蠱惑

壺の蓋政五郎

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蠱惑『万年塀の影』

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 白黒のはがき大の写真を叔母が差し出した。
「これはお前さんの母親だよ。兄さんが昔遊びに来た時に映した一枚さ」
 背景は万年塀でそこに自転車が立て掛けてある。大人用でサドルとハンドルを結ぶ補強がある自転車だ。写真中央に立つスマートな女が叔母の言う私の母なのか。子供が二人いる。前に立つ三歳ぐらいの女の子の肩に母の左手が添えられている。その子が姉だろうか、自分より一回り小さな人形を抱えている。母が左に抱きかかえているのは丸坊主の一歳を迎えたばかりの男の子、これが兄に違いない、難しい顔をしてカメラを見つめている。母親は至ってにこやかで幸せですよと自慢げである。母親の腹が少し膨れている。懐妊しているのだろう。腹の膨らみが手前から射す西日で万年塀に影となって写っている。この影が私と言うことになる。

 叔父の告別式が終わり親族だけで法要している。親戚関係は全て兄任せであった。今回は兄の体調不良により仕方なく来た。叔母宅に来たのも数十年ぶりで顔も忘れていた。両親が離婚したのは私が二歳の時だと聞いている。この写真はその一年か二年前に写されたのである。離婚時に母は姉だけを引き取った。父親は兄と私を仕方なく受け持つ形となった。母には離婚前から男がいて実家から逃げるように出て行ったと兄から聞いたことがある。
「叔母さんこれもらってもいいですか?」
 叔母は頷いた。私も還暦を過ぎている。別れた時から母も姉もその存在すら気にしたことがなかった。私が気にしていないから先方が気にしていないとは言い切れない。私にも二人の娘がいる。離婚し家内が二人を連れて行ってもう二十年になる。どうしているか心配で寝付けない夜もある。この写真の母も同じ思いでいたのかもしれない。六十年経っても親心は存在しているだろう。だが生存しているかどうかも分からない。そう思うと急に母に会ってみたくなった。
「叔母さん、母の住所は分からなによね?」
 叔母は奥に行き海苔の缶に溜めた葉書の山をまさぐった。それらしいと思う物を缶から出して畳に置いた。そして三十年前の葉書を見付けた。缶を掘り起こすと同じ住所の葉書が三十枚も見つかった。
「これは母から、姉から?」
 姉からの葉書だった。季節の挨拶ではなく、叔母に無心をしていたらしい。その礼と返済の言い逃れのような内容だった。私は住所をメモした。電話番号も書かれていた。三十年前の電話番号、現在も使われているのだろうか。私はスマホで掛けてみた。呼び出し音が鳴る。姉でなくても誰かが使用している。留守電の案内が始まる。
「拓郎です」
 それだけ言って切った。指が震える。もしかしたら五つ上の姉が六十年ぶりにこの声を聞くかもしれない。二歳の私だから話すことが出来たのかどうか、そもそも私の声も名前も知らないかもしれない。
 翌日の作業所が横浜緑区だった。定職を持たない私は警備員をアルバイトで長い間続けている。姉の住所が緑区である。帰りに寄ってみるつもりだ。電話もいいが何と切り出せばいいのか、小心の私は相手が出たら切ってしまうのが落ちである。今日の作業は道路での旗振りである。片側交互に通行させる。気の短いドライバーに罵声を浴びせられてもじっと耐えるのみである。そういう時に限り三十秒が長く感じる。じっと車の前に反射棒を突き出す恐怖にやっと耐えている。中には反射棒に触れる数ミリまで寄せるドライバーもいる。ぶつけてしまえば私の責任が問われる。私は少し前に出て距離を取るとその分寄せて来る。車内から笑い声が聞こえる。一日を三十秒刻みにすると嫌と言うほど長く感じる。監督から作業終了の合図が出ると倒れたくなるほど疲れている。
「明日はどうなりますか?」
 会社に電話をすると引き続きこの作業だそうだ。断れば即首である。既に三十秒刻みの恐怖が脳内で始まっている。恐らく今夜は寝付けないだろう。しかし考えても何も変わらない。私は姉の住所を探し始めた。一番新しい葉書ですら三十年前のものである。元気でいてくれることの期待より既にこの世にいない期待が僅かだが優っている。死を知れば経を唱えてごまかすことで満足する自分が見える。そうやって六十年以上を生きてきた。
 メモした住所には大きな屋敷が一軒と朽ちそうな家と言うより小屋に近い一軒がある。屋敷が大家で小屋が借家人だろうか。それとも離れとか物置に使用しているのだろうか。一度素通りする。もし屋敷の主が母か姉であれば相当裕福な暮らしをしている。もし小屋の借地人であればその逆だろう。緑区とは言え駅から五分にこれだけの土地を所有していれば不動産だけでも相当な資産である。屋敷の前をゆっくりと通過する。ピアノの音が聞こえる。ドッグランがあり大型の犬が三匹走り回っている。後ろ向きで顔は確認出来ないが、車椅子に乗る銀髪の老婆が走る犬を見ている。年配の女が老婆の肩にストールを掛けた。私より少し年上だろうか、背の高い女である。まさか母と姉。期待が膨らむ。背の高い椿の囲いの内側には大木が並木のように立ち並んでいる。屋敷からはその大木で死角になる日当たりの悪い位置に小屋が立っている。椿の垣根の隙間から小屋を覗いた。洗濯物が干してある。夫人物でそれも高齢者が着用する衣類である。色も地味で下着も茶系で厚手である。日陰だから一日干しても乾きそうにない。声が聞こえる。
「ウワーオ」
 唸り声のようである。
「分かった分かった今用意するから」
 唸り声とは違う女の声である。
 まさかこの二人が母と姉。三十年前の葉書には無心と返済の言い訳が書いてあった。だがその後の三十年で環境が変わったことも十分考えられる。私は期待と不安をアパートに持ち帰った。明日も同じ作業所である。帰りに寄る楽しみが出来た。対面は慌てることはない、既に六十年が過ぎている。見極めてから挨拶しよう。もし屋敷の持ち主が母か姉ならどうしよう。こんなガードマンの衣装で汚れたバッグを担いで行くわけにはいかない。
 辛い一日も午後三時を回り作業員達が休憩に入る。私達に休憩はない。空いたときに交代で取るよう監督から指示されているがどうしてこの場を離れることが出来ようか。交互規制が乱れれば大混乱となる。お昼休みの一時間は監督が代わってくれるが休憩場所など無く歩道の脇で弁当を広げて食べる。すぐ前を歩行者が行く中ゆっくりと食べることは出来ない。早朝にさっと詰める弁当は人に見せられるほど豪華ではなくまた美味そうに見えもしない。白飯の上に市販の佃煮を載せただけで、バックの中で弁当箱が横になり、飯が片寄りして空いたところに佃煮が落ちている。お茶で掻き込み一服しているとまだ十五分しか経っていないのに監督が目を細めてこちらを見ている。口には出さなくともその目は早く交代しろよと言っている。弁当箱を新聞紙に包んで輪ゴムで止めるもゴムが切れてしまう。新聞紙はだらしなく広がるがそのままバッグに仕舞い込む。バッグは先日の弁当箱から零れた汁が饐えた臭いを放っている。着替えに臭いが移りはしないか心配である。
「ねえ、この工事いつまで続くの?」
 反射棒を超えて停まるセダンのサラリーマン風が窓を開けて私に問う。監督からは余計なことは話さずに笑顔でご迷惑をおかけしていますと軽く一礼するよう指示されている。
「ご迷惑をかけております」
「いやそうじゃなくていつまで続くのこの工事?」
 三十秒、相方が車を停めた。反射棒を上げて進行方向に振る。
「ばーか」
 その瞬間キーンと耳鳴りがした。その一言は私の人生全ても否定されたように重く圧し掛かった。作業を終了しても耳鳴りは続いた。会社に作業終了の報告をする。明日の作業所を確認するとこの工事が終わるまで担当しろとのことである。歩道で着替えていると監督が近付いて来る。
「あのさ、こんなところで着替えてみっともないと思わない、うちの会社が恥かくから止めてくんない。駅とかコンビニとか少しは考えてよおじさん」
 若い監督の言う通りかもしれないが、駅でもコンビニでもトイレで着替えることがどれだけ難しく迷惑を掛けるかこの先経験することがない若い監督には理解しようがないことである。私はすいませんと謝罪してズボンだけを穿き替えて近くのコンビニに向かった。トイレを借りる前に煙草を購入した。何も買わずにトイレだけ使用する勇気がない。ごみもそうである。買ったコンビニのごみなら堂々と捨てられるが、他所のごみは捨てられない。一度同僚に考え過ぎだと笑われた。ごみ箱にごみを捨てるのに遠慮はいらない。むしろ褒めてもらうべきだ。確かに一理あると思うが、私にはそこまで割り切って考えることが出来ない。作業着からワイシャツに替えた。顔を洗い髪を梳かした。速やかにやったつもりだがトイレ待ちが二人いた。若い職人が舌打ちをして私を睨んだ。バッグをパチンコ屋の横にあるコインロッカーに入れて姉の住所先に向かう。今日は葉書を持って来た。表札がある表に回る。『木村義男』とある。葉書とは違う。もしかして嫁に入ったかもしれない。三十年続いた叔母への葉書は三十年前にぷつんと途切れた。途切れたと言うことは無心が必要なくなったということか。借金は全て返済してくれたと叔母は言っていた。そうに違いない。そうでなければ無心が続く筈だ。犬が私に気付いて吠えた。威嚇ではなく尾を振り歓迎している様子だ。車椅子の老婆が玄関を出てアプローチを下る。
「可愛いワンちゃんですね」
 老婆は頷いて犬を撫ぜた。
「どこかでお会いしましたか。忘れっぽいのでごめんなさいね」
 品のいい喋り方が幸福そうな家庭を物語る。
「お母さん、冷えるわよ」
 お母さんと呼ぶからには娘であろう。娘と目が合った。
「何か?」
 玄関前にいる私のことを怪訝に感じたのだろう。
「失礼しました。あまりワンちゃんが可愛いもので」
 私は一礼してその場を去った。そしてこの家の私道であろうか、屋敷の外周なりに整備された路を行く。車が一台通行するのがやっとの狭い路をしばらく歩くと小屋の前に出た。居住者がいるのだから小屋と言う表現は失礼だろう。小さくても長屋アパートで一間と台所に暮らす私よりはずっといい。椿の垣根が途切れて車が一台止められるスペースがある。モルタルで刷毛引きの駐車場には落ち葉が溜まっている。駐車場の部分だけ椿の垣根がコの字型に道路よりバックしている。駐車場は黄色いプラスチックのチェーンで塞がれている。その横にドアがある。表札は赤いポストに紙の差し込み式だが随分と前に差し込んだと思われ紙が千切れて消えている。私はチェーンを跨いで右角に三角に残った部分を確認するがインクが滲んで読み取れない。その時ドアが開いた。
「何ですか?」
 慌ててチェーンに足を掛けて前のめりに手を突いてしまった。郵便でも宅配でもない服装の私に出て来た夫人は目を細めた。
「すいません、同僚から人捜しを頼まれて、表札のお名前を拝見していたところで、驚かして申し訳ありません」
 私と同年代の夫人は痩せて冬物のパジャマ姿だった。
「石川です。あなたは?」
 夫人は警戒を解いていない。
「真崎です。真崎二郎」
 同僚の名前を使った。もしもこの女が私の姉であれば困る。そう直感しての嘘だった。それはこの女もそうだろう。実の弟と名乗る私の身なりを見て、がっかりするかもしれないと考えが交錯したのも事実である。
「ウワーオ」
 中から呻き声が聞こえる。
「その同僚の方のお名前は?」
「中村です、中村進」
 本名を名乗った。夫人が反応した。
「中村?私以前は中村姓だったの。親戚の方かしら」
 姉だろうか。
「ちょっと待って」
 夫人は中に戻りすぐに出て来て私に中に入るよう言った。
 玄関から部屋までスロープになっている。車椅子対応だろう。障子は破け新聞紙が貼ってある。
「お母さん、この人は中村と言う人から人捜しを頼まれて来たの」
 娘は母親から私に向かった。
「たまに通風の痛みに堪え切れずに叫ぶけど、ぼけていないわよ」
 親子は顔を合わせて笑った。この人が母なのだろうか。あの写真と結び付けることは難しい。それにこの親子と肉親であることが証明出来ても私の負担が増えるだけである。それにまだ屋敷の親子が別人であると決まったわけではない。ここは使者ということで通してしまおう。
「中村何て、あんたの友達?」
 歯がないので喋るたびに唇の出入りが激しい。
「中村進です、之繞の進むです」
 母親は思い出せないようである。
「それ何時頃の話なの」
 娘がお茶を入れてきた。湯飲みは欠けているし茶渋が凄い。
「六十年前の話だそうです」
 私が娘と話している間母親はじっと私の目を見つめている。私は生まれつき黒目が少し内側に寄っている。その私の目をじっと見つめていた。
「その人の子供の頃の写真はあるの?」
 娘が私に聞いた。姉の名前を聞いて葉書と一致すればそれで判明する。しかし怖くて聞けない。真の親子だったらどうすればいいのだろう。そうだとぼけてしまおう、友人に伝えると嘘を吐いて帰ればいいだけのことだ。
「すいませんが、お名前を教えてくれませんか、友人の記憶では、姉の名前が良子だそうです」
 二人共仰け反った。当たりだった。この小屋の住人が私の母と姉である。姉は立ち上がりアルバムを持って来た。そこには私が叔母からもらった写真と同じのが貼ってある。そして姉が指差した一枚は兄妹三人と夫婦が並んだ写真だった。
「この子が進です。私も記憶にないけど元気でいますか?」
 姉が言った。母親は泣いている。
「ええ、元気でいます。しっかりと伝えておきます」
 母親が私の手を握った。母の手は冷たくがさついていた。
「進は今何をしているの?」
 母親が私の手を握ったまま訪ねた。
「警備員をしています。道路で旗を振るあの警備員です」
「そう、まじめに働いているんだね」
 私に確認するように頷いた。
「食事に来て、あなたが連れて来て。ね、ご馳走するから」
 姉は懇願した。旗振り警備員と言ったから姉は上から目線でご馳走するなどと強きになったのだろうか。この陰気な小屋の中で飯など食えない。これで私の六十年前の母親捜しも呆気なく終了した。屋敷の親子が私の家族なら飛び込んだかもしれない。しかしそんな都合のいい話もないだろう。私は母と姉に一礼して元の道に戻った。
 屋敷の親子が大きな犬と戯れている。犬が私に気付いて駆け寄って来る。手摺越しに頭を撫でる。娘が車椅子を押して近付いて来た。
「大家さんのお知合いだったんですね、申し訳ないけど不審者と感じてあなたの後を追うと、駐車場から入られるのを見たので。御免なさいね」
 娘は大家さんと言ったようだが聞き違いだろう。
「大家さんて仰いましたか?」
「ええ大家さんですもの、うちは借間人ですから」
 聞き間違いではなかった。
「でも大家さんがどうしてあの小屋にお住まいなのですか?」
「この山の裏にもっと広い敷地に大きな屋敷を持っていらして、そこを改修工事しているの。そりゃ大きなおうちよ。それであの小屋に仮住まいしてるらしいわ。お金持ちは無駄をしないから残るのよ。うちなんか引っ越し貧乏、もうここも出るのよ」
「ここを出られるのですか?」
「まだここに入る方が決まっていないようですよ。快適よ、何しろ森みたいな敷地を自由に使ってもいいのよ。それで四十万はお得よ。大家さんと直接契約だから礼金も敷金も無し」
 夢のような話である。私がこの敷地、いやこの山の裏にはもっと広い敷地の中に宅がある。その地主と私は親子である。そうだ引き返そう。友人に頼まれたのは嘘だと言おう。お母さん、お姉さん、と抱き付いてしまおうか。私は小屋の駐車場の前に来ていた。そうだこの写真を見せれば直ぐに分かる。私は写真をポケットから出しました。おかしい、中央に立つスマートな母、母に抱かれた兄、母の前で大きな人形を抱える姉、背景の万年塀、それに立て掛けられた男物の自転車。それに変わりはないが、母の胎が膨れていない。万年塀の母の影に私はいない。
 
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