじめましてであります!!」
「(あ、”あります” ?)」
「重崎謙太という者であります! 今日から、よろしくお願いしますであります!!!」
「(うっわ……緊張してやがる)」
重崎は緊張するとあります調で話す。事件現場や逆らえない上司に会う際はこうはならないが、美人に出会うと必ずこうなる。
土倉は重崎の小脇を突き、後ろに下がらせた。頬を紅潮させながら重崎はされるがまま後ろの壁にぶつかった。思いがけない重崎の言動に松岡美幸は異形な物でも見たかのように唖然としていた。
「すみません、こいつ緊張してるんですよ」
あえて 「美人の前では」という言葉を省いた。
「い、いいえ、大丈夫です。とても面白い方ですね」
取り繕うようにクスクスと口元に手を当てて松岡美幸は笑った。その可憐な表情に土倉は思わず顔がニヤケて来るのであった。重崎は壁にぶつかった事で正気を取り戻したのか、真面目な表情になり、依頼人に向き直った、
「取り乱してしまい申し訳ございません。刑事であることは、お手数ですが、内密にお願いします」
「はい…‥わかりました」
松岡美幸はコクリと頷いて、スーツケースの取っ手をぎゅっと握り締めた。
土倉たちは旅行に出掛ける訳ではない。”殺人” が行われるという現場に向かうのだ。
─────────────────────────────
一行は北口のタクシー乗り場に向かった。
駅中の混雑さとは打って変わり、タクシー乗り場は空いており難なく乗り込む事が出来た。
重崎を助手席に、土倉はタクシーの後部座席右側に座し、松岡美幸は左の後部座席に座った。土倉は松岡美幸になるべく触れぬように、運転手に「O森まで」と告げた後、ドア側に身を縮ませながら移り変わる景色を眺めた。
閑静な住宅街から常緑樹の冬の自然風景へと変わっていく。
土倉は急に思い立ち、運転手に『オリオンの館』について尋ねてみた。すると運転手は口ごもりながら、
「あんだってお客さん……そんな物騒な名前、口にしちゃいけないよぉ?」
訛りの強い話し方に土倉は少し驚いた。東京郊外の年寄りの中には多摩弁を話す人がいると聞く。引き下がることなく、土倉は質問を続けた、
「物騒とは? どういうことですか?」
「あんだってさぁ? 毎晩毎晩叫び声がするって言うじゃないかぃ? んまぁ夜にぁO森を歩く人なんざ居ねぇっていうけんど、五十メーター離れた隣家にまで聞こえるって言うよ?」
六日前に松岡さんが言っていた事か。やはりあれは真実だったのか。松岡美幸の顔をちらと見やると窓の外を見つめ続け緩やかな艶のある髪しか目に入らなかった。
しばらく黙っていると運転手が切り出した、
「そういえばよぉ? 君たちみたいに大荷物抱えて「O森に向かってくれ」と言った人が何人かいたよぉ?」
土倉は思わず身を乗り出し詳しく聞き出そうとすると助手席に座る重崎が問うた、
「何人ぐらいか分かるか? おやじさん」
「この辺りを走るタクシーはうちぐらいなんけんどねぇ? んまぁ、数までは分からんなぁ~ごめんねぇ?」
飄々とした運転手の言い方に土倉たちは調子が狂いそうであった。
しかし、はっきりした事がある。招待客は律儀に招待状に従って『オリオンの館』へ向かったという事だ。
十分か経つか経たない内に、一行はO森に到着した。
森の入り口には看板が立てられており、噂通りハイキングコースとしてもよく利用されている森であると理解できる。運転手が土倉たちの荷物を降ろすと「気ぃ付けな」と残し、タクシーはそそくさと走り出した。
ここからは徒歩で向かう事になる。封筒に入っていた地図とスマホの方角アプリを頼りに土倉たちは『館』へ足を進めた。
はじめの内は神秘的な森の雰囲気にどこかウキウキとしていたが、だんだんとこのまま迷ってしまうのでは無いかという不安が押し寄せて来た。
外とは違い、森の空気は徐々に張り詰め始め、寒さが増して来たのだった。
やけに静かだったことも土倉たちを恐怖に陥れた。鳥の鳴き声も風による木々の騒めきさえも無い。冷たい空気は感じられるのに、まるで直立不動を強いられた兵隊のようにビクとも動かない。
しばらくすると、奥の方から音の調べが耳に入って来た。
『ルイジ・ボッケリーニ 弦楽五重奏曲 第三楽章 メヌエット』
十八世紀イタリアの作曲家で弦楽器の協奏曲・四重奏曲・五重奏曲を作曲し自らも演奏を行った人物。この森の中でこのような優雅で美しい曲を聴けるとは思わず、土倉は頭が困惑した。
重崎も松岡美幸も顔を見合わせて急に耳に入り込んだクインテットの演奏に土倉と同じ思いであったようだ。
「どこから聴こえて来るんでしょう?」
松岡美幸が肩で息をしながら言った。荒い息遣いをしている依頼人に胸躍らせたがそれどころではなかった。
「『館』が近いんじゃないか?」
「そのようだな」
重崎に応えながら土倉は早足で、舗装された道の先に聴こえて来る演奏を頼りに進み入った。するとすぐに、その『館』が姿を現した。
深い谷の先に。
「あれが『オリオンの館』か。確かに不気味だな」
重崎が目を凝らしながら『館』を捉えた。
ざっと二十メートルは離れてる。誰も容易にあの場所へ辿り着く事は叶わないし、そんな長い橋のような物を手にわざわざここまで来るとは考えにくい。侵入者を拒む孤高の砦と言ったところか。
「どうすればあそこまで辿り着けるのでしょうか……」
松岡美幸が不安げにそう言うと、後ろから賑やかな若い女の声がした。
「あ~! あったあった!! あったよ! れいか!」
「かおる……! ちょっと待って……は、早いよぉ……」
薄暗がりの森には相応しくない、青春を謳歌しているかのような掛け声が響き渡り、土倉たちを振り向かせた。その時、土倉はある女の目線にどこか胸騒ぎを感じたのだった。気のせいだと思いたいほど深く、冷たい瞳であった。
「あ、すみません! もしかして招待された方たちですか~?」
ふわふわとした触り心地の良さそうなコートを着た女が土倉たちに向かって楽しそうに尋ねた。松岡美幸が急な問いに戸惑いながらもはっきりとした声色で答えた、
「そうですよ。あなた達も?」
「はい! はぁ~よかったぁ。私たちだけなんじゃないかって心配してたんですよ~! ね? れいか」
女がもう一人の、お揃いのコートを着た ”れいか” という三つ編みの眼鏡の女の顔色を窺いながら言うと彼女はうんうんと頷く。
風貌から見受けるに、二人共二十代そこそこの学生のようだ。一方は軽快で一方は気弱そうである。森の薄気味悪さから逃げるように走って来たのであろう。二人とも、息が荒く、胸を押さえながら整える様に深呼吸していた。
するとそこへ『館』側の方で物音がし、土倉たちは振り返った。門扉が鈍い音を立てながら開き、中からタキシードを着た人物が背筋を正してこちらを凝視している、
「ようこそ!! HOUSE OF THE ORIONへ!」
タキシードの人物はやけに響く深い声で流暢なイギリス英語を発した。その声から察するに五十から六十代半ばの老紳士だと分かった。動き出した向こう谷の『館』に土倉たちはたじろいだ。
「橋を下ろしますので後ろへお退がりください」
タキシードの老紳士に従い、土倉たちが後ろへ、一、二歩退がると稼働式の橋が頭上から下ろされた。中世の城でよく見られる跳ね橋とは違い、まるで天から下ろされたように上から下へと降下する不思議な形状だった。
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重崎に肩を叩かれるまで、土倉は何処か得体の知れない場所へと旅していたかのようだった。これが『幽霊屋敷』と呼ばれる所以なのか、見た者を魅了する何かがそこにあった。
若い二人の女がタキシードの老紳士と何やら話をした後に『館』に入って行くのを見送ると、老紳士は扉をすぐに閉め土倉たちを玄関から見下ろした、
「ようこそ、『HOUSE OF THE ORION』へ。招待状をお預かり致します」
近くで見ると、皮膚に刻まれた無数の皺がこの紳士の過ぎ去った年月を完璧なまでに表していた。老紳士ではあるものの、心地良い程までの深い声が何処か若々しく年齢の不詳を思わせた。
松岡美幸は肩に掛けたポシェットから招待状を取り出し、老紳士に手渡した、
「どうぞ」
礼儀正しく老紳士が頭を下げた後、手袋をはめた両手で招待状を受け取り、中を確認し頷いた、
「確かに。松岡美幸様、土倉勇雄様、重崎謙太様。皆様方が最後のお客様でございます。さあ、どうぞお入りくださいませ」
土倉は一瞬の違和感を感じた。招待状に名前はなかったはずだ。
「すみません……何故、私たちの名前を知ってるんですか?」
土倉の問いに老紳士は顔色を変えず、問い人の瞳の奥を見据えるように答えた、
「我が主は皆様が来ることを既にご承知なのでございます。さぁ、早くお入りください。外は冷えます」
そう言うと二度目の問いを拒否するかのように中へ入る様促して来た。五段の階段を登って『館』に入ると中は石造りの外観とは違い豪奢な城の中にいるようだった。
玄関ホールとでも言おうか。円形状の大理石の広間の頭上にはシャンデリアが煌々とオレンジ色の灯りを照らし、ホールを取り囲むように二階へ続く螺旋階段がある。壁には数々の肖像画や風景画が飾られており訪問者を迎えてくれている。
全体的にヴィクトリアン調で纏められており、アンティークファンにとっては堪らない空間であることは間違いない。
瞬く間に惹かれた『オリオンの館』。噂と外観からのギャップに土倉は度肝を抜かれた。噂で囁かれるような『幽霊屋敷』ではない。
シャーロック・ホームズを敬愛してやまない土倉にとっては、こうしたイギリス文化が色濃く表れる美術や家具に興味をそそられ、すべてに注意深く観察したいと考えたが、扉に鍵をかけ終えたタキシードの老紳士が急かす様にこちらを見つめて来た。
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* * * * * *
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