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第一章 樹下の接吻

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 翌日の夜、昨日とは打って変わって、月は雲に隠れていた。
 強い風が庭の木々の葉を揺らし、ざわざわと音を立てている。

 それでも桜子は、屋敷の人間が寝静まったころ、自室を抜け出し、恋しい天音の待つクスノキに急いだ。

「天音」

 上着の袖を抜いて肩にかけ、クスノキにもたれかかっている天音。

 その姿を見たとたん、桜子は駆け出し、彼の胸に飛びこんだ。

「こんなにも夜が待ち遠しかったのは、生まれてはじめてでした」

「私も同じでしたよ。どれほど桜子様にお逢いしたかったことか……」

 愛しい人の腕に抱かれ、彼の体温を感じられることが、こんなにも嬉しい。
「桜子様」

 桜子は天音の胸に顔を埋めたまま、首を振った。

「どうか桜子と呼んでください。様なんていりません。そのかしこまった言葉遣いもやめて。よそよそしいのは嫌」

 天音はふっと微笑んだ。

 そして……
 桜子の耳に唇を寄せると、一音一音慈しむように「さ・く・ら・こ」と呼んだ。

 自らの想いを注ぎこむかのように甘く。

 そうされて、桜子は身体からすべての力が抜けていくように感じ、救いを求めるような目を天音に向けた。

 天音はその視線を受けとめ、それから、少し困ったような声で言った。

「そんな顔をされたら……我慢できなくなってしまうよ」

 何を、と問おうとして顔を上げた瞬間、ふわりと柔らかなものが桜子の唇に触れた。

 なにしろ初めてのこと。
 接吻しているのだ、と気づくまで少し時間がかかった。
 
 唇を離し、ふたたび抱きしめられた桜子は、昨日の何十倍も何百倍も、天音を好きになっている自分を感じていた。
 
***

「美津、折り入ってお願いがあるのだけれど」

 翌朝、桜子は朝の支度を手伝いに来たお付きの女中、美津に耳打ちした。

「今日の午後、二人でお汁粉屋さんの『若松』に参りましょう。おやつをいただきながらお話したいわ」
「わかりました、お嬢様」

 甘いものに目のない美津は、嬉しそうに答えた。

 美津は、今、十五歳。

 桜子が女学校に入学したときから、彼女のお付きとなった。

 桜子は素直で優しい心根の彼女をとても可愛がっていた。

 美津も美しく聡明な桜子を女神のように崇めていた。

 だから、美津は桜子の言うことなら、なんでも聞く。


 昨夜、樹の下で桜子を抱きしめたまま、天音は言った。

「貴女に仕えている女中の誰か、使いをしてくれる者がいないだろうか。いつもここで逢引というわけにもいかないし」

 桜子は「逢引」という言葉に顔が熱くなるのを感じながら、美津のことを思い浮かべていた。

「わかった? 美津。天音さんから文を受け取ったら、誰にも見せずにわたくしに渡してほしいの」

 美津は甘い汁粉に顔をほころばせながら、こくんと頷いた。


 こうして二人は、綱渡りのように危うい恋の道に分け入りはじめたのであった。
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