君がいるから呼吸ができる

尾岡れき

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12 君は歩みだしたい



「はい上川君、久しぶりね」
「いや、今日、授業で会ってるじゃん。もっと言えば、ホームルームで会ったの5分前」
「そんな過去のことは忘れたわ」
「5分前を憶えてなかったら、短期記憶障害じゃん」
「カミカミ君、もっと大事なことを私たちは話しあうべきだと思うわ」
「人の名前をわざと間違うな、あからさまに間違うな」
「うん、良い感じ。上川君、そんな感じで教室でもボケてくれたら、楽しいのに」
「やだねー」

 こんな軽い口調でやりとりをしているが、本題はもちろん弥生先生が一番心配していた下河のことだ。

「で、どこまで行ったの? A? B? C?」
「俺と下河を恋バナトークに巻き込むのやめてくれません? 俺らそんなのじゃないから。それと、恋愛のABCはもう古いですからね。今はHIJKですよ!」
「さらっと豆知識を披露して、私の年齢を上川君がもてあそぶー」
「誤解を招くような言い方、やめてくださいって!」
「弄んだって、下河さんに言ってやるー」

 脱力である。ちなみに恋のABCもHIJKもここでは解説しないので、各自で検索をお願いしたい。それから、そういう目で俺たちを見るの、本当にやめて欲しい。

 最近、弥生先生は俺をからかうことを楽しんでいないだろうか。なんか、とても疲れる。
 はい、仕切り直し。

「ふふ、でもやっぱりその表情が本来の上川君なんだね」
「え?」

 俺は予想外の言葉に目が点になったんじゃないかと思う。

「勿体ないなぁ。君はこんなに人を明るくしたり、誰かを支える力があるのにね」
「え? え?」

 今の主題は下河であって、俺ではないはずだ。弥生先生の言葉に面食らってしまう。

「あのね、勿論下河さんのことは、全力で何とかしてあげたいって思ってるよ。現状、君に頼りっぱなしで本当に申し訳ないなぁって思うけどね。でも、君も私の生徒だからね。君のことも気になるわけ」

「……」

「でも、海崎君ともお話しできていたみたいだし。下河さんを巡る問題だから、そんなに単純な話しじゃないことは、分かっているけどね。私としては、君の素顔を下河さん以外の人に見てもらえたらなぁって、そう思ちゃうのよ」
「え、えっと……?」

 弥生先生は真正面、見据えて俺にそう言う。そんな風に言われると非常に照れくさい。正直、俺はそんなデキた人間じゃない。下河の力にになりたいと思っているが、結局、俺が下河を支える以上に、俺は下河に支えてもらって。そして俺の方が下河に支えてもらってばかりで。

「それと、ね」
「え?」
「下河さんが元気になったらで良いんだけど、私もシフォンケーキをいと食べたひ」

 弥生先生、最後に本音ダダ漏れ、やめてくれる?




■■■




 まぁ、弥生先生の言うことも分からなくも無い、と思う。

 今日はスコーンを作って、下河は待っていてくれた。ふんわりして、ほどほどの甘さ。学校が終わって、それなりに神経を擦り減らしていたのか、この甘さに体も心も癒されるのを感じる。
 サンドウィッチと野菜ジュースという取り合わせだったので、お腹も満たされて幸せな気持ちでいっぱいになる。

「美味しい」
「嬉しい」

 俺と下河と声が重なって。二人で目をパチクリさせて――何だか可笑して吹き出した。

「上川君って、本当に美味しそうに食べてくれるなって思ったの。ウチって、甘党はお父さんだけで。お母さんも弟も、あまり得意じゃないから。こうやって、美味しいって食べてくれる人が友達になってくれたから、また作りたくなっちゃったの。ごめんね?」

「いや、本当に美味しい。毎日、食べたいくらい、本当に美味しかったから、つい本音がね」
「毎日……」

 下河の呟きで、俺もはっとする。毎日食べたいって、まるでそれこそ求愛プロポーズじゃないか。思わず、俺は頬が熱くなったのを自覚した。

「みんなも食べたいって思うんじゃないかな? 弥生先生も下河さんのことを気にしていたこともあったけど、お菓子に興味津々だったぞ?」
「そっか……」

 ちょっと考えるこみながら。下河にとっては、色々なことが葛藤するんだろうな、と思う。

「上川君、あのね」
「ん?」

「実はスコーン、ちょっと作りすぎちゃって。明日、お昼のデザートを持っていきます? 夏目先生にもお裾分けできるぐらいの量はあるから」
「え? 俺にまで良いの?」

「うん、一番は上川君に食べて欲しいかな。美味しそうに食べてくれる、そんな顔を見ちゃったらね」
「俺、メチャクチャ食い意地はってるみたいじゃん」

 苦笑する。下河もつられて笑った。

 弥生先生にも、海崎にも食べてもらおうか。下河のスゴイ所、ステキな所を見てもらえたら。心の底から、そう思ってしまう。
 ずっとこうして、下河の笑顔を見ていたいと思ったが、今日の本題はそこじゃない。一緒に食器を片付け、次のステップへ望まないといけない。

 下河が大きく深呼吸をした。緊張するのが見てとれた。
 大丈夫。俺は彼女に囁いた。一緒にやろう。

 下河は俺の顔をぼーっと見て――少ししてから、俺の言葉を理解してくれたのか、小さく頷いた。
 一人でやるんじゃない。無理なら今日はそれでも良い。でも、一人じゃない。頼りないかもしれないけれど、俺と一緒にやろう。

 俺は下河の耳元で、言葉を重ねた。下河は、コクリと頷き、笑顔を咲かせる。その笑顔をもっと見たい。そんな風に思う俺は、本当にワガママだ。




■■■




 一歩、踏み出す。少しだけ息が浅い。でも、下河に苦痛そうな表情は見られなかった。緊張で、表情が強張っているけれど。玄関を出て。よく手入れされた庭を出て、公道へ。

 それだけ。

 ただ、それだけの距離。
 でも、下河には本当に大きな距離で。
 俺は焦らせないように、でも孤独を感じさせないように、彼女のペースに合わせて、歩みを進める。

「……上川君、あの願いがあります」
「ん?」
「この近くに公園があるんだけど、そこまで行ってみても良いですか?」

 下河の言葉に俺は驚く。呼吸の浅さから考えても。肩で息をするその様子を見ても。体も心も葛藤しているのが、鈍感な俺でも分かる。
 でも、彼女は彼女なりに自分自身の殻を突き破ろうと必死で。だったら、俺は応援することしかできない。

「無理だけはするなよ?」
 どうしても心配してしまう俺に、彼女は小さく頷いて微笑んだ。




■■■




 公園までだいたい、800mほど。小さな公園で、滑り台とブランコ、砂場がある程度の可愛らしいミニサイズのスペック。下河の家に行く途中、毎回通るので、土地勘がない俺でも場所は知っている。

 ゆっくり下河は歩みを進める。
 俺は急ぎすぎないように、遅れすぎないように歩みを合わせていく。

 あと少しで公園――そう思った瞬間、誰かが通り過ぎた。60代ぐらいの主婦だ。買い物の帰りなのか、食材が入ったエコバック片手にペコリとお辞儀をしてくれた。――俺たちもお辞儀をして過ぎ去る。

 それだけ。
 ただ、それだけのことだった。

 刹那――下河が口をパクパクさせた。まるで水中のなか溺れ、必死にもがくように。その手を、喉や胸元に手を置いては、離して、必死に酸素を求めるかのように手をのばした。

 俺は、何がなんだか分からず、立ち尽くしてしまった。
 今さらだが、弥生先生の言葉が、脳内で再生される。

 ――下河さん、人と関わる時ストレスで過呼吸になったことあったの。そこだけ気をつけてあげてね。

 妙にスロー再生で。いつも呑気な弥生先生の声が、より間延びして聞こえて。
 愚かなことに、ここにきて俺はようやく気付いたのだ。

 下河が発作を起こしたことに――。
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