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チェリー叔母さん 3
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「やっぱり、これじゃ仕事どころじゃないわな。さざえねえさーん」
チェリー叔母さんが呼ぶと小屋の最年長さざえ姉さんがゴンドラ室に上がって来た。さざえ姉さんは一回目の出番が終わり化粧を落としてさっぱりした様子だった。男物の甚平を着ている。髪はカツラを外すとショートヘアー、と言うより角刈りに近い。
「どうしたチェリー?」
「幸太郎が興奮してんの、運転誤ると酔うから軽くしてやって欲しいの。まさか叔母のあたいが抜くわけにもいかないからさ」
映画仁義なき戦いに出て来そうなさざえ姉さんが僕の股間を見た。
「幸太郎、お前チェリーの尻見て興奮したか?空想近親相姦て言うんだそういうの。ほれズボン脱げ、軽くしてやるから、ゴンドラ操作間違ったらみんな酔って次のステージに立てないぞ」
どうしていいか混乱した。彼女達は仕事柄そういうことには慣れているかもしれないが、歌手の水着姿でも興奮する僕等には考えられない何かが始まろうとしている。そしてその獲物は僕自身である。さざえ姉さんは左手指の関節を一本ずつ鳴らした。そして甚平の袖を手繰った。
「さあ出せ」
出せと言われてもそうもいかない。それに恐怖と言うかさざえ姉さんの指がごっつくて、それに握られると思うと倅もおとなしくなった。
「あれ、おとなしくなったな、チェリー、大丈夫そうだな運転」
「良かった、姉さんありがとう」
「いいさ、いつでも抜いてやるさ、幸太郎、我慢出来なくなったらいつでもあたしんとこに来なよ。たっぷりとぶち抜いてやるから」
「ありがとうございます」
どうして礼をするのか、果たして礼が適当かどうか、だけど事態が収拾してホッとした。チェリー叔母さんは黄金劇場と井土ヶ谷春風座を一月交代で移動していた。僕は迷っていた。チェリー叔母さんから声を掛けられた時は日給一万五千円に舞い上がったが、昼夜勤務だから時給換算すればそれほどでもない事に気付いた。ただ仕事は楽で疲労はなくただいつも少し眠い、それさえ我慢していれば確かにいい仕事だった。大学の仲間とも疎遠になっていた。初恋の憧れのチェリー叔母さんと同じ布団に寝ていることの嬉しさも段々と切なさに変化してきた。このままでいいのだろうか、そうは言ってもチェリー叔母さんを追い出すわけにはいかない。そんな気持ちがいつも心のどこかに燻っていると自然に相手にも通じるようである。チェリー叔母さんも、最近はふざけて僕のアレを抓ったりしなくなった。寝る時もパジャマを着るようになった。そうなると余計に僕の位置が限られる。身体が触れないように左向きに布団の縁を掴むように寝るのが癖になりつつある。チェリー叔母さんも右向きでやはり布団の端に寝ている。身体の間隔は三十センチもないが心の間隔は手の届かない位置まで離れたような気がした。ストリップ小屋からの帰りはいつも一緒だったがお互いにおかしな気遣いをするようになり、伝言で『先に帰る』と置き書きを貰うときもあれば、僕が『ゴンドラの整備があるので先に帰って下さい』と伝言板に書くこともある。ただ休みの日に銭湯だけは一緒に出掛けた。定食屋で一杯やり、酔うと悩んでいた気持ちも一時的に素っ飛んだ。定食屋の二代目も独身でチェリー叔母さんと気が合っていた。
「ねえあんた、真剣に考えてよ、うちの息子。あんたみたいにいい女で気風が良けりゃうちの店も大助かりだよ。あたし達引退して全部任せるよ、ねえどうだい」
女将さんはチェリー叔母さんを偉く気に入っていて、いつも叔母さんに手を合わせていた。
「駄目だよ、あたいなんか踊り子だよ、全国の男に裸見せてんだから、堅気の店なんか似合わないよ」
そう言いながらも誘われる度に嬉しそうだった。
「いいんだよそれくらいの方が、みんな見せちまえば恐いもんなんてないよ。私も見せられるなら全部見せてやりたいよ」
女将が笑った。チェリー叔母さんも笑った。そして帰りの公衆電話、また泣いている。誰と何を話しているのだろうか。ずっと気になっている。しかし僕が知り得ても何も手助け出来ない。
梅雨の最中に取付けたエアコンは冷房から暖房を利用する季節になった。僕は大学に行かず春風座でゴンドラの運転手を続けていた。二台あるゴンドラを同時に動かせるまでになり関さんからも頼りにされるようになった。ある日支配人に呼び出された。
「幸太郎君、うちは大助かりだよ。だけど大学生をこのままほっておくわけにはいかない。もし私の子なら戻りなさいと言うよ。それを黙っているのは卑怯だと思ってね。辞めて学校に行きなさい」
支配人は私を劇場の齧り付きに呼び出して言った。真剣だった。他人のことをこれだけ考えてくれる人がこの世にいることが不思議だった。
「実は悩んでいます。大学出て果たして自分の夢に向かった仕事に就けるのだろうか。何となく見えていて、やっぱり無駄な四年を過ごしたなって感じている自分がよく見えるんです」
真剣に心配してくれる支配人に僕の気持ちを正直に伝えた。
「それは逆だよ幸太郎君、もしこのままゴンドラの運転を続けていたら二年もしないうちにこのまま続けていていいのか悩むようになる。その時は既に遅い、大学に籍もなくなりやり直したくても戻れない。いいか幸太郎君、みんな同じように悩んで来たんだ。考える時間すら与えられずに生きてきた人達がたくさんいる。ここの踊り子達もそうだ。考える期間を四年間延長出来る君達は幸せだと思う。君は三年生でもう少しじゃないか。無駄なもう少しを送るか、見据えてもう少しを送るか、私なら後者を選ぶ。卒業することが無意味かどうかまで考えられる君は成長している証だよ。そこまで分かっていながらチャンス有るもう少しを捨てるのはもったいない。ゴンドラの運転が悪い職業と言わない。うちの劇場にとっては無くてなならない大事なポジションだ。踊り子達の演技にも関係する技術職だと私は誇りに思う。君は一日15時間ゴンドラを運転している。その時間をチャンス有るもう少しに捧げて見るのも悪くないと思う。もし卒業してもう一度ここに来ることがあれば、それは君が選んだ人生で誰にも恥じることはない、私も大歓迎だ」
支配人に肩を二度叩かれて我に返った。僅かだが精一杯僕のために仕送りをしてくれる両親、その生活を引き継ぐと約束した弟。僕が仮に出世してもその見返りなんて求めることはしない。僕が世間でそれなりに仕事をしている、それだけで満足する両親や兄弟のことを忘れてゴンドラの運転技術を得意気にし、大学にも通わずにいることが恥ずかしく感じた。僕は小道具の関さんに挨拶に行った。
「残念だけど仕方ねえさ。俺の胸にゲロ飛ばした唯一の男だからな。勉強しろよばか野郎」
関さんらしく別れの挨拶をしてくれた。外に出るとお姉さん達が並んでいた。
「お世話になりました。身体に気を付けて頑張ってください」
僕はありきたりの挨拶をして一礼した。
「せいの」
さざえ姉さんの音頭でお姉さん達全員が後ろを向いてスカートを捲った。パンツには一文字ずつ紙が張り付けてあり、『幸太郎のくそやろう』とあった。さざえ姉さんが僕の首を絞めつけて別れを惜しんでくれた。
「幸太郎、溜まったらいつでもおいで、ぶっこいてやるから」
そう言ってボキボキと関節を鳴らした。
それから毎日大学に通った。帰宅して法律を勉強した。弁護士を目指すことにした。寝る間も惜しんで勉強しているとチェリー叔母さんも気を使ってくれた。順次兄貴の部屋から麻雀の音が連夜続くようになった。僕は耳栓をして対応した。麻雀は深夜三時頃には終わりチェリー叔母さんが帰宅する頃は静かになる。だからトラブルはなかった。ある日叔母さんが風邪で熱を出した。僕は学校を休んで看病をしていた。ガラガラと牌を掻き混ぜる音に高熱のチェリー叔母さんがブチ切れた。
「幸太郎どけ」
僕から椅子を取り上げた。まさかと思ったがやはりまさかだった。椅子の足を隣の壁に向け体当たりしたのだ。グサッと音を立てて漆喰に刺さった。チェリー叔母さんは一旦抜いた。漆喰のカスが畳に零れた。隣の壁まで下がりおもいきり突進した。壁はぶち抜け叔母さんは順次兄貴の部屋に消えた。
「な、なんだ、なんだ」
順次兄貴の客が立ち上がりうろたえている。僕は穴から覗いていた。一人がナイフを抜いた。
「てめえら朝方までジャラジャラジャラジャラやってんじゃねえよ。こんなボロアパートで下手糞な上がりまで聞こえるよこの貧乏人が、雀荘代もないならやくざ止めちめえ」
チェリー叔母さんが啖呵を切った。
「このアマ、上等じゃねえか、貧乏人て抜かしたな、音がうるさきゃ玄関から挨拶にくりゃいいじゃねえか、下手糞な上がりと言ったな、ハネマンでトップよ。どうしてくれる?」
背の高い男はチェリー叔母さんの椅子の足を掴んで言った。振り解こうとするが男は離さない。
「客人、申し訳ねえ。ここは私に免じて許してもらえませんか」
順次兄貴が頭を下げた。
「ほう、俺達はおめえさんの兄貴から紹介を受けて遊ばせてもらってる。雀荘よりリラックス出来るとあんたに連れて来られた。音が筒抜けのボロアパートで恥かかされて、黙って帰れってそう兄貴分に伝えるつもりかい」
僕はチェリー叔母さんを連れ出そうと腕を引っ張ったがもう一人に腹を蹴られた。
「何しやがんだこの野郎」
チェリー叔母さんは僕を蹴った男にしがみ付いて腕に噛み付いた。男は唸って叔母さんを投げ飛ばした。
「このアマ、ぶっ殺すぞ」
うつ伏せの叔母さんを二人の男が踏み付ける。
「止めてください」
僕は叔母さんの上に覆い被さった。全身に痛みを感じる。叔母さんは「幸太郎」と声を上げるが僕はどかなかった。
「客人、待ってください。その二人全く関係のない人だ。たまたま私の隣人です」
順次兄貴は俎板と包丁を麻雀台に置いた。そして右手の自慢の蛸がある人差し指の第一関節から切り落とした。「ううっ」と唸って指先にティッシュペーパーを束にして巻いた。落ちた蛸付き指先をティッシュで拭き取り客人に差し出した。男は受け取った。
「分かりました、ここはあんさんの男に敬意を払って引き下がりましょう」
二人は出て行った。
「順二さん、医者行きましょう」
順次兄貴の相棒が指を心配していた。
「なんてこたねえさ、お前も今日は帰れ、兄貴に言うなよ」
相棒も帰った。
「ああーあ」
順次兄貴は自分の指より壁の穴を心配した。
「チェリーの姉御、怪我は?」
「あんなチンピラにやられちゃいないよ。それより指見せてみな」
チェリー叔母さんは張り付いたティッシュペーパーを水道できれいに洗い取った。
「染みるよ」
オキシドールを指先にかけると白い泡が湧いて出た。僕は身体のあちこちを蹴られた。恐らく明日になれば痣が出来ているだろう。
翌日順次兄貴は医者に行きしっかりと治療した。そして壁を直すと言ってその材料を三人で買い出しに行った。壁の骨は割いた竹でそれに漆喰が塗ってあるだけの簡素なものである。僕の部屋の方からベニヤ板を張り付け机で突っ張った。順次兄貴の部屋からばらけた竹を直して針金で補強してモルタルを塗り込んだ。
「どうだ、うまいもんだろう」
鏝を上手に使う順次兄貴は頼りになる職人のように見えた。チェリー叔母さんの熱もようやく下がってきて明日から仕事に行くと言う。
「悪かったねえ、あたいのせいであんたの宝もん落としちゃった」
チェリー叔母さんが謝った。
「よしてくださいよ姉御らしくねえ。実は俺の盲牌は左、右は囮」
順次兄貴は左手で牌を掴んだ。
「ローピン」
パーピンだった。
「イーソウ」
發だった。
「今度は積もった、パーワン」
キューワンだった。
「これじゃチョンボで袋にされるな」
寂しそうな順次兄貴だった。それから麻雀の音はしなくなった。
エアコンを暖房にしても布団がひとつではやはり寒さを凌げない。チェリー叔母さんが買うのはもったいないからと春風座で余っているのを僕が軽トラを借りて取りに行った。小道具の関さんが積んでくれた。
「参っちゃったよ、一回だよ一回だけ。それで出来るか普通、それもよ、二人共べろんべろんに酔っていたんだよ」
何の話かよく分からなかった。そしてさざえ姉さんが出てきた。藍色の作務衣に雪駄履きだった。髪は少し伸ばしている。オールバックがポマードでテカっていた。お腹を擦っている。
「あんた、男の子かねえ、よく動くよ。この歳で授かった子だよ。こんにちはあかちゃん♪ってか」
さざえ姉さんは見た目は極道だが心は母になっていた。
「おめでとうございます」
チェリー叔母さんが呼ぶと小屋の最年長さざえ姉さんがゴンドラ室に上がって来た。さざえ姉さんは一回目の出番が終わり化粧を落としてさっぱりした様子だった。男物の甚平を着ている。髪はカツラを外すとショートヘアー、と言うより角刈りに近い。
「どうしたチェリー?」
「幸太郎が興奮してんの、運転誤ると酔うから軽くしてやって欲しいの。まさか叔母のあたいが抜くわけにもいかないからさ」
映画仁義なき戦いに出て来そうなさざえ姉さんが僕の股間を見た。
「幸太郎、お前チェリーの尻見て興奮したか?空想近親相姦て言うんだそういうの。ほれズボン脱げ、軽くしてやるから、ゴンドラ操作間違ったらみんな酔って次のステージに立てないぞ」
どうしていいか混乱した。彼女達は仕事柄そういうことには慣れているかもしれないが、歌手の水着姿でも興奮する僕等には考えられない何かが始まろうとしている。そしてその獲物は僕自身である。さざえ姉さんは左手指の関節を一本ずつ鳴らした。そして甚平の袖を手繰った。
「さあ出せ」
出せと言われてもそうもいかない。それに恐怖と言うかさざえ姉さんの指がごっつくて、それに握られると思うと倅もおとなしくなった。
「あれ、おとなしくなったな、チェリー、大丈夫そうだな運転」
「良かった、姉さんありがとう」
「いいさ、いつでも抜いてやるさ、幸太郎、我慢出来なくなったらいつでもあたしんとこに来なよ。たっぷりとぶち抜いてやるから」
「ありがとうございます」
どうして礼をするのか、果たして礼が適当かどうか、だけど事態が収拾してホッとした。チェリー叔母さんは黄金劇場と井土ヶ谷春風座を一月交代で移動していた。僕は迷っていた。チェリー叔母さんから声を掛けられた時は日給一万五千円に舞い上がったが、昼夜勤務だから時給換算すればそれほどでもない事に気付いた。ただ仕事は楽で疲労はなくただいつも少し眠い、それさえ我慢していれば確かにいい仕事だった。大学の仲間とも疎遠になっていた。初恋の憧れのチェリー叔母さんと同じ布団に寝ていることの嬉しさも段々と切なさに変化してきた。このままでいいのだろうか、そうは言ってもチェリー叔母さんを追い出すわけにはいかない。そんな気持ちがいつも心のどこかに燻っていると自然に相手にも通じるようである。チェリー叔母さんも、最近はふざけて僕のアレを抓ったりしなくなった。寝る時もパジャマを着るようになった。そうなると余計に僕の位置が限られる。身体が触れないように左向きに布団の縁を掴むように寝るのが癖になりつつある。チェリー叔母さんも右向きでやはり布団の端に寝ている。身体の間隔は三十センチもないが心の間隔は手の届かない位置まで離れたような気がした。ストリップ小屋からの帰りはいつも一緒だったがお互いにおかしな気遣いをするようになり、伝言で『先に帰る』と置き書きを貰うときもあれば、僕が『ゴンドラの整備があるので先に帰って下さい』と伝言板に書くこともある。ただ休みの日に銭湯だけは一緒に出掛けた。定食屋で一杯やり、酔うと悩んでいた気持ちも一時的に素っ飛んだ。定食屋の二代目も独身でチェリー叔母さんと気が合っていた。
「ねえあんた、真剣に考えてよ、うちの息子。あんたみたいにいい女で気風が良けりゃうちの店も大助かりだよ。あたし達引退して全部任せるよ、ねえどうだい」
女将さんはチェリー叔母さんを偉く気に入っていて、いつも叔母さんに手を合わせていた。
「駄目だよ、あたいなんか踊り子だよ、全国の男に裸見せてんだから、堅気の店なんか似合わないよ」
そう言いながらも誘われる度に嬉しそうだった。
「いいんだよそれくらいの方が、みんな見せちまえば恐いもんなんてないよ。私も見せられるなら全部見せてやりたいよ」
女将が笑った。チェリー叔母さんも笑った。そして帰りの公衆電話、また泣いている。誰と何を話しているのだろうか。ずっと気になっている。しかし僕が知り得ても何も手助け出来ない。
梅雨の最中に取付けたエアコンは冷房から暖房を利用する季節になった。僕は大学に行かず春風座でゴンドラの運転手を続けていた。二台あるゴンドラを同時に動かせるまでになり関さんからも頼りにされるようになった。ある日支配人に呼び出された。
「幸太郎君、うちは大助かりだよ。だけど大学生をこのままほっておくわけにはいかない。もし私の子なら戻りなさいと言うよ。それを黙っているのは卑怯だと思ってね。辞めて学校に行きなさい」
支配人は私を劇場の齧り付きに呼び出して言った。真剣だった。他人のことをこれだけ考えてくれる人がこの世にいることが不思議だった。
「実は悩んでいます。大学出て果たして自分の夢に向かった仕事に就けるのだろうか。何となく見えていて、やっぱり無駄な四年を過ごしたなって感じている自分がよく見えるんです」
真剣に心配してくれる支配人に僕の気持ちを正直に伝えた。
「それは逆だよ幸太郎君、もしこのままゴンドラの運転を続けていたら二年もしないうちにこのまま続けていていいのか悩むようになる。その時は既に遅い、大学に籍もなくなりやり直したくても戻れない。いいか幸太郎君、みんな同じように悩んで来たんだ。考える時間すら与えられずに生きてきた人達がたくさんいる。ここの踊り子達もそうだ。考える期間を四年間延長出来る君達は幸せだと思う。君は三年生でもう少しじゃないか。無駄なもう少しを送るか、見据えてもう少しを送るか、私なら後者を選ぶ。卒業することが無意味かどうかまで考えられる君は成長している証だよ。そこまで分かっていながらチャンス有るもう少しを捨てるのはもったいない。ゴンドラの運転が悪い職業と言わない。うちの劇場にとっては無くてなならない大事なポジションだ。踊り子達の演技にも関係する技術職だと私は誇りに思う。君は一日15時間ゴンドラを運転している。その時間をチャンス有るもう少しに捧げて見るのも悪くないと思う。もし卒業してもう一度ここに来ることがあれば、それは君が選んだ人生で誰にも恥じることはない、私も大歓迎だ」
支配人に肩を二度叩かれて我に返った。僅かだが精一杯僕のために仕送りをしてくれる両親、その生活を引き継ぐと約束した弟。僕が仮に出世してもその見返りなんて求めることはしない。僕が世間でそれなりに仕事をしている、それだけで満足する両親や兄弟のことを忘れてゴンドラの運転技術を得意気にし、大学にも通わずにいることが恥ずかしく感じた。僕は小道具の関さんに挨拶に行った。
「残念だけど仕方ねえさ。俺の胸にゲロ飛ばした唯一の男だからな。勉強しろよばか野郎」
関さんらしく別れの挨拶をしてくれた。外に出るとお姉さん達が並んでいた。
「お世話になりました。身体に気を付けて頑張ってください」
僕はありきたりの挨拶をして一礼した。
「せいの」
さざえ姉さんの音頭でお姉さん達全員が後ろを向いてスカートを捲った。パンツには一文字ずつ紙が張り付けてあり、『幸太郎のくそやろう』とあった。さざえ姉さんが僕の首を絞めつけて別れを惜しんでくれた。
「幸太郎、溜まったらいつでもおいで、ぶっこいてやるから」
そう言ってボキボキと関節を鳴らした。
それから毎日大学に通った。帰宅して法律を勉強した。弁護士を目指すことにした。寝る間も惜しんで勉強しているとチェリー叔母さんも気を使ってくれた。順次兄貴の部屋から麻雀の音が連夜続くようになった。僕は耳栓をして対応した。麻雀は深夜三時頃には終わりチェリー叔母さんが帰宅する頃は静かになる。だからトラブルはなかった。ある日叔母さんが風邪で熱を出した。僕は学校を休んで看病をしていた。ガラガラと牌を掻き混ぜる音に高熱のチェリー叔母さんがブチ切れた。
「幸太郎どけ」
僕から椅子を取り上げた。まさかと思ったがやはりまさかだった。椅子の足を隣の壁に向け体当たりしたのだ。グサッと音を立てて漆喰に刺さった。チェリー叔母さんは一旦抜いた。漆喰のカスが畳に零れた。隣の壁まで下がりおもいきり突進した。壁はぶち抜け叔母さんは順次兄貴の部屋に消えた。
「な、なんだ、なんだ」
順次兄貴の客が立ち上がりうろたえている。僕は穴から覗いていた。一人がナイフを抜いた。
「てめえら朝方までジャラジャラジャラジャラやってんじゃねえよ。こんなボロアパートで下手糞な上がりまで聞こえるよこの貧乏人が、雀荘代もないならやくざ止めちめえ」
チェリー叔母さんが啖呵を切った。
「このアマ、上等じゃねえか、貧乏人て抜かしたな、音がうるさきゃ玄関から挨拶にくりゃいいじゃねえか、下手糞な上がりと言ったな、ハネマンでトップよ。どうしてくれる?」
背の高い男はチェリー叔母さんの椅子の足を掴んで言った。振り解こうとするが男は離さない。
「客人、申し訳ねえ。ここは私に免じて許してもらえませんか」
順次兄貴が頭を下げた。
「ほう、俺達はおめえさんの兄貴から紹介を受けて遊ばせてもらってる。雀荘よりリラックス出来るとあんたに連れて来られた。音が筒抜けのボロアパートで恥かかされて、黙って帰れってそう兄貴分に伝えるつもりかい」
僕はチェリー叔母さんを連れ出そうと腕を引っ張ったがもう一人に腹を蹴られた。
「何しやがんだこの野郎」
チェリー叔母さんは僕を蹴った男にしがみ付いて腕に噛み付いた。男は唸って叔母さんを投げ飛ばした。
「このアマ、ぶっ殺すぞ」
うつ伏せの叔母さんを二人の男が踏み付ける。
「止めてください」
僕は叔母さんの上に覆い被さった。全身に痛みを感じる。叔母さんは「幸太郎」と声を上げるが僕はどかなかった。
「客人、待ってください。その二人全く関係のない人だ。たまたま私の隣人です」
順次兄貴は俎板と包丁を麻雀台に置いた。そして右手の自慢の蛸がある人差し指の第一関節から切り落とした。「ううっ」と唸って指先にティッシュペーパーを束にして巻いた。落ちた蛸付き指先をティッシュで拭き取り客人に差し出した。男は受け取った。
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二人は出て行った。
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順次兄貴の相棒が指を心配していた。
「なんてこたねえさ、お前も今日は帰れ、兄貴に言うなよ」
相棒も帰った。
「ああーあ」
順次兄貴は自分の指より壁の穴を心配した。
「チェリーの姉御、怪我は?」
「あんなチンピラにやられちゃいないよ。それより指見せてみな」
チェリー叔母さんは張り付いたティッシュペーパーを水道できれいに洗い取った。
「染みるよ」
オキシドールを指先にかけると白い泡が湧いて出た。僕は身体のあちこちを蹴られた。恐らく明日になれば痣が出来ているだろう。
翌日順次兄貴は医者に行きしっかりと治療した。そして壁を直すと言ってその材料を三人で買い出しに行った。壁の骨は割いた竹でそれに漆喰が塗ってあるだけの簡素なものである。僕の部屋の方からベニヤ板を張り付け机で突っ張った。順次兄貴の部屋からばらけた竹を直して針金で補強してモルタルを塗り込んだ。
「どうだ、うまいもんだろう」
鏝を上手に使う順次兄貴は頼りになる職人のように見えた。チェリー叔母さんの熱もようやく下がってきて明日から仕事に行くと言う。
「悪かったねえ、あたいのせいであんたの宝もん落としちゃった」
チェリー叔母さんが謝った。
「よしてくださいよ姉御らしくねえ。実は俺の盲牌は左、右は囮」
順次兄貴は左手で牌を掴んだ。
「ローピン」
パーピンだった。
「イーソウ」
發だった。
「今度は積もった、パーワン」
キューワンだった。
「これじゃチョンボで袋にされるな」
寂しそうな順次兄貴だった。それから麻雀の音はしなくなった。
エアコンを暖房にしても布団がひとつではやはり寒さを凌げない。チェリー叔母さんが買うのはもったいないからと春風座で余っているのを僕が軽トラを借りて取りに行った。小道具の関さんが積んでくれた。
「参っちゃったよ、一回だよ一回だけ。それで出来るか普通、それもよ、二人共べろんべろんに酔っていたんだよ」
何の話かよく分からなかった。そしてさざえ姉さんが出てきた。藍色の作務衣に雪駄履きだった。髪は少し伸ばしている。オールバックがポマードでテカっていた。お腹を擦っている。
「あんた、男の子かねえ、よく動くよ。この歳で授かった子だよ。こんにちはあかちゃん♪ってか」
さざえ姉さんは見た目は極道だが心は母になっていた。
「おめでとうございます」
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