手繋ぎ蝶

楠丸

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41章

~壁~

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 春の暖かさが早くに来たような幸せを感じながら、毎日、テンポよく仕事をこなしていた。新しく始めた空手も、新鮮な充実をもたらしていた。

 愛美については、村瀬の中ではまだ、彼女をいい女だと思いつつも、その存在は近しい女友達という域に留まっている。

 あの西習志野の公園で自分をモデルにした絵を描いたあと、カートを引いた愛美と一緒に津田沼へ移動し、少しぶらついてから、駅ビル内のカフェに入り、いろいろは話をしてから、お互い子供の食事などの準備があるということで別れてきた。改札で別れる際、愛美は「じゃあ、また」と言ったが、その「また」には意味があることは分かっている。

 日曜、今日の村瀬は十七時上がりの早番だった。七時に出勤して開店準備に入り、午前はレジ、午後は品出し、陳列が中心になった。

 炙り立てるような禍の気配をどこからか感じたのは、退勤前の十七時近く、フルーツ類の陳列を行っている時だった。それは今の村瀬の幸せに、恐怖の色合を持つ不安を挿すものだった。

 アボカドを持つ手を止めた村瀬は、陳腐なBGMの流れる店内を見渡した。気のせいだと心で自分に言い聞かせ、番重のアボカドをコーナーに盛る作業を続けた。

 禍の気は、自分の背後、わりと近い距離から放たれていた。気持ち身構えて、体をその方向へ向けると、男が立っていた。ジャンパーにジャージのズボンという服装で、かけた黒いサングラスがいわくありげな男だった。髪は、だいぶ洗髪、調髪をしていないようで、所々が寝癖のような乱れを見せている。

 村瀬の胸に、ぴたりとした覚悟が決まった。その男が、三ヶ月前に純法の支部で、傘の石突を目に刺して倒した男だということがはっきりと分かったことによって定まった覚悟だった。

 男は、サングラスの奥から村瀬を見つめ、いかにも言いたいことをにわかに整理しているという風に立ったあと、慎重な足取りで進んで詰めてきた。害意は、男の表情、居ずまいには感じられなかった。

「売り飛ばされるぞ」村瀬の肚に押し込むような声を、男は搾り出した。

「あんたの女じゃ」言った男のサングラス越しの目に挿している切迫が伝わるような口調だった。

「西の、山主、林主の農家の息子の嫁として、一千万の値がついて身柄を取引される。そいつは跡取りの家業手伝いちゅうことになっとんけど、四十過ぎてまだシンナー吸うて、親から買うてもろた外車乗り回して遊んじょるぼんくらの屑で、十代ん頃、強姦で逮捕されとんがな、親が金積んで保釈されとる。飲酒運転のケツも、親に拭いてもろうちょるような奴じゃて。そうなったら、あんた、もう一生会えんぞ。そうなりとうないんじゃったら、今から手ぇ打てじゃ。すぐにでもさらう言うとったからな」村瀬の耳に囁くように言った男は、ゆっくりと体を自動ドアのほうへ向けて、歩き出した。

「いいか、一生会えんぞ」男は振り返り、言葉を繰り返して強調した。村瀬は言葉もなく立ち、去っていく男の背中を見つめたが、行きがかりとは言え、彼の片目を事実上失明にした詫びの念を若干抱いた。恩に着る、という言葉を投げる間はなかった。その恩は、今の村瀬には厄でもあった。物事がなるようになったことで得た安らぎが、深い奈落へ引かれ、落ちていく感覚が、村瀬の胸に訪れていたからだ。

 村瀬は早退した。来月に左遷の異動が決定している増本は、表情なく、いいよ、とだけ言って、早退の要請を許可した。

 ロッカールームから、菜実の携帯に電話をかけた。数コールのあとで、おかけになった電話は、現在‥というメッセージが空しく流れた。それが村瀬には酷く冷たく聞こえる思いがした。

 ウェブでタクシーを呼んだ。タクシーはわりとすぐに来た。店前から乗り込んだ村瀬は、三山、と老齢の運転手に行き先を告げた。三山へ向かう車の中で、メモ帳に自分の携帯番号を走り書きした。

 タクシーを恵みの家の前に着けさせた村瀬は、ぴったりの料金を運転手に握らせて、車を飛び降り、ドアをノックした。チャイムを鳴らすことは忘れていた。

 正月に菜実を訪ねた時に応対した、金髪に日サロ肌をした女子のスタッフが顔を出し、こんにちは、と頭を下げて挨拶した。

「菜実さんは、今、いますか?」「菜実さんは、今日、外泊です。昼前に、柏の親戚の方に会うと言って出かけていったのですが、先程、今日と明日、泊まることになったという連絡が入りましたので」「そうですか」村瀬と女子スタッフの間に黙が流れた。その黙を先に解いた村瀬が、メモ帳を差し出した。

「もしも万が一、という話です。仮に菜実さんが明日になってもお戻りにならないようなことがあったら、この番号に至急、連絡をいただけますでしょうか。私の携帯番号になります。それと、警察にも連絡をお願いします。急ぐので、詳しいことはまだここでは言えないんですけど、これから事件になる可能性があるんです」村瀬が告げると、女子スタッフは小さく悲鳴を呑み込んだ顔になった。

 恵みの家を離れた村瀬の携帯がバイブし、見ると非通知の表示が出ていた。通話ボタンを押し、通話口を耳に当てた。肝を切り立てられる思いだった。

「どうもご無沙汰しております、村瀬さん。宗教社団純法、人例研究企画部の李です」通話口からは、臓腑を割る剃刀の声が聞こえてきた。

「何だ」「大至急、是非ともお伝えしたいことがありまして、携帯会社さんのほうからお電話番号のほうを拝借いたしました。今から仕事を早退されてでも、これから私が指定する場所へお来しになるのが、あなたの将来的な幸せを約束する最大の選択になりますが、いかがいたしますか」「どこだ。俺もお前らに言わなくちゃいけないことがある」「そうですか。それはますますちょうどいい。今、どちらにいらっしゃいますか」「船橋の三山だ」「そうですか。それでは、京成大久保までお迎えに上がります。村瀬さんの幸福と安泰を保証するお話に、誰からも水を差されない場所へご案内させていただきます。どうぞ、身構えないでお待ち下さい。それでは、すぐに大久保へ車を遣りますので」李は低い笑いを発して通話を切った。

 村瀬が怒り勇んだ足取りで向かった京成大久保駅近くに、見覚えが遠くない、ぴかぴかに洗車された黒のリンカーンコンチネンタルが停まっていた。リアウインドウがすっと下り、僧帽を被った、鼻から上の李の顔が覗いた。その向こうには、前を射る行川の顔も見えた。助手席から、平と呼ばれていたことを覚えている大柄な男が降り、丁重な手つきでリアドアを開けた。その扱いの意味を村瀬は分かりかねた。

「現地でお話いたします。どうかお楽しみになさっていて下さい」リアシートの隣から、李は甘く嬲る声で言ったが、村瀬はそれに答えを返さなかった。

 遠くないはずだが、長い年月を経たと思える日に通った千葉市の道を、法定速度を遵守したリンカーンコンチネンタルが、するり、するりと走った。村瀬が乗りばなに李が発した言葉以外、道中、誰の口も開かなかった。

 車は三十分ほど走り、花見川沿いの、人気のない緑土地に入り、低い丘の下に停車した。丘の上には、違法投棄されたままの、トラックのコンテナが載っている。予想通り、三ヶ月前、取り立ての加勢を脅迫づくで強いられた時に連れてこられた場所だった。村瀬はここで、知的障害を持つ父子が、親子のホモ行為を強要される醜鼻の地獄を見せられながら、救けの力を及ばせることが出来ず、組織と対峙した一市民としての無力さを、味のない臍のように噛まなくてはいけなかった。その日に目の前に見たものは、まだ傷となって村瀬の精神に刻み込まれている。

 車の運転席に一人を残し、平を先頭にした、村瀬を含む男達がコンテナに吸い込まれた。入り際、行川が左右に体を回し、周囲に鋭利な射り立ての目を配った。

 コンテナの扉は、寒い音色を響かせて、行川の手で閉められた。

 菜実が身柄を押さえられた場所は、柏駅の券売機前だった。男が二人、ゆらりと進路を塞ぐように目の前に立ち、うち一人が彼女の背後に周り、前の男がスマホの画面をかざした。画面に現れたのは、村瀬の写真だった。勤務先の店で品出しを行っている姿、退勤して帰宅する途中の様子を写したもの、また、津田沼と思われる街中で息子らしい若者と歩いているものが、スライドされて写し出された。

 菜実には、男達の言わんとすることの意味が分かった。

 今日の菜実は、一度は絶縁を自ら突きつけはしたが、以後も心配の念を絶え間なく抱いていた叔母の孝子が住むアパートを訪ねた帰りだった。あれ以降、孝子は菜実に、無心などの連絡をよこすことは一切なかった。気になっていたことは、安否だった。電話をかけてみたが、その電話番号は現在使われていないことを告げるメッセージが流れるだけだった。

 表札には、他人の名前が書かれた厚紙が差されており、孝子が菜実に何も言わずにアパートを退去したことが示されていた。それが菜実自身が望むことだったか、そうでないかは、彼女には自分をしても分かりづらかった。

 一面は、自分の育て親とも言えた孝子が無事であることを祈りながら、療育手帳を提示して割引の切符を買おうとしたところへ、男達が表れた。

 男達に誘導されるようにして、駅前に停められた高級車に乗せられ、恵みの家に電話をかけさせられた。 “叔母さんの家に泊まることになった。いろいろとお話があるから、いつ帰れるかはまだはっきりとは分かっていない” 男達に言えと命じられた言葉を、清水夕夏にそのまま伝えたわけは、情報上、事実上、男達の手の中に命が落ちている村瀬のためだった。

 “障害を理由に、幸せをあきらめていませんか?”の文字が出て、村瀬にも聞き覚えのある、優しいメロディのピアノ曲が流れ、ストップモーションのイラストが現れた。そのイラストは、みすぼらしい服を着た女が、暗い空間で肩を落として涙を流しているものだった。

 “しょうがいがあっても、しあわせになるけんりがあります。あなたたちひとりひとりがそのけんりをもっています。わたしたちは、そのけんりをまもり、あなたをしあわせのみちにみちびきます” の文字の後ろに、並木道を手を繋いで歩く男女のイラストが展開し、それが女が嬰児を抱き、主人が微笑みながら見守っているものに変わった。

 次に、地引網を引く漁師、ブルドーザー、野菜、畜肉のイラストが写り、“どけんぎょう、ぎょぎょう、のうぎょう、りんぎょう、ちくさんぎょうの、はたらきもののだんせいたちが、じゅんすいですなおなあなたをまっています。わたしたち、そんきょうすみののりは、あなたたちのかいいんとうろくをこころよりおまちしてあります” と括られ、登録用のバーコードリーダーが表示されて、そのショート広告は終わった。動画のエンドマークが表示されたそのタブレットを、平は村瀬の目前にかざしたままだった。

「それは何だ」「私達、純法が、新しく始めた事業になります」村瀬の問いに、コートの懐からジェラルミンのシガレットケースをまさぐって出し、一本を引き出して咥えた李が答えた。

「メディアでも放送されていますが、知的障害を持つ女性達にウエディングドレスを着せて、結婚式場の壇にずらずら上げて、正装した親を参列させる模擬結婚式なんてやってますけれど、結婚出来ないことが分かってるからこそやるような、あんな罪深いものはありませんよ。無駄な金をかけて、一時の気休めに過ぎない夢を見せるわけですからね。私達が今回立ち上げた事業は、そんなものとは無縁な、活動スローガンである社会愛に基づいたものですから、ご理解いただけたら幸です」「そんなものは俺にはどうでもいい。あの時に、もう俺にも菜実にも近づかない約束をしたんじゃなかったか」「予定というものは変わるものです。約束も、場合と状況によっては変わります」「そんな勝手な理屈がどこからこねくり出されるんだ」村瀬の問いかけを無視して、李は瞼を落とした顔で、ジッポライターから長く火を伸ばし、煙草に点火した。

「事業の一環として、現在私達は、福祉法人の買取を進めています。甲信越で三件、社福と福祉会社を買収いたしました。それは強く幸福を望む女性達の、その縁にたどり着くことの困難を解消してあげたいという、その女性達の保護者方が、やってあげようにもやってあげられないことの心ある代行のつもりです。地方で第一産業を営む、適齢期の息子を持つ親御さん方の苦労は相当なものですよ。真面目に仕事に取り組んでいるにも関わらず、嫁不足が解消されない。それで高齢独身者の予備軍が増加する一方です。それを私達は救済の目途を立てたいと強く願い、新たにこの事業を興した次第です。事業の代表者は、私です。だけど、この支援事業を、これから円滑に伸ばし、社会に定着させるには、優れた人材も必要です。一人でも多くね」煙を吐き出す李の爬虫の眼が、ひたりと村瀬の目を捉えた。

 村瀬によって隻眼になった男が、今日、教えてくれたこと。合法の体を持つ人身売買であり、人身取引。現実味を伴わない、ウエディングドレスに象徴されるきらきらした夢という形を取る、結婚のイメージにつけ込み、言葉甘く優しく、その親まで取り込む。親を取り込むものは、相手側の親が組織に支払う金の、何割かのバックだ。

 この事象の背後には、社会が背負う重く暗い、とてつもなく悲しい闇がある。理屈は言えないが、体の機能に遜色のない若い女達が身柄を売られる先は、情報的過疎が民度、品位の様式を遅滞させている土地で、肉体を酷使する労働の業を代々に渡って営む金のある家の、人格的不出来、または放置されたハンディキャップを抱える息子の許。その家で、母親が手伝うわけにはいかない息子の欲望の処理を強いられ、家業の労働力として、悲しい涙を毎日流しながら、一生涯籠の鳥となる。人格、感情を持つ人間の女として愛されることはない。息子は、知的障害を持つ買われた嫁で排泄し、飽きた時には、別の女と関係を持つのだ。

「村瀬さん、人例に来ませんか」フィルターを指打ちし、煙草の灰を落としながら、李は針のような細い目を少し丸くした。

「俺がお前らの同類にならなきゃならない筋合はない」「そんないきり立たなきゃいけない話じゃありませんよ」李が笑い、隣の行川が、肩から力を抜いて腕を垂らし、それとないファイティングスタイルを取った。平は村瀬の後ろを固めたきり、行川と同じく言葉を発さない。

「この事業は、新郎、新婦双方の親御さんから感謝されて、経済収益というところでは、順調に伸びていくと、私どもは見込んでおります。だけど、伸びて頂点まで行くまでには、必ず障壁が立ち塞がることも考えのうちに入れています。誤解から、またはこちらの好意を曲解した人間が絡む逆捩じ沙汰も起こり得ます」「お前らの兵隊になれっていう話か」「そんな悲惨な消耗品の扱いではありませんから」李の撒く煙が、輪っかの形を成していた。

「村瀬さん、私はあの時、ご自宅の前であなたと出逢った際、ダイナミックな運命の導きを感じました。私が日本に来たのは九歳の時でした。四十も半ばになる今まで、日本では、いろいろな人から恩義を受けてきましたけれど、人生の道草で、チーマーやって、やくざやって、四十過ぎてようやくたどり着いたのが、人様をお救いして、社会に貢献する人生の在りようを持つ今の道です。あの時、私は、そのご年齢で、愛する人のために命を挺する村瀬さんを見て、命の繋がった盟友の絆を感じたんですよ。それと、あなたの具体的意味での実力ですね。だから是非とも、この人例のセクションで、この行川の双璧で、私の右腕になっていただきたい。スーパーから、もっと実りの良い仕事に転職ということでいいでしょう。あなたのことは全部掴んでおりますから。池内さんを経て、もっと年齢に相応しい別の幸せを見つけたこと、来月から副店長を任されること、それに、今一緒にお暮しの息子さんがもうじきグループホームに入居されること、娘さんが市川の知的障害者支援施設のお仕事を頑張っておられることもね」

 李はフィルターの根元まで吸った煙草を板床の上に落とし、革靴をにじって消した。

「それでは、条件交渉と行きましょう。年棒五千万スタートということでよろしいでしょうか。今住まれている家は、見たところ築年度が相当行っていて、防災、防犯、ともに弱くて脆い。もっと上等な強い家を購入されて、新しい伴侶の方と新しい生活をスタートさせるというのはいかがでしょうかね。息子さんのグループホーム利用料だって、年一括で払えるようになるはずじゃないですか。零細スーパーで副店長に昇進したところで、未来の不安材料は変わりませんよ」李の顔にはからかうような笑いが浮かんでいた。

「お前らが凝り固まってる考え方、見方は、何を根拠としたものなんだ」村瀬が言い、李はまた目を丸くし、どこか愛嬌のある表情を見せた。

「障害があろうがなかろうが、自分のイメージに基づいた選択権は誰にもあるはずだろう。そこに他人がどかどかと押し入って、これはどうだからどうしろ、こうしろと指図することは権利の侵害だ。知的障害者の女の子は、粗暴で常識感覚のずれた肉体労働者と結婚しなくちゃいけないのか。中卒や高校中退で、土木や鳶で汗水垂らして働くあんちゃん達は、知的障害者と結婚しなくちゃならないのか。こんなことを決めつける権利が、他人のお前らにあるのか」「あなたの言っていることこそ決めつけのフライングじゃないですか、村瀬さん」李が苦笑めいた笑いを吹いた。

「粗暴で常識感覚がどうのなんて、あなたは第一産業の現場をどこまで知っててそんなことをおっしゃるんですか。ああいう所には、計算高くて陰険なホワイトカラーの庶務課の人間などよりも、仕事に対する高い志をお持ちで、仲間思いの心良き男性達がたくさんいるものですよ。そういう男性達の汗にまみれた労働なしに、私達やあなたを含む国民の暮らしは語れないわけです。それに私達は、何と何がくっつかなきゃならないとは一言も言っちゃいません。人間の階層に合ったマッチングというものを考えた提案を行って、先の広告を作成したまでのことです。ハンディキャップを抱えながら気持ちの綺麗な女の子達の夢が、夢として消えてしまうことが居ても立っても居られない、これこそ私達が、その子達の保護者様方と共有する思いのわけですからね。これが、社会愛ですよ」「どうでもいいんだ、お前らのそんな御託は。その階層云々がそもそも差別だろう」村瀬は李に鼻先を詰めた。行川の体が即応体制を固めた。

「菜実をどうするつもりだ」村瀬は行川の眼に射られながら李に問いかけた。正面からは、爬虫の両眼が見据えていた。

「池内さんは、もうじき遠方の地方へ嫁ぎます。田畑と山林を所有する、とても豊かな方の跡取り息子様がお相手ですよ。何をそんなに気をお揉みになることがあるんでしょうか。あなたにはもう、新しい幸せがおありでしょう?」「自分の意思で嫁ぐんじゃない。お前らが売り飛ばすんだ」「これはまた随分と人聞きのよろしいことを‥」李の苦笑が、コンテナの内壁に乾いて反響した。

「お嫁さんになるんだよ」菜実が乗せられた車のリアシートの隣に座る男が、彼女の耳朶に囁いた口調は、声色は優しいが、全ての抗いを封じるような圧が籠っていた。

「君の大切な人のことは、私達はみんな調べて知ってるんだ。すごく優しくて、いい人だよね。だけど、君の将来っていうものを考えた時にマッチしない所がいくつもあると、私達は判断したんだよ。相手の年齢とか、収入っていうところでね。これから君がお嫁さんに行く所はね、優しいお義父さんとお義母さん、優しくて力持ちで、よく働く息子さんがいる、お金がいっぱいある家なんだよ。君はそこの御曹司さんのお嫁さんになるんだ。全然いいぞ、雇われてる立場のスーパーの店員さんとか、こないだ会ったっていうパン屋さんとかよりも。景色の綺麗な土地で、毎日美味しいものがたくさん食べられて、ふかふかのベッドで眠れるんだ。君は最高の幸せを手に入れたんだぞ」

「お願い」瞼を伏せた菜実の唇が動き、やっと聞き取れるような言葉が発せられ、男が作為的に、鋭い目を優しく丸めた。

「村瀬さんに、最後のご挨拶がしたいの。お礼も言いたいの」「分かった。これから東京に行くんだ。今日一日、君にはそこに泊まってもらうことになるけど、着いたら、電話を一本かけさせてあげるよ。ただの一本だけ、な」男が発した最後のセンテンスには、先までとはがらりと変わった昏い迫力が込められた。

 ラポールウッドの本社である男性棟の合歓に、その男達は足音を殺すように来訪した。そう値が張らない黒のスーツ、実用性重視のカジュアルというさほど目立たない服装をした三人の男だが、顔つき、身のこなしなどの挙措が、市井の人間とは違う。

「こちらの女性棟に入居されている、池内菜実様と縁を持ちました、一般社団法人ハンドと申します」黒スーツの男は言い、玄関先でタブレットの画面を見せた。その画面には西日本の県名があり、家の主らしい人物の名前と住所が署名されている。後ろには二人、腹に一物を含んだ顔をした男がいた。

「縁と言いますと‥」「ご成婚の縁になります。池内様にはご両親がいらっしゃらないようですので、監督者様のご承諾が必要です。ご結婚に同意しましたというご意思を、お相手方の菊谷様にお伝えする署名をいただきたいので、少しのお時間、中へお邪魔したいのですが、よろしいでしょうか。署名欄にサインをいただければ、それで結構ですから」「そんな話は、私は全く聞いておりません。そちら様は、どういった業務趣旨をお持ちの団体様でいらっしゃいますでしょうか」「真面目な働き者ですが、人並みの幸せとなかなか縁が持てずにいらっしゃる方々の良縁結びをさせていただいている社団法人ですよ。何も反社会的な団体ではありませんから」日常の中に突如挿し込まれた恐怖に、うろたえを隠せなくなっている増渕に、男はしゃあしゃあとした口調で述べた。増渕は、ただ震えるだけだった。

「電話ですね。少々お待ち下さい」言った李に、「エリーゼのために」のメロディを着信音にした携帯が、平から李に渡された。

「ほう」通話口を耳に当てた李が言い、携帯が村瀬に差し出された。

「池内さんです。あなたにお別れを言いたいそうです」李の語尾には笑いが含まれた。

 村瀬は汗を滲ませた手に携帯を取った。

「村瀬さん」「菜実ちゃん」通話口から流れた菜実の声は、暗く震えていた。

「あのお正月の時のこと、ごめんなさい。あの人とは、お別れしたんだ。村瀬さんのこと、私、ずっとずっと好きだったの。今も好きなの。でも、もうお別れしなくちゃいけなくなったの。私、これから、遠い所行くから」「菜実ちゃん!」村瀬の高い叫びがコンテナの内壁にリバーブして響いた。

「お嫁さん行っても、私、村瀬さんにいいくしてもらったこと、ずっと忘れない。ほんとにありがとう。さようなら‥」最後尾の菜実の声は激しい震えを帯び、しゃくり上げる声とともに電話が切られた。自失の顔になった村瀬の手から、平が携帯を取った。

「菜実を返せ」李に投げた村瀬の声が反響した。

「もらったものは返せませんと、子供の頃に教わりませんでしたか? こちらはもう、本契約も完了しておりますし、池内さんご自身のご意思も固まっていることですよ」「菜実を返してくれ‥」村瀬の語尾が悲しく消えた。


 増渕は、男達が「バックです」と言って積んでいった二百万円の札束が載るテーブルの前でうなだれていた。男達はいかにも急ぎの仕事をこなしたという風に立ち去り、車のアイドリングを響かせて消えた。自分は、人を預かる人間として終わったという無力感が、体から、心から全ての気力を抜いていた。深い絶望が、今の自分を囲む整頓されたリビングの景色を意識から遠ざける感覚を覚えたその時、男達が来る前からボリューム低く流していたテレビのスピーカーから自分の耳に届いた、「危険宗教団体」という言葉に、ぴんとなったように顔を上げた。

「番組の途中ですが」と料理番組の途中で挿入されたニュースでは、昨年十二月に千葉市の風営飲食店で発生した、トカレフ自動拳銃を使用した射殺事件で、犯人の海老原孝彦容疑者、四十一歳が自供したことにより、無認可宗教団体が事件に関与している可能性が浮上、また海老原容疑者が事件の同日に、同居の父親を同銃で殺害した動機についても詳しく調べています、と女のキャスターが読み上げた。

 そのニュースは、自分には関係のない物事のように増渕には感じた。やがて、テーブルに伏した彼の口と鼻から、女のような高い泣き声が漏れ始めた。

「お送りしろ」李が言うと、平、行川が足先をコンテナの扉へ向けた。行川は村瀬から視線を外すことなく、鋭い射りを注いでいる。

「長めに、二週間ほど、お考えのスパンを与えましょう。いいお返事をいただけたらと思いますが」李は短く嗤った。

「返してほしければ、実力づくで来ますか?」細い爬虫の眼を三日月形に調え、囁くように言った李の口調には、どこか冗談めいた響きがあった。その言葉を受けた村瀬は、腹腔の底から、劇しい衝動が突き上がるのを感じた。

 十一月の半ばに、自宅の前で受けた、暫定的な勝利のあとで味わうことになった屈辱。頬骨とレバーに突き刺さった行川の拳。それに崩れ落ち、自分の頬が着いた路面の冷たさ。意識が途切れる前に見た空。

 その翌日に、ここ、この場所で見たもの、聞いた音、声。息子の体に頽れ、それを貪る父親が発していた吐息と濡れ音に、息子の懇願と悲鳴、泣き声、自分に助けを求める眼。

 それをどうすることも出来なかった無力。小市民の自分。

 それらの映像と音の再生に、封じていたつもりであった怒りが、自分の頭上を突き抜けて天へ放たれる感覚を、村瀬は、凛と静かに覚えていた。

「再戦だ」ぴたりと地に吸われて落ちたような村瀬の言葉に、李ら三人が、扉のほうへ歩きかけていた足を止めた。李は村瀬の短い言葉を聴き取りかねた表情を向けていた。

「こいつと、もう一回勝負させろ」村瀬は言って、変わらず自分を射り続けている行川に人差し指を突きつけた。

 それをはっきりと聞き取ったと分かる行川の眼に、少しづつ、どこか嬉しそうな光がワット数を増していった。自分の期待が叶えられる運びになった、喜びの光だった。

「正気でしょうか、村瀬さん」李が苦笑を語尾に含めた。

「こいつの実力は、あなたご自身が体で覚えておいでのはずでしょう。自殺行為に等しいですよ。桁が違うんですよ。桁数がね」桁、というワードのアクセントを、李は強めた。

「分かりました。空手をおやりになる格闘家として、勝てずとも、せめて一矢報いてぶち返したいというお気持ちをお察しいたします。それでは、どちらが勝利しようが負けようが恨みっこなしの、ちょっとしたお手合わせをやってみますか。しかし、そこであなたが負けても桁数違い故の結果として、私はあなたを手放しはしません。仮に何万分の一という倍率をかいくぐってあなたが勝てば、ますますあなたを欲しくなります。もしもどちらかが殴りすぎて、一方が死ぬ寸前まで行きそうな場合、私か、もしくはこちらの平が審判役を務めますので。ただ、戦力の消耗は避けたいので、是非ともお手柔らかにお願いしますよ」


 義毅は耳に当てていた携帯をゆっくりと下ろし、俯き加減に、眉間に皺を寄せた顔で「グっちゃんのお庭」の屋内に戻った。

 今は利用者達が子供達待ちをしている時間だった。

 カウンターの中でおやつの汁粉を作っているスタッフの青年の肩を、義毅は叩いた。

「わりいんだけど、今日、十九時まで仕切ってくれねえかな」「いいすけど」「頼むぜ。俺は用で、今日はちと上がっから‥」「分かりました。奥さんのサービスすか?」福田という、ピンクに染めたソフトモヒカンの髪をし、耳、唇にピアスをした青年の問いに義毅は答えず、上着を突っかけて、軽い荷物を持って出た。「お疲れっす」という声には、背中を向けたまま挙手を返した。

 咲が丘の自宅までソアラを飛ばし、家に入ると、マタニティドレスを着たまどかがクッキーを食べ、紅茶を飲みながらテレビを観ていた。

 クッキーとカップを手に振り返り、お帰りなさい、と言ったまどかに、義毅は小さな頷きだけを返し、寝室隣の部屋へ進み、黒を基調とした服を身に着け始めた。

「今日はどうしたの?」部屋の入口に立ったまどかが、ソフトな声で問うてきた。

「よろしくな」義毅は黒の革ジャンパーに袖を通しながら、背中のまどかに声を投げた。

「俺は元々勝手な性分の人間だ。人間が一番大切にするもんの基準値がずれてんだ。お前はそれをちゃんと分かってる」振り向いて言った義毅に、まどかはその言葉の意味を痛く理解した顔を向けた。

「あなたがちゃんと帰ってくること、私、信じてる」まどかは義毅の目をまっすぐに見て述べた。

「今日のご飯のスパゲティとツナサラダ、作っておくから。それと、ビールも冷やしておくから」義毅はまどかの言葉には応えず、肩をいかつく張って部屋を出、玄関へ向かった。ガレージを出たソアラのルームミラーには、玄関を出て見送るまどかの姿が写っていた。十五時前の時間だった。ソアラは粛々と、家並の中を、東京方面へ向かって進んだ。

 背の高いキク科の雑草が風にそよいで踊り、得体の知れない実をならした朽ちた低木が、まばらに寂しく立つ地点だった。数十メーター先には、かなり古い年代のものと思われる、焼けた暴走族仕様のバイクが倒れて打ち捨てられている。

 村瀬の眼は滑稽なまでに真剣で、行川は「の」の字の両眼に、待ちかねていたことがこれから叶う歓喜を滲ませている。それは村瀬への好意のようなものを含んでさえいる。

 向き合って対峙した村瀬と行川を、李と平が遠巻きに挟んで目で張っている。

「大丈夫ですよ、ここは。地元の人は誰一人、恐れて足を踏み入れはしませんし、仮にたまたま人が来たとしても、ここで行われていることを見て、通報するような人はいません。ここに来る人は、みんな自分の身が第一に可愛くなるんですよ。ここは、見て見ぬふりと保身を象徴する、弱い者達の地獄です。もっとも、その弱い者というやつには、この行川は無論、あなたにも全く当てはまりませんがね」村瀬の5メーター前に立つ李が、センテンス終わりに狂気を孕んだ笑いを含めた。

 音一つない恵みの家のリビングには、一人の女の怒りと、もう一人の女の不安が帯電のように籠っている。今日から二日間宿直勤務に入る紅美子は、夕夏からの申し送りを受けてすぐに、まず、メモにあった村瀬の携帯に電話をかけたが、不在着信になった。それから合歓に連絡したが不在で、社長の個人用携帯にかけると、死んだ声の増渕が応答した。

 村瀬が夕夏に話し、夕夏が紅美子に伝えた内容に増渕が関わっていることを察知した紅美子は、彼を問い質し、曖昧な返答を繰り返す社長を、夕夏の目の前で、通話口越しに怒鳴りつけた。結果、いきなりホームへ押しかけてきた男達を中へ入れ、菜実の身柄を合法取引する電子契約書にサインをし、金を受け取ってしまったことを白状させた。

「あんたはもう何もせんといいです。私達が動きますさかい、いつも通りやっとって下さい」紅美子は捨てるように言い、通話を切った。

 スマホを片手にした紅美子は、今、恵みの家を巻き込んでいる事態と彼女の剣幕に圧されて俯いている夕夏を見、それから曇り空の窓外へ目を向けた。

「佐々木さん、菜実さんはどこへ拉致されたんでしょうか」声を高く震わせた夕夏の問いに、紅美子はきっと、潤んだ彼女の目を見た。

「拉致されて、今頃どんな酷い目に遭っているかと思うと、私、気が気じゃなくて」「夕夏ちゃん」紅美子が言って、足を夕夏に進めた。

「それは考えても考えても、どんだけ苦しんでもどうにかなるいうことやないやんか。そうなったら、自分達がどうするかが肝心やと思わんか」「でも、私達が手も足も出ないような、怖い人達なんでしょう?」「夕夏ちゃん。初心を思い出しや。私達は何のためにここにいてるん? それはここの子達を、事情あって一緒に暮らせへん親に代わって守るためやないの。今はおろおろしとる場合やあらへんで。どうするかを考えなあかんのよ」

 夕夏は目に涙を光らせてうなだれた。

「夕夏ちゃん、大変やろけど、今日、二十時くらいまで残ってくれるか。私は、これから、警察へ行くさかい」「警察?」夕夏が鼻水を啜り上げながら問うた。

「これは犯罪絡みやで」紅美子の目には決意が光っていた。

 脱いだ村瀬のジャンパー、行川のレザージャケットは、柿と思われる低木の枝に掛けられている。

 物言わぬ雑草群が左右にそよいで踊る中、行川が村瀬を見上げる形で視線を交換し、どちらからともなく差し出された拳が乾杯のグラスのようにかち合わされた。

 拳が下ろされると、行川のほうが一寸速く、アップライトのファイティングスタイルを取り、次いで村瀬が左前構えを取った。

 村瀬はジャブ気味のパンチを、一回、行川の頬に打ちつけ、行川も同様に軽いジャブで二回、村瀬の頬を叩き、二人の頬肉が鈍く鳴った。レンジの測定だった。

 先陣を切ったのは村瀬だった。村瀬の前蹴りが、行川の胸部に繰り出された。身長が小柄な故、インファイトを得意とするらしいことが前回の交わりで分かっている行川と、レンジを離すための牽制だった。

 行川はステップバックのフットワークでそれを避けた。 

 村瀬はレンジを半歩詰めた。同時に行川も出た。

 行川のロングフックが宙に半円の弧を描いて跳ね上がり、村瀬はそれを頬に受けた。

 思考の全てを奪われるような衝撃と疼痛に、村瀬の体が大きく傾いだ。

 ジャブ、ストレート、フック二連打のコンビネーションが視えない速度で繰り出され、村瀬の頭部が激しくバウンディングした。いつかのように、鼻の奥が切れる音を聞き、不快な温度を持つぬるいものが鼻から流れ出すのを感じた。

 赤いものを顔に光らせた村瀬は、気力、根をあるだけ搾るようにして体制を整えた。それも一瞬のうちに行った。

 構えた左でジャブを打つように見せかけ、反応した行川の中段を狙った突きを撃った。だが、そのクイックは行川に完全に読まれていた。

 行川は流れるようなフットステップで、それをかわした刹那に死角へ移動し、村瀬を玩ぶように、左ストレートの三連打、右のボディフックを一発、村瀬の体に突き刺した。

 自分に内在するものの一切が抜けていく感覚を覚えながら、村瀬はなお立っていた。その時、濁った視界に写る行川の自分を射る眼に、かすかな優しさが宿っているように村瀬には思えた。だが、今、この時間は、自分と彼は、敵として向かい合っている。

 この男は何者なのか。それは今の村瀬には、自分が大切にし、守ってきたものを無残に壊す敵であり、弱い立場の人間を食い物にして肥える闇宗教団体が抱える暴力専門家集団の一員ということしか分からない。だが、どういった経緯でそれに加わり、今も与しているのか。

 元々は善良な人間だったものが、何かの事情でやむなくこの組織に入隊したのか。それとも、元から砂鉄のように冷薄な血を体に通わせる人間で、この人例研究企画部こそを自分のその血潮を活かし、日々の糧にする場所としているのか。

 ただ一つ、村瀬にも理解出来ることは、己への反省がない怠惰と逆恨みから他人に怒りの牙を剥き出す、ちんけなヤンキーやチンピラの類いとは別質の人間であるということか。

 だから、ボクシングには真摯な姿勢で、真面目に打ち込んできた。一市民であり、納税者である自分とは、違った道にあった真面目さ。真剣に生きてきた人生。

 そんな感慨が胸に巡りかけた時、これまで彼のいる場にまつわってきた様々とした陰惨なエピソードが曖昧化され、情の気持ちが芽生えるのを村瀬は覚えた。

 三十年と少し前の自分がファミリー空手教室の門を叩いた動機は、自分を信じることの出来る自分を作りたいということに他ならなかったが、先日、喪失の悲しみから駄目になりかけた自分を磨き直すために、その二代目が師範代を務める教室に入門した。

 同じ格闘家だ。だから、真面目に戦うことで礼を尽くさなければ。

 その思いが像を結んだ時、開掌の左が顔前、右拳が肋に着いた、実戦仕様の構えを、村瀬の体が自動的に取った。行川は体勢低めのクラウチングに構えた。

 村瀬は痛みを噛み殺しながら、左の順突き、右の逆突きを行川の顔面へ刻んだ。行川はウェービングとスリッピングでそれを外し、瞬時に村瀬の視界から姿を消した。そう思った時、村瀬の右頬骨から左テンプルにかけて乾いた衝撃が貫通した。右へ移動した行川による、完璧なヒボットブローだった。

 半身が左へ崩れかけた村瀬の胃を、行川のボディアッパーが突き上げた。村瀬の意識が苦痛に霞んだ。意識が霞みながらも、構えを崩すことなく、後ろ摺り足で後退し、行川の隙を探った。 

 村瀬の鼻を狙った行川の右ストレートが来た。第二撃に左のショベルフックを用意していることが分かった。

 村瀬は左の上げ受けでストレートをブロックし、ショベルフックを払い受けで捌くと、すかさず体を低く沈めて回転させ、掬い上げるような後ろ回し蹴りを、行川の喉から顎を狙って放った。行川はまたヒボットでそれをかわした。

 村瀬は苦痛を懸命に堪えながら、左開掌、右拳肋の構えを作り直し、猫足を取った。行川はまたアップライトを整え直した。

 行川の右フックと村瀬の右正拳が交差し、互いの顔を捉えた。村瀬が正拳を合わせてくることは、行川の考えのスペアにはなかったようだ。互いに、左右のフックと鉤突きを、互いの頬に降らせた。

 行川の切れた目尻と唇に血が滲み始めた。頬にも小さな傷が出来ていた。

 ジャブ二連、ストレート一発、フックとアッパーを行川が繰り出し、村瀬はそれに正拳、鉤突きを合わせた。レンジはミドルだった。

 打たれた肉と骨の鳴く惨鼻な音が、方々からの鳥の啼きに重なり合った。李と平は立つ位置から動かず、言葉も発することなく、構成員として取り込もうとしている男と、自分達のセクションにおいて最強の暴力装置である男が、血の流れる顔を濃い朱に染め、打ち合う様を見ている。

 畳んだ肘から放たれる行川のストレートの三連打に鼻を集中的に打たれた村瀬の体が、左へ傾いだ。彼の顔はすでに血に濡れている。

 村瀬は顎から血を滴らせながら、懸命に運足し、行川の横、あるいは後ろへ回り込むことを試みようとした。

 意識は黄濁し、理は、もう頭には無い。理性も、囚われた菜実への案じも、今はどこかへ失せている。頭にあるものは、数分後か数十分後かは分からないが、最後に立っている者としてのポジションをいかに得るかということだけだった。

 行川の二発目のロングフックが伸びてきた。もう片方の拳が、村瀬のレバーを抉る準備を整えている。村瀬は薄れた意識の中、その軌道を計算した。

 村瀬はそのロングフックに、ハイの回し蹴りを合わせた。村瀬の脛が行川の頸を薙いだ。刹那、行川の体が大きく傾いた。

 傾いて、動きが一瞬だけ止まった行川の右脚付け根を、村瀬は左の下段で蹴り、間髪入れる間もなく、顔面に右の手刀と背刀を往復で打ち刻んだ。行川の顔の皮膚が鳴った。

 だが、行川はそれでも踏みとどまり、頭を左右に振りながらフルクラウチングを取り、村瀬の顔面にストレートを三発打ち上げた。村瀬も鉤突きと直突きで応酬した。

 今の自分は何を殴り続けているのだろう。彼は何を殴っているのだろう。自分の拳が行川の頬を裂く手応えの中、村瀬は自問自答した。

 これまでの人生で、自分自身が晒されてきた苦しみを馳せると、自分というパーソンにも何かのハンデがあるのかもしれない。だから、美咲のような女を呼び寄せ、生まれた子供も傍目には視え難いハンデを持ち、今、あの一件以来どうしているのかも分からない吉富のような男にいいように舐められ、知的障害の菜実に惹かれ、読字困難の愛美とも新緑になるかもしれない。

 現代の時間にも社会を分断する、果てしなく高く、重い鉄の壁。自分がその壁の前にいる人間か、中にいる者なのかは釈然とした理解を今も得られてはいないが、美咲、博人、恵梨香、菜実、愛美は、その壁に半身づつ東西、あるいは南北を裂かれている人間達だろう。それに吉富も、あの特攻拉麵の若者達も、彼らから私裁を受けていたあのアニメキャップの中年男も。

 この世に社会的不利としての障害というものが在り、それが人の辻にまんべんなく撒かれているから、自分はそれを踏み、この男達と関わることになり、市井の暮らしから逸脱して目の下に血を見、罪の海に入った。社会的不利とは、自分の心もならず、好きや嫌いを越えて、人を随意でない事象に巻き込むものだ。自分が深く関わった人間達は、その壁の犠牲者だ。

 その悲しみは、菜実と、激しく愛し合うまでの関わりをしたからこそ知ったものだ。

 今の行川が殴っているものも、実は自分と同じものなのかもしれない。人と人の疎通を割る壁。一個人がどれほど殴ろうと、断として倒れることのない壁。

 今、自分と彼が敵として向かい合い、命のやり取りを行っていることも、その壁が引き起こしていることだ。

 行川のストレートに打たれ、彼の顔面に鉤突きを打ち、揺れる意識の中で、取り留めなく考えた。互いの拳が互いの肉と骨を叩く音を、村瀬は数十回、頭の中に数えていた。

 互いの顔に相討ちの一撃が決まった。行川のロングストレートと、村瀬のミドルレンジの追い突きだった。足許をぐらつかせたのは行川のほうだった。

 朦朧とした意識の中で、行川の髪を掴み、顔面とボディに抉るような殴りを入れた。五発、六発と拳を突き込み、髪を掴んだまま、内出血、外出血で赤く腫れた顔面に膝を数発打ち上げた。行川の肉と骨が軋み鳴った。その音に、村瀬の吐息が重なり、響いた。

 組んだ両手を、声とともに息を吐き出しながら、行川の背中に九回叩き下ろした。

 行川は、村瀬のトレーナーの裾を掴んだまま、彼の足許に崩れていった。彼はまだ諦めていないのだ。彼が憤る何かへの、果てない戦いを。

 周りの雑草群に、二人の振り撒いた血が飛び散って、緑の中に赤い星群の図柄を堕としている。村瀬は肩を荒く上下させ、握りしめた拳を震わせながら、その生臭い星群に自失の目を這わせていた。

 李と平は、腫れた顔を鼻と口からの血で赤く濡らし、髪を乱れさせて立っている村瀬と、彼を掴んだまま、雑草の草叢に顔を埋めて斃れている行川を、言葉もなく観ている。品定めの眼だった。

 どこかで数羽の鴉が、不吉に啼いている。

 李の平への耳打ちと、携帯で話している平の声は聞き取れなかったが、車をもう一台呼んでいるらしいことは分かった。

 やがて、黒のスモークシールドを貼ったワゴン車が来て、曲者の人相をした男が三人降りてきて、村瀬と、彼を掴んでいる行川を引き剥がした。男二人に立たされた行川は、青く腫れて小さな傷をいくつも作り、鼻と口、額から血を流した顔の中にある黒く鬱血した目で村瀬を見たが、その目には名残惜しさと、これが本当のお前だ‥と一言を言いたそうな光が宿っていた。

 お前は、戦える男だ、と。

 村瀬は、その行川に敬意を払っている自分がいることに気づいていたが、このあとのことを逡巡している間はない。ありとあらゆる手を尽くしても、菜実を戻さなくてはいけない。彼女を今の自分と関係のないものと出来ない心は、短い間ではあるが、心を交え、互いを知った間柄であったことにある。触れ合うことの喜びと、悲しみも共有した関係。罪がないにも関わらず、自分の心が尊重されることなく、物としての扱いを一生涯に渡って受け続ける場所へ身柄を販売されようとしている彼女を。

 また、守らなくてはいけないものは菜実だけではない。今の自分を囲む、全ての大切なものも。

「お考えの時間を、一週間に短縮させていただきます」花見川に掛かる橋をリンカーンコンチネンタルが乗り上げた時、リアシートの隣から李は村瀬の耳に囁いた。

「掴んでおりますから。あなたご自身のことも、あなたの周りの人間関係の一切も。あなたの大切な人達がこれから幸せへの道を歩むか、そうでないかは、あなたがいいお返事をくれるか否やかにかかっているんですよ。それをお忘れなく。かねてより言っているように、私どもの仕事は、まかり間違っても暴力団ではなく、まっとうな警備業のようなものですからね。あなたが心配なさる反社どころか、むしろ遵社ですよ。尊社、とも言えるかもしれません。社会愛‥」

 李の垂れる能書きが、虚脱した村瀬の頭を暗く叩いた。

 家の前で降ろされる際、李は「では‥」と言い、村瀬は震える手でアコーディオン門を開けた。

 血に濡れた顔の父親を見た博人は、自分と決して無縁とは言えない恐怖のものを見た顔で、泣くような悲鳴を上げた。

「大丈夫だ。関係ないんだ、お前達とは」言って玄関前に座った村瀬の前で、博人は言葉なく泣き始めた。彼は知り、察している。父親による全容説明はまだだが、自分の父親がこれまでどんな理由でいかなる集団と関わり、その中で、自分や、大切な人間を守るために、仕事もある中年の身で行ってきたことを。

「いつかちゃんと話すよ。お前達のことは、お父さん、しっかり守るからな。何もないよ。お前らが不安になるようなことは‥」

 博人の泣き声は、居間のテレビ音声を掻き消して響いた。村瀬は立ち上がり、しゃくり上げる息子の肩を抱きしめた。

 血まみれの顔もそのままに博人の肩を抱いて居間に入ると、テレビはイブニングニュースを流していた。習志野市に住む無職の四十四歳の女が、児童ポルノ法、児童福祉法違反、売春取締法違反、生活保護法違反の容疑で逮捕、女は中学三年生の自分の長女に自宅で売春させ、自らも売春を行い、長女のポルノ画像、映像をネットサイトを通じて販売し、市から計二百万円あまりの生活保護費を不正に詐取していた疑いが持たれている、と読み上げられていた。

 博人の肩を抱く村瀬の腕から力が抜けた。

 小柴早由美母娘には、然るべき救いが来たのだ。これで早由美には反省の機会が与えられた。娘の悠梨も救い出されることになった。

 泣き続ける息子の抱いた肩を、村瀬は優しく叩きながら、そう言えば、と、吉富の息子と娘のことを思った。幼くして堂に入った恫喝を身に着け、父親同様それ一方のコミュニケーション手段しか持ち得なかった「けんと」と、小さな体と心にあらん限りの非道な虐げを受け、その後の人生の所在すら危ぶまれんばかりだった「じゅりあ」に、今後、最低限の幸せが保証される人生はあるのか、と。まさにそのために村瀬は「この親と縁を切れ」と言ったのだが、社会の壁がそれを妨げはしないだろうか、と。その壁が、あの二人の子供をあらぬ不幸の道へ追いやってしまいはしないだろうか。

 だが、今は自分の周り、菜実を含む近い人間達を案じなければならない。村瀬は思って、息子の肩を抱いた腕をそっと放し、廊下へ行った。

 マスオマートに電話し、二週間の休暇を申請すると、増本は渋い声を送ってきたが、とりあえずは通った。次に義毅にかけたが彼は出ず、村瀬は「助けてくれ」とメッセージ録音を入れた。その録音に弟が応じてくれることを祈りながら、村瀬は携帯を下ろした。

 紅美子は三山から自車の軽ワンボックスカーを飛ばし、津田沼へ続く市道に面して建つ習志野警察署の駐車スペースに入った。

「犯罪被害の相談なんですけど、今、話の出来る刑事さん辺りはいてますでしょか」受付窓口の制服警官に言うと、「被害届でしょうか」と訊き返された。

「性格的には、被害届に近いことです」「承知しました。今、署員を呼びますので、そちらで掛けてお待ち下さい」制服警官は紅美子の顔を見ずに早口で言い、壁沿いの背もたれなしソファを手で勧めた。

 十分程度待たされて、Yシャツにスラックスという姿の壮年の私服警官が来て、紅美子は二階の狭い部屋へ案内された。

「私は巡査部長をしている者で、奥山と申します。犯罪被害のご相談と伺っておりますけど、どういった害悪を」奥山と名乗った私服警官は、疲労に赤らんだ眼をまっすぐに向けながら、小さな溜息の混じった口調で問うた。手はPCのキーボードにかかっている。

「私は佐々木、言います。大久保に近い三山にあります、恵みの家、いう知的障害者の共同生活援助で世話人をさせてもらってます者なんですけど、今日、うちに入居してはる利用者の女の子が、略取されたんですよ」「略取、ですか」「そうです」「出来るだけ詳しくお話願えますか」奥山が身を乗り出した。

「その子は、今、二十六歳の女の子ですねんけど、前に、本人が言うには、お参り、いうことをやっとったそうです。それは話を聞きますと、男と関係を持って、団体に引き込むことで報酬をもらえるいうシステムのものだったそうなんです。人を取り込んでお金をもらう、いう所で、マルチと同じです。宗教法人の認可が降りてない宗教やったと私は見てるんですけど、心ある人が、体を張って、一度それをやめたそうです。だけど、古和釜の本社のホームにその団体の連中がやってきはりまして、うちの社長が、どこかの遠隔地の家の息子と結婚するいう同意書と契約書に署名させられて、金を受け取ってしもたんです。これは人身取引ですよね」紅美子の声が震えを帯びて落ちた。

 奥山はPCの画面と紅美子の顔を交互に見ながら、早いタッピングでキーボードを打った。

「メディアでも報道されてますが、昨年秋に千葉市の風営飲食店で発生した射殺事件はご存じですよね」「はい、勿論知ってはります」キーボード打ち込みの手を止めた奥山の問いに、紅美子は答えた。「これも一部報道されてることなんですが」奥山は目を瞬かせ、息を吸い込んだ。

「現在はまだ裏付けを取っている段階なんですが、あの事件の容疑者は、まさにそちら様が先ほどおっしゃった、無認可の宗教団体というやつに囲われていたらしいことが、供述で判明してるんです。被害者の二人は、検挙歴、短期間の服役歴もある虞犯者で、出身県も割れていますが、本籍地からの住民票の移動がなくて、今はまだ、住所不定、職業不詳の扱いになってます。容疑者が同居の父親を同じ銃で殺害したことも知っておいででしょうが、その辺りの動機は現在、訊き出しにかかっています。佐々木さんがおっしゃるものとその団体は、私はおそらく同一だと思います。その全容はこれから解明されていくことと思いますが、ただ、現段階では、私達にもお力になれないかもしれない部分があります。それはですね」奥山はデスクの上に両手を置いた。

「略取とおっしゃいましたが、これは刑事法的に略取の罪状は成立しないかもしれないんですよ」「成立せん? どういうことでっしゃろか」紅美子の問い返しに、奥山は赤らんだ目を窓側へ向け、唇を噛む顔をした。

「そちら様の利用者の方が、その契約にご自身から同意して、事実上の監督者も同意したとなりますと、受け取ったお金は結納金という扱いになって、何の脱法性もない普通の結婚という解釈になります。そうなると、警察は動けません。ただし‥」奥山はデスクの上の手を組んだ。

「あの一件でこれから捜査が進展して、検察庁や弁護士会も動くことになった場合は、略取という考えが持たれて、不同意に結婚させられたとされる女性達の身柄が、保護者の許へ帰るということもあるかもしれません」

 奥山の表情には苦悩が色濃く浮き出している。それは市民の安全を守る公僕としての矜持と、厳然としてある上部や法の在り方がせめぎ合っていることによるものであることが分かる。

「この子です。名前を池内菜実、言います。字は普通の池内に、菜っ葉に実る、です」紅美子はバッグから写真を出し、PC越しに奥山に手渡した。その写真は、昨年にホームでケーキとピザのクリスマス会を行った時に撮った一葉で、飾りつけのされたツリーをバックに、サンタ帽を被った菜実が、プレゼントの箱を手に持って笑っているものだった。

「平成十ⅹ年六月二日生まれで、見ての通り目尻の下がった顔が特徴で、身長は百六十一センチです」

 紅美子が説明するデータを、奥山はPCに打ち込んだ。

「趣味は音楽番組を観ることと、音楽のCDを聴くこと、洋服やコスメの買い物です。好きなアーティストは、maybeです。性格は、優しゅうて、自分よりも障害の重い子達の面倒をよく見ます。それで‥」紅美子は言葉を区切った。

「怒り、いう感情を、概念のレベルで知りまへんのです。あるもんは、広うて温こうて、どこまでも優しい心、だけです」

 紅美子の述べに、奥山はキーボードを叩く指の動きを止め、画面を見つめながら、数秒間目を閉じた。

「お宅はん方もこれまでの捜査や取り調べの経験から知ってはるでしょうけれど、あの子達は、健常者とされる人達の高圧に抗う術を持たへんのです。健常者が黒いものを指してこれは白やと言う時、そのままこれは白、と自分を納得させてまうんですよ。それで自分に悪意、害意を持つ相手に迎合して、時に媚びて、自分の身を守ろうとするんですわ。そうせんことには、生きていけへんからです。それがあの子らの生存手段なんです。せやから、強要、脅迫の線で捜査をお願いしたいんです。菜実も、うちの社長も、その強要の被害者ですから。社長は、私が言うて、被害届を出させるようにしますさかいに」

「お話は、よく分かりました。お気持ちも分かります」奥山はPC画面から顔を上げた。

「これは本来言ってはいけないことですが、警察の仕事には、一署員の思いの自由というものはなかなか届かないことがままあるものなんですよ。強要、脅迫は、量刑的に重くない罪状です。決定的な証拠がない場合、一署員の一存では動こうにも動けない場合もあります。ただ、私が持った心証では、仮にどうにもならないとしても、どうにかはしてあげたい、というところです。今回、その利用者の方の身柄を取り戻すためだけに警察が動くことは難しいかもしれません。先も言ったように、捜査の進展に賭けるしかないと言えます」奥山は瞼を重く閉じて言うと、小さく息を吐いた。

「警察いうもんは、何のためにあるもんでっしゃろか」奥山に見送られ、署の入口扉の前に出た紅美子が問うような言葉を投げかけた。

「自分の性格を言えば、自負出来るぐらいに気が強いですよ、私は。でも私らは、組織という在りようを持つ力に対して、抗う力は持っとらんのです。今、ここに来てはる私などはしがない個人でっから。警察は、力を持たへん市民を守るためにある公僕とちゃうんでしょか。それがでけへんやったら、腰に下げてる警棒も、ホルスターに収まっとる拳銃も、手帳も、みんな飾りいうことになると思うんですけど、違いまっしゃろか。喫煙場所外での喫煙に高圧的な注意しはったり、交通違反の切符切りで点数稼ぐことが、自分らは偉い、いうアピールなんでしょか」怒気の籠った紅美子の皮肉に、奥山は言葉をつぐんだ。言いたいことを、今は抑えているという風に見えた。

「民事専門の弁護士を当たります。警察は、もうあてにはしまへん」紅美子は残し、駐車スペースに止めた自車に向かって歩んだ。

 バックミラーには、入口前に立ち、何かを訴えたげな顔を闇に霞ませて立つ奥山が写っていた。ハンドルを左に切ると、署舎が横にパンして写り、奥山の姿が消えた。

 空に濃紺の闇が拡がる時刻、市川市福栄の、マンションが立ち並ぶ広い通りだった。その男は、公園脇のコンビニエンスストアから、弁当の袋を下げて出てきて、南行徳の方面へ足を進めていく所だった。そこへ黒のソアラが、極めてのろい速度で並走した。その速度は、男の足取りに合わせたものだった。

 目尻が鋭く吊り、気合を呑み込んだように締まった口の顔つきをした、縦の高さ、横幅もある体を持つノーネクタイのスーツ姿をした、その三十半ばの男は、警戒の目をソアラに向けた。

 来る者とはいつでも一戦を交えるという意思の現れた挙措で、隙が全く無い。義毅はスモークシールドのリアガラスから、その男の薬指付け根にしっかりとした空手胼胝があることを確認していた。

 義毅がブレーキを踏んでソアラが静止すると、男も足を止めた。体が、弁当を足許へ置く準備をしている。

 義毅はソアラを路側帯に一時停車して車を降り、ガードレールを挟んで男の前に立った。

「誰だ、お前」「宍戸実(ししどみのる)さんだね」威嚇を込めた男の誰何に、義毅は氏名確認をした。

「実戦空手、剛道会館市川支部の指導員で、昔の時分に関東エリアの重量級大会で準優勝。仕事は鉄工職人だったけど、会社が五年前に倒産。それで体が虚弱な奥さんと、重度の心身障害を持つ、今中学一年の息子を養うために、あの奴らの兵隊募りに応じたんだよな」

 宍戸の拳が軽く握られたが、義毅の体は、彼のパンチとキックが届く間合を外れている上、ガードレールが盾となっている。身の回りにあるものは、アタック、ディフェンス両方に、効果的に利用する。それは義毅が荒川という稼業名で、長年、裏渡世に生きながら培い、身に着けた、文字通り、数瞬後の人生の有無を決定する鉄則だった。

「乗ってくれ。抵抗したきゃしてもいいけど、それは今、あんたの益にはならねえよ」義毅が投げた言葉に、宍戸は動きを封じられた悔しい憤りを雄々しく呑んだ顔をし、やがて、ガードレールの間からソアラの許へ歩み来た。自分の置かれた状況を察しきっている様子だった。

「見てくれ」義毅は助手席に座った宍戸の目の下に、ポケットタブレットの画面を差し出した。

 画面の中には、どこかの和室で目を伏せてうなだれる、痩せた女と、背もたれを上げ下げ出来るタイプの車椅子に乗った、関節が拘縮して手足の向きが不自然な少年のライブ映像が映し出されている。

 怒気を呑みながらも、動揺を懸命に抑える表情を見せる宍戸の、鼻からの吐息が、ソアラの車内に静かに響いていた。かねてより覚悟していたことが訪れた時の人間の顔だった。

 女は、助けを求めるように、時折ファインダーに視線を合わせているが、身体障害と併せ持つ知的障害が重度の少年は、自分の身に起こっていることに理解が及んでいるかどうかも分からない様相だ。

「苦しんでるはずだ。こういう子供を持ちながら、同じような人間を利用しなきゃいけない矛盾に」義毅が言うと、宍戸は眦の吊った猫科の顔を彼にちらりと向けて、組手で相手と立ち合う時の眼で、鋭く睨んだ。

「あんたの組織でのポジションは、法徒と呼ばれる信者を監視して、実力で抵抗を殺ぐ部門の主任だよな。その実力が振るわれるのは内側に対してだけじゃねえ。勢力同士の競り合い他、司法関係の人間を脅迫づくで恫喝する際にも存分に使われるんだ。認めるな」義毅の問いかけに、宍戸は遅れて頷いた。

「今日、あんたの所属する部門が、柏から女を一人さらった。その目的は、その女を金に換えることだ。あんたら尊教純法が新しく始めたゴトだ。これは俺からの頼みだ。その女の身柄が、今、どこにあるのかを教えてくれ」

 宍戸は口を堅く結び、鼻からの吐息を荒くした。ソアラの中で二人の男が交わすやり取りに関しない冬服の人々が、ガードレール向こうのアベニューを速足で通り過ぎていく。

「やりようはあるぜ。一度、形式上の離婚をすることだ。そうすりゃ、あんたの上は、奥さん子供をあんたとは関係ないものと見なして、手をかける可能性はぐっと低くなるんだ。それに、あんたの組織はもう一枚岩じゃねえ上に、これから捜査のメスが入るかもしれねえ。ただしもっとも、今、組織を動かしてる中枢は、任意の事情聴取程度はされても逮捕はされねえ手筈が整ってる。稼いだ金も温存される。県警、本庁は言うに及ばず、霞が関にも、あんたらが管理する女の顧客がいるからな。もしも崩れてくとすりゃ、残った連中の内紛だろう」

「俺の女房と子供を返せ」宍戸が顔を乗り出し、義毅の顔に寄せた。

「俺の兄貴が、今日、あんたの上の人間に同じことを言ったはずだ。俺が愛した女を返してくれとな」義毅の眼に浮かんだかすかな悲しみを汲んだように、宍戸の顔から気勢が消えた。

「いいか。俺はこれをやりたくてやってるわけじゃねえ。罪のねえ一人の女の人生が、今、かかってんだ。その女のために、やりたくねえことを敢えてやってるわけなんだ」「それなら、俺の女房子供にも罪はねえはずだろう」宍戸は悲しみの抗議が籠った声を、義毅の顔に吐きかけた。

「そりゃそうだ。その理屈は間違っちゃいねえ。けど、罪ってもんは、誰かの罪のために、より大きな罪を犯さなきゃいけなくなる時だってあるんだ。あんたは相当な場数がある人間だと見込む。だから、その道理はよく分かってるはずだろう。連鎖だよ」

 街灯りに白く照らされた宍戸の顔は、義毅の言葉にかすかな納得を見せたものになった。だが、抗いの色はまだ消えてはいない。

「今なら、俺が連れの奴らに指示を出せる。教えてくれ。女の身柄がある場所を」「台東区の三ノ輪の、高層都営住宅だ。部屋番号は、西館の605号。明日の四時に、そこから中国自動車道を経由して、西へ送られることになってる。品川ナンバーの、紺のメルセデスだ」義毅のポケットタブレットは、そのやり取りを完全録音している。

「これが合鍵だ」宍戸は懐から、一丁の鍵を出し、義毅は受け取った。オートロック完備のマンションでは、活動拠点としては動きづらく、防犯カメラなどの設置がなく、住人が互いに無関心な住宅環境のほうが融通が利いて動きやすいことも、義毅には知識として身についている。

「襲うんなら気をつけろ。腕の立つ奴らが、道具忍ばせて警護で詰めてるぞ。今、中に三人配置してる」「分かったよ。その辺りじゃ、こっちも抜かりはねえぜ」義毅が言うと、宍戸は憤りの気が消えない顔を軽く俯かせた。

「吸うんだろ。匂いで分かる。禁煙車じゃねえから、遠慮すんな」義毅は言いながら、レザージャケットの懐から出した洋煙草を一本咥えた。それから宍戸がためらったような手つきで煙草を出した。

 義毅の差し出した、長く伸びるジッポーの焔が、宍戸が咥えた煙草の先端を炙った。すぼめた口から吐き出された煙が、明るい紫の色合を成して漂った。義毅も、洋煙草の先端を、寄り目加減に見ながら点火した。

 宍戸の持つ煙草の先は震えていた。義毅はそれをちらり、ちらり、と見遣りながら、早いピッチで洋煙草を吸った。
「恩に着る‥」サイドドアを開けた宍戸に義毅が送った。弁当の袋を提げ、南行徳方面へ去りゆく宍戸の背中には、悲しみと安堵の両方が、目には見えないオーラとなり、浮いて昇っていた。

 睡眠を全く摂れていない村瀬は、布団から半身を起こし、組んだ手元を見つめていた。

 誰を頼るかというところで、義毅を思い浮かべた。だが、義毅からの連絡はない。

 自分はどうするべきなのだろう。

 菜実のために一時人例に加わった時は、自分の隠された一面を見る冷酷な働きをした。これが自分の本性の一部だとすれば、自分は向いているのではという考えに流されそうになるが、それは何としても打ち消さなくてはいけない。

 自分は今、脅迫と強要を受けており、菜実の身柄取引は、判断力不全による誘導であり、刑事法はともかく、民事では略取という考えが成立するかもしれないと思える。

 恵みの家の支援者と連絡を取り合い、法テラスに相談しよう。全容を弁護士に話せば、おそらくは自分も暴行傷害、決闘の罪咎に問われるだろう。それで刑に服すことになっても、それが菜実の解放に繋がるなら、いいだろう。

 今、海老原の息子による供述で、純法が世間に知られる前段階に来ている。自分がそのきっかけに貢献することが出来れば。全ては菜実のためだ。愛美は理解するだろうし、博人は何とかなるだろう。また、恵梨香は仕事を頑張りながら、裕子さんというらしいホストマザーの許で、自立を目指してしっかりと生きていくことだろう。たとえ母親に続いて父親までが訳ありの人間になるとしても。

 枕元の時計は明け方の時間を差していた。ガーゼと絆創膏の貼られた村瀬の顔は、まだひりひり、ずきずきと痛んでいる。
 
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