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第七十話 きっと、最期まで

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 息を深く吸って、ゆっくりと吐く。そうして呼吸と気持ちを整えてから、シャーロットは口を開いた。

「ヴィクター、あなたを好きって言った言葉に嘘はない、けど、忘れて」

 ヴィクターが何も言わないので、シャーロットは男から目を逸らしたまま話し続けた。

「わたしはフェリックスからあなたへと軽々しく動いちゃいけない。そんな、彼の最後の恋を軽んじるようなこと、絶対許されない」

 このことをもっと早く、ヴィクターへの思いに気づく前に知れていればと願わずにいられない。シャーロットは同じように泣いて、しかしその心は恋人への思いだけで満たされていただろう。少なくとも、大切な人を自分の言葉で傷つける苦しみに、心を裂かれないで済んだだろう。

 そのとき、シャーロットの胸に問いかける言葉が浮かんだ。それはヴィクターを傷つけてでも、貫くべきことなのかと。
 ――そうだ。だって。

「あなたは、どうか、他のひとを好きになって。優しいあなただから、わたしのことも引きずるかもしれないけど、でも――きっと、最後には幸せになれるわ」

 ――この人には、未来がある。

 フェリックスと違って。

 自分の問いには、時間をかけずに答えられた。ヴィクターに声を出して聞かれても、同じように答えるつもりだった。

「……指輪を渡すと決めたとき、そう言われる、いや、言わせてしまう気はしていました」

 頭上から降ってくる声は相変わらず穏やかで、優しかった。それを、彼らしくない、とは思わなかった。
 自分には過ぎる男だと、心の底から思った。同じ年頃の少女たちのほとんどが彼を望んでいるのに、よりによってなぜ、他の男との事情を抱える相手ばかり好きになっているのだと思えば、男のめぐりあわせの悪さをも恨んだ。

「シャーロット、あなたは自分の言ったことを、覚えていますか。この恋の、終わりの形が定まったとき、一緒にいてくれと。あのときも泣いていましたね」
「……面倒ばっかりかけてごめんなさい」
「ほんとですよ」

 そう言いながらも、時折しゃくりあげるシャーロットのぐしゃぐしゃの頬を包み込む手は温かく、それが余計に涙腺を刺激した。

「わかりますかシャーロット。今が、そのときなんですよ」
「うん、ありがとう」

 シャーロットは子どものように頷いた。
 約束を守ってくれてありがとう。わたしを守ってくれてありがとうと、言葉にならない思いを込めて、涙の染み込んだ男の手に自分のそれを重ねる。そして、優しいその手を頬からゆっくりと剥がす。

 ――ことができなかった。

「いや絶対わかってませんよね。こっちは、その恋終わらせろって言ってるんですけど」

 白い手袋に包まれた男の手は、シャーロットの顔から離れなかった。力の入った指先が、わずかにシャーロットの頬に食い込んですらいた。

 シャーロットは予想外の反応に固まった。てっきり、目の前の男はシャーロットの気持ちを汲んで、部屋から立ち去るだろうと思っていたのに。

「ヴィ、ヴィク」
「アデルがそうであるように、故人を思って生きていく道だって、確かにあります。その方が、無理に他の誰かと一緒になるより楽な場合もあるでしょう。その選択を止める権利なんて、誰にもありません」

 下を向いていた顔が上げられて、ずいと、真剣なヴィクターの瞳が間近に迫ってくる。そこに映る金髪女の顔の、なんと呆けたことか。

「それが、本心なら、ですけど」
「……え」
「いない人間を、他人を言い訳にするなってことですよ」

 ぴしゃりと断じられて、シャーロットは息を呑んだ。

「言い訳って、そんなんじゃ」
「俺を好きだと言ったのに、彼の生前の行動を知るなり俺を拒み始めたじゃないですか。俺を受け入れることを、罪深いことのように思いはじめたじゃないですか」

 言い返す言葉が出てこなくて、シャーロットは焦った。
 しかも、いつの間にかシャーロットは顔のみならず、腰にも手を回され、逃げることができなくなっていた。加えて、今いる部屋で自由を奪われた夜の記憶も蘇ってきて、暑くもないのに背中を汗が伝っていった。
 思わず身をよじったシャーロットの様子に、ヴィクターの表情が翳る。

「……もし、生き残った人間が幸せになることが罪深いなら、やはり俺は傷を治すべきじゃなかった。いっそ二年前に、忠実な彼と一緒に死んでおくべきだった」

 思いがけない言葉に、シャーロットは目を剥いて大きな声を出した。

「そんなわけないでしょっ!」
「じゃあ、この先もずっとロバートとアデルのことを、後ろめたく思って生きていくべきでしたか。あなたは、過去を片付けたと言い切った今の俺を、軽蔑しているんですか」

 まさか、とシャーロットは首を横に振った。それを受けて、ヴィクターの顔つきがほんの少し緩んだような気がした。

「あなたとわたしじゃ、全然事情が違うじゃないっ」
「同じです。終わった恋に、囚われている。死者と、それに絡む感情に足を取られて、抜け出せなくなってる」
「やめて、わたしは囚われてるわけじゃない、抜け出すなんて、思い出を悪く言わないで」
「シャーロット」
「わたしはフェリックスを忘れない、別の恋で、あなたで上書きするなんてできっこない、絶対に。なのに、あなたを好きだなんて言って、後悔してるし反省してる。……謝るから、お願いだから、この冬の出来事は忘れてよ。面倒な女への同情心が、共感でちょっと拗れただけ。過去を清算できたのは私がいたからでも何でもない、ただそういう時が来たっていうだけ、それだけでいいじゃない。……わたしに、フェリックスを、わたしの恋を裏切らせないでっ」

 シャーロットの頬を、また涙が伝った。
 思いを告げたのは、後悔しないためだったはず。
 それがどうして、こんなことに。
 この部屋に入るまで、彼が自分を選んでくれたらと夢想した。
 それがどうして、自分から拒むことに。
 どうしてこんなにも苦しめられるのか。人に隠れた恋だったからか。

 神様、天使様、それからおばあ様。この身の罪深さは、ちゃんとこの後の人生で償うから。

 だからどうか、目の前の優しい人に、これ以上ひどい言葉を聞かせないで。

 シャーロットが思いの丈を吐き出すと、それを待っていたかのように、今度はヴィクターの口が開いた。

「……思い出は幻滅されない。みっともなくあがく生者は、どうしたってきれいなままの死者にかなわない」

 ヴィクターはシャーロットの両頬を片手で挟み、自分と目を合わせさせた。優しかったが、抵抗を許さない強さがあった。

「そんなことは、もう十分、嫌になるほど分かってるんです。はなからフェリックス殿とあなたを取り合う気はない」

 真剣な表情に、息が止まった。

 男の視線は、さながら銃口のようにまっすぐ、容赦なくシャーロットに向いていた。
 かつて、この部屋でよく似た状況になったときは、その夜の月のように冷たい目が、忍び込んだ者を凍りつかせた。
 今は、似ているようで、真逆だ。暖炉で燃え盛る炎のように、瞳の奥に宿した熱で、相手を炙ろうとしている。

 焦げそう。それまでとは違う理由で、シャーロットの背筋に震えが走った。

「いいですかシャーロット。俺が恐れているのは、あなたの心が他の男に向いていることじゃない。――昨日があなたといられる最後の日だったのだと、気がつく日がくることです」

 伝え忘れた数々の言葉に溺れ、動けなかった己への後悔に足をとられて窒息しそうな日々の、始まり。

 ――そんな日が、もう一度来るくらいなら。

「俺を横に置いたまま、気がすむまでフェリックス殿に思いを馳せていればいいじゃないですか。目の前にいる俺を好きじゃなくなる日まで、それを続ければいいじゃないですか」
「……な、」

 シャーロットはぽかんと口をあけた。
 意味がわからなかった。もしやヴィクターは、シャーロットの態度に業を煮やして、とうとう異国の言葉でも話し始めたのだろうかと思いさえした。

「何言ってるのっ、だから、そんな中途半端なこと許されるわけないでしょ!」
「誰に? 俺がそれを望んでるのに、他に誰がこの恋を断罪しに来るんですか」

 間髪入れずに返されて、シャーロットは言葉に詰まる。
 ヴィクターの方も、答えを待ってはいなかった。

「シャーロット、俺は『フェリックス殿はあなたの新しい幸せを望んでるに違いない』なんて無責任なことは言えません。もしかしたら『他の男と添い遂げるくらいなら後追ってこい』ぐらいに思っているかもしれない」
「思ってない! そんな人じゃない」
「へえ、なら問題ない」

 反射的に返した言葉の揚げ足を取られて、シャーロットは思わず睨んだ。ヴィクターはそれを難なく受け止める。

「シャーロット、あなただって、彼がもう何もできないんだってこと、嫌ってほどわかってるはずです。あなたと話すことも、触れることも。
 あなたが俺と一緒にいることを許さないのは、他でもないあなた自身ですよね。“そういう人間”になるのが嫌なんですよね」

 断言されても反論が思い付かなかったのは、図星だったからだ。
 誰もシャーロットの心変わりを責められない。二人の関係は秘密だったから。
 責める権利のある人は、“手の届かない”場所にいる。――届かないのは、お互い様だ。

「でも俺は、あなたに“そういう人間”になって欲しい。フェリックス・ロザードが用意した指輪を、手紙の束を、太刀打ちできないほど美しい思い出を山ほど抱えたままで構わないから。……もしも、心の全部が、彼に殉じていないなら。生きている部分が俺の方を向いているなら」

 ヴィクターの手が、シャーロットの顔から離れた。躊躇うことなく、フェリックスからの指輪を持つ手を、上から包むように優しく、強く包み込む。

「あなたが許せない自分の姿が、俺にとっては残りの人生の希望だってことを、ちゃんと知っていて欲しいんです」

 重ねられる言葉には嘘も誤魔化しも飾り付けもない。そこまでなりふり構わず求めてもらう価値が自分にあるとも、シャーロットには思えないのに。
 ここまで言われてもなお、――ここまで言ってもらえたからこそ、シャーロットの中には懸念が生じる。

「……ヴィクター。わたしは、子どもの頃からついこの前まで、ずっと一人を愛し続けたあなたとは違う」

 無意識に唾をのみこんだのは、自分の倫理観に責められるのを恐れるからか、相手からの幻滅を恐れるからか。

「自分で自分が予測できないの。今の気持ちが、薄れずにずっと続くかわからない。何かのきっかけで、また別の人を愛するようになるのかもしれない。……それこそ、フェリックスからあなたに、心変わりしたように」

 こんなにも思われて、果たして自分はそれに見合うだけの思いを持っているのか。持ち続けられるのか。
 そんなことを今から心配するような女が、ヴィクター・ワーガスにふさわしいはずがない。それを伝えるはずだった。

 突然、唇を覆った熱に阻まれなければ。

「死者は、決して色あせない。けれど」

 眼前に迫る、独特な色味の茶色い世界。
 ――目だ。とても近い。

「……フェリックス殿がどんなにいい男でも、こんな状況のあなたを、俺から引き離すこともできない」

 ヴィクター・ワーガスという男の目が黒く見えるのは、長い睫毛が影を落とすせいである。過去に囚われて、明るい方向から目を背けていたせいでもある。
 至近距離で、光を受け止める彼を前にして、ようやく黒だと思った瞳が鳶色だったことに気づく。

 瞬きすれば互いの睫毛が当たりそうな今ならなおさら、それがありありとわかる。

「それにひきかえ、俺はこの先も、あなたに近づく男は全力で追い払いますし、離れていこうとするあなたを取り返すためになんでもします。なんでも出来ます。……ちょっとやそっとの悪意には殺されない自信もある」

 固まったシャーロットの手の中の指輪が、元の小箱へ丁寧にしまわれる。「……段取りが悪かったですが、ちゃんと、俺からも用意しますので」と低い声で呟いたのは耳に届いていたが、彼女は正直なところ、そんなことに注意を払っていられなかった。

「それに心配しなくても、自分がされて嬉しくないことは、なるべくされないように対処なり、努力なりしますよ。あなたが望もうと拒もうと」

 一瞬で過ぎていった出来事に、遅まきながら理解が追い付いてきたシャーロットだったが、目の前の男があまりにも涼しげな顔で話を進めるので、自分の気のせいだったかと思い、呆然自失のまま指先を唇に持っていった。そのとき一瞬、ヴィクターの顔が笑った。悪戯を成功させたかのような、獲物をしとめたかのような。
 それでいて、どこか気恥ずかしげなような。

 それに気づいたシャーロットの顔が、みるみるうちに染まっていく。暖炉の火より赤くなっていくのを、ヴィクターは笑って眺めていた。冷笑とも苦笑とも異なる、無論作り笑いでもない、シャーロットが初めて見る表情で。

「どうぞ、気がすむまで思いを馳せてください。過去の男にも、これから出会う男にも。そもそもこの国に、猪と並べる勇者が何人いるのかわかりませんが――ただ忠告しておく。きっと、最期まであなたの側に居座り続ける男は、結局俺だけだろうってこと」

 ――言いたいことは沢山あった。これは相手の同意なしでしていいことじゃないだとか、猪って仮にも口説く相手に言うことかだとか、自分の力ずく仕事を棚に上げてよくもそんなことをだとか。

 こんな自分を選んで、いつか後悔しないか、だとか。

 とても大事なことだったのだが、シャーロットはそれら全部を、一旦わきに置いておくことにした。
 それより、相手の腕に負けないくらい、全力で抱き締め返すほうが重要だからだ。

 明日、何がおきても、二人がこの瞬間を思い出して、後悔しなくていいように。






 ――例えば。

「ねぇ、誰かいるの?」
「!?」

 暖炉の明かりがカーテンの隙間から漏れていたせいで、不審に思った掃除女中に発見されることや。

「ちょっ、まっ、ヴィクター離してっ、ちょっと、あなた待って、あの時の女中よねっ!?」
「…………失礼いたしました、お客様」

 その女中が、あわてふためくシャーロットを残して、なに食わぬ顔で立ち去ってしまう、なんてことがおきても、後悔しないように。


 
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