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第一章 樹下の接吻
八
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翌日の夜、昨日とは打って変わって、月は雲に隠れていた。
強い風が庭の木々の葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。
それでも桜子は、屋敷の人間が寝静まったころ、自室を抜け出し、恋しい天音の待つクスノキに急いだ。
「天音」
上着の袖を抜いて肩にかけ、クスノキにもたれかかっている天音。
その姿を見たとたん、桜子は駆け出し、彼の胸に飛びこんだ。
「こんなにも夜が待ち遠しかったのは、生まれてはじめてでした」
「私も同じでしたよ。どれほど桜子様にお逢いしたかったことか……」
愛しい人の腕に抱かれ、彼の体温を感じられることが、こんなにも嬉しい。
「桜子様」
桜子は天音の胸に顔を埋めたまま、首を振った。
「どうか桜子と呼んでください。様なんていりません。そのかしこまった言葉遣いもやめて。よそよそしいのは嫌」
天音はふっと微笑んだ。
そして……
桜子の耳に唇を寄せると、一音一音慈しむように「さ・く・ら・こ」と呼んだ。
自らの想いを注ぎこむかのように甘く。
そうされて、桜子は身体からすべての力が抜けていくように感じ、救いを求めるような目を天音に向けた。
天音はその視線を受けとめ、それから、少し困ったような声で言った。
「そんな顔をされたら……我慢できなくなってしまうよ」
何を、と問おうとして顔を上げた瞬間、ふわりと柔らかなものが桜子の唇に触れた。
なにしろ初めてのこと。
接吻しているのだ、と気づくまで少し時間がかかった。
唇を離し、ふたたび抱きしめられた桜子は、昨日の何十倍も何百倍も、天音を好きになっている自分を感じていた。
***
「美津、折り入ってお願いがあるのだけれど」
翌朝、桜子は朝の支度を手伝いに来たお付きの女中、美津に耳打ちした。
「今日の午後、二人でお汁粉屋さんの『若松』に参りましょう。おやつをいただきながらお話したいわ」
「わかりました、お嬢様」
甘いものに目のない美津は、嬉しそうに答えた。
美津は、今、十五歳。
桜子が女学校に入学したときから、彼女のお付きとなった。
桜子は素直で優しい心根の彼女をとても可愛がっていた。
美津も美しく聡明な桜子を女神のように崇めていた。
だから、美津は桜子の言うことなら、なんでも聞く。
昨夜、樹の下で桜子を抱きしめたまま、天音は言った。
「貴女に仕えている女中の誰か、使いをしてくれる者がいないだろうか。いつもここで逢引というわけにもいかないし」
桜子は「逢引」という言葉に顔が熱くなるのを感じながら、美津のことを思い浮かべていた。
「わかった? 美津。天音さんから文を受け取ったら、誰にも見せずにわたくしに渡してほしいの」
美津は甘い汁粉に顔をほころばせながら、こくんと頷いた。
こうして二人は、綱渡りのように危うい恋の道に分け入りはじめたのであった。
強い風が庭の木々の葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。
それでも桜子は、屋敷の人間が寝静まったころ、自室を抜け出し、恋しい天音の待つクスノキに急いだ。
「天音」
上着の袖を抜いて肩にかけ、クスノキにもたれかかっている天音。
その姿を見たとたん、桜子は駆け出し、彼の胸に飛びこんだ。
「こんなにも夜が待ち遠しかったのは、生まれてはじめてでした」
「私も同じでしたよ。どれほど桜子様にお逢いしたかったことか……」
愛しい人の腕に抱かれ、彼の体温を感じられることが、こんなにも嬉しい。
「桜子様」
桜子は天音の胸に顔を埋めたまま、首を振った。
「どうか桜子と呼んでください。様なんていりません。そのかしこまった言葉遣いもやめて。よそよそしいのは嫌」
天音はふっと微笑んだ。
そして……
桜子の耳に唇を寄せると、一音一音慈しむように「さ・く・ら・こ」と呼んだ。
自らの想いを注ぎこむかのように甘く。
そうされて、桜子は身体からすべての力が抜けていくように感じ、救いを求めるような目を天音に向けた。
天音はその視線を受けとめ、それから、少し困ったような声で言った。
「そんな顔をされたら……我慢できなくなってしまうよ」
何を、と問おうとして顔を上げた瞬間、ふわりと柔らかなものが桜子の唇に触れた。
なにしろ初めてのこと。
接吻しているのだ、と気づくまで少し時間がかかった。
唇を離し、ふたたび抱きしめられた桜子は、昨日の何十倍も何百倍も、天音を好きになっている自分を感じていた。
***
「美津、折り入ってお願いがあるのだけれど」
翌朝、桜子は朝の支度を手伝いに来たお付きの女中、美津に耳打ちした。
「今日の午後、二人でお汁粉屋さんの『若松』に参りましょう。おやつをいただきながらお話したいわ」
「わかりました、お嬢様」
甘いものに目のない美津は、嬉しそうに答えた。
美津は、今、十五歳。
桜子が女学校に入学したときから、彼女のお付きとなった。
桜子は素直で優しい心根の彼女をとても可愛がっていた。
美津も美しく聡明な桜子を女神のように崇めていた。
だから、美津は桜子の言うことなら、なんでも聞く。
昨夜、樹の下で桜子を抱きしめたまま、天音は言った。
「貴女に仕えている女中の誰か、使いをしてくれる者がいないだろうか。いつもここで逢引というわけにもいかないし」
桜子は「逢引」という言葉に顔が熱くなるのを感じながら、美津のことを思い浮かべていた。
「わかった? 美津。天音さんから文を受け取ったら、誰にも見せずにわたくしに渡してほしいの」
美津は甘い汁粉に顔をほころばせながら、こくんと頷いた。
こうして二人は、綱渡りのように危うい恋の道に分け入りはじめたのであった。
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