嘘つきな獣

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 だがセシルとてここ数日何もしていなかったわけではない。
 激しい怒りに駆られ、いっときは己を失いかけたセシルだったが、塔の外では王子として、シャロンとシャロンの祖国ロートスのために尽力していた。
 そうなるに至ったのも、シャロンを手に入れた事で心に余裕ができたことが大きな要因だった。
 ロートスを滅ぼすと息巻いていた父王を根気強く説得し、冷静さを取り戻すよう働きかけた。
 ロートス国王やその臣下たちは仕方がないが、せめて罪のない民の命を奪うのだけはやめてほしいと。
 そのかいあって、どうやら最悪の事態だけは免れそうな雰囲気になってきた。
 だが安心はできない。
 セシルの意見をよしとしない者もいるからだ。
 特にシャロンを戦利品として連れ帰ったのだと思っていた貴族などは、なぜ憎き敵国の王女を賓客のように扱うのかと、セシルの行動に批判的だ。
 この上セシルの本心を知れば反発は必至だろう。
 シャロンも自身の置かれた状況に困惑しているはず。
 早く話をしなければならないのはわかっている。
 けれど彼女を前にするとどうしても余計な事を口にしてしまう。
 結局必要最低限の言葉をかけることもできず、今日まできてしまった。
 日を追うごとに、シャロンの顔を見るたびに、やはり自分はどうしようもなく彼女に惹かれているのだと思い知らされる。
 ただでさえ焦りを感じているところに、アイリーンがセシルの命令を無視し、シャロンを守るために最適だと用意したあの部屋へ入ってきた。
 黙って見逃すことなど到底できない。
 何せ彼女はシャロンとの婚姻に誰よりも反対していたヘイルズ公爵の娘だ。
 父親から何かしらの指示を受けている可能性もある。

 「まさか、これまでにも侵入を許したりしてはいないだろうな」

 セシルは横目でアレンを睨んだ。

 「俺の部下に限ってそれはないと信じたい……でも、もしアイリーン嬢が出入りしたのなら、シャロン王女からお前にひと言あるんじゃないか?」

 確かにアレンの言う通りだ。
 だがシャロンはセシルを信用していない。
 もちろんそれは自分のせいだということも痛いほどよくわかっている。

 『私が何を言っても、信じてはくださらないでしょう』

 何もかも諦めたような表情が思い出され、胸が痛む。
 ──何をしてるんだ、俺は

 「とにかく今は一刻も早く真実を掴まなければ」

 ロートス国王に関しては同情の余地はないが、セシルにとって重要なのはそこではない。
 知りたいのはシャロンの身に何が起きていたのかだ。
 エドナに届いた情報と、シャロンから聞いた話には大きな乖離がある。
 シャロンの言っていることは真実なのか。
 いくら惚れた女といえど、彼女の言う事を何も疑わずに信じられるほど、セシルは馬鹿でも能天気でもない。
 惚れているからこそ、シャロンがエドナを傾国に導く女であってはならないのだ。
 “王太子”という己の置かれている立場を誰よりもよくわかっているからこそ、確証がいる。
 
 「はいはい、お前も正念場だな。しばらく逢瀬は我慢して、犯人探しに専念しろよ」

 「わかってる」

 
 ***


 再びセシルが来なくなってから数日が経ったある日。
 扉の外で男たちの言い争う声がしたと思ったら、入室してきたのは嬉しくない訪問者だった。アイリーンだ。
 アイリーンはシャロンが座るテーブルまで乱暴な足取りでやって来ると、許可を得ず向かい側に腰を下ろした。
 およそ公爵令嬢とは思えない礼儀作法だ
 アイリーンは何も言わず、黙ってシャロンを睨みつけている。
 
 「……本日は何の御用でしょうか」

 前回、セシルからここには出入りしないよう言われたはずだ。
 だからこそ入口の衛兵と一悶着あったのだろう。
 しかしそれを言うと面倒なことになりそうなので、口には出さないでおいた。
 どうやって兵士を黙らせたのかは不明だが、アイリーンの後ろには屈強そうな護衛が二人控えている。
 力ずくか、それとも権力を行使したか。
 
 「ねえ、シャロン様。いったいどうなっているのかしら」

 「どう……とは?」

 「セシル様がいつまで経ってもあなたの処遇を保留するものだから、議会は紛糾してるわ。このままじゃ、セシル様が臣下からの信頼を失いかねないわ」

 処遇についてはこちらの方が知りたいくらいだ。
 それに、セシルの信頼云々に関しては、シャロンの知った事ではない。
 
 「お話する相手を間違えてはいませんか?私には意見するなどもってのほか、拒否する権利もありません。下される沙汰を【黙って受け入れる】という選択肢しかないのです」

 「嘘よ」

 「は?」

 「あなた、口では何だかんだと聞き分けのいい事を言って、本当はセシル様にどこにも行かされないようおねだりしてるんでしょう。その身体を使ってね」

 「そんな事はしておりません。侮辱するのもいい加減にしてください!」

 「人の恋人を色仕掛けで籠絡して……なんて卑しい人なのかしら」

 “恋人”という言葉になぜだかチリチリと胸が焼けるようだった。
 二人が恋人同士なら、なぜロートスは攻められねばならなかったのか。
 裏切ったのはお互い様ではないのか。
 そしてシャロンはどうしてこの理不尽に耐えなければならないのか。 
 王族だから、王女だからなのはわかる。
 わかるけど──

 「……あなたが言う事を聞いてくれないのなら、仕方ないわね」

 「……何がですか?」

 「ねえシャロン様。もうセシル様を自由にしてあげて?あなたがいる限り、彼はいつまでたっても自由に生きられないのよ」

 それはセシルがロートスを滅ぼしても尚【元婚約者】という事実に縛られているとでもいうのか。
 シャロンが存在することが悪で罪なのだと。

 「私にどうしろとおっしゃるのです」

 「うふふ。どうしろだなんて、そんな」

 シャロンは、蛇のように絡みつくアイリーンの視線から逃れるように、自分の前に置かれたカップに視線を移した。
 
 「いいお天気ですわね。バルコニーに出ましょうか。シャロン様も、部屋に籠もりきりでは気が滅入るでしょう?」

 アイリーンは立ち上がり、バルコニーに通じる大窓の前に立った。

 「シャロン様……」

 エイミーが、不安げな声を漏らす。
 彼女の側にはアイリーンが連れてきた屈強そうな護衛が二人立っていた。

 「心配ならあなたもいらっしゃいな。さあ」

 アイリーンは、エイミーも一緒に来るように促すと、先にバルコニーへと足を踏み入れた。
 アイリーンの後に続きバルコニーへ出ると、湿り気を帯びた海風が頬を撫でる。
 手すりの先にはエメラルドグリーンに輝く広大な海。
 シャロンはゆっくりと歩を進め、手すりの側に立つアイリーンより数歩手前で足を止めた。

 「あら、どうしたんです?この美しい景色を一緒に見ましょうよ。さあ」

 本能が“行くな”と頭の中で警鐘を鳴らす。
 アイリーンは苛立った様子でシャロンの背後に立つ護衛に視線でなにか合図した。
 後ろを振り返ると、アイリーンの護衛の一人が、エイミーの背後で剣の柄に手を添えていた。
 言うことを聞かなければ、彼女を人質に取るつもりなのだろう。

 「お願いですからあの者に手を出すのはおやめください」

 「あら、まるで私が彼女をどうにかするような言いぐさですわね」

 (なんて白々しい)
 実際、そのつもりなのだろうに。
 だが、いくらシャロンが懇願したところで、これから起こる出来事を目撃してしまえば、アイリーンがエイミーを生かしておくはずもない。

 「彼女は無関係です。このまま部屋から出し、その足で実家に帰らせてやってください。そうしていただけるのなら、素直にあなたの望みどおりにいたしましょう」

 アイリーンはふん、と鼻を鳴らしたあと僅かに逡巡し、エイミーを部屋から出すよう護衛に指示した。

 「シャロン様!!」

 部屋を出される直前、エイミーがこちらを振り返り叫んだ。
 彼女がいたから、ここでの生活にも耐えられた。
 決して巻き込んではいけない。
 シャロンは『大丈夫』と言い聞かせるように笑顔を作って見せた。
 そして『……今までありがとう』と、心の中で呟く。
 エイミーが部屋の外に出たのを見届けると、アイリーンの顔から笑みが消えた。
 そして護衛を一人扉の前に立たせると、もう一人がシャロンのすぐ側までやってきた。

 「色々考えたのだけれど、これが一番いい方法なの。ちゃんと弔って差し上げるから、恨まないでくださいね」

 護衛がシャロンの腕を掴み、身体を抱えようとした。
 おそらく投身自殺と見せかけ、バルコニーから落とすつもりなのだ。

 「触らないで!」

 咄嗟に振り払った護衛の手にシャロンの爪がかすり、薄く血がにじむ。

 「……ごめんなさい。けれど、自分でできますから」

 自分を殺そうとしている相手になにを謝っているのかと、思わず自嘲してしまう。
 シャロンはおもむろに履いていた靴を脱ぎ、揃えて置いた。
 そして前へ進むと、バルコニーの手すりに手をかけた。
 目の前に広がるのは雲一つない青空と、日の光を受けて輝く凪いだ海。
 海のない国に育ったシャロンにとって、この景色を初めて目にしたときは衝撃だった。
 世の中には、こんなにも美しい光景があったのかと。

 死ぬのは怖い。

 けれど、果たして今の自分は『生きている』と言えるのだろうか。
 心の中で自身に問いかけるシャロンの目に、白い翼を広げ、青い海の上を悠々と飛ぶ海鳥の姿が映った。

(自由になりたい)

 何も選ぶことのできない人生だった。
 もしも生まれ変わることができるのなら、あの海鳥のように、どうか、自由に。
 ありったけの力をこめて、手すりから身を乗り出そうとしたその時──

 「シャロン!!」

 背後から聞こえた声に身体が固まる。

 「セシル殿下……」

 恐る恐る振り向いた先には、息を切らし、こちらに向かってくる青年の姿が。

 「来ないでください」

 シャロンが発した言葉に青年の足が止まる。
 そして青年は揃えて置かれたシャロンの靴を見て表情を険しくした。

 「今すぐそこから離れてこっちへ来い」

 「いやです」

 はっきりと返した拒絶の言葉。
 青年は驚いたように目を瞠る。

 「私がいなくなったほうがいいのでしょう。あなたも、アイリーン様も」

 「なにを言っている」

 「閉じ込めて、詰って、弄んで……もう十分満足したでしょう?」

 そこまで言うとシャロンの顔はくしゃりと歪み、涙が頬を伝い落ちた。
 それを見た青年の表情が一変する。
 さっきまでの強気な態度は消え、明らかに動揺が見て取れる。
 愛する人がいる身で散々好き勝手しておいて、今さらになって良心が痛むとでもいうのだろうか。
 なんて身勝手な人たちなのだろう。
 これまでは、祖国の民になにかあったらと、その一心で耐えてきた。
 けれど──
 (これ以上無理だ)
 きっともう、ずっと前から自分の心は限界だった。
 そのことに気づき、なにかがぷつりと切れた。
 シャロンはありったけの力を込めて手すりから身を乗り出す。

 「やめろ!!」

 青ざめた顔で手を伸ばし、こちらへ向かってくる青年に微笑んで、シャロンは青い海へと身を投げた。


 ***


 波の音が聴こえる。
 そして部屋の中を移動する足音も。
 瞼が重い。
 薄く目を開けるのがやっとだ。
 目に入ってきたのはロートスで過ごした自室の天井とは違う。
 
 ──これは……エドナの……あれ、私……

 「……うっ……!」 

 強烈な頭痛に思わず声が漏れる。
 すると奥で動いていた誰かが慌ててこちらへ向かってきた。

 「シャロン様!!」

 血相を変えて走ってきたのはエイミーだった。 
 
 「シャロン様、お目覚めになられたのですね!良かった……本当に……うっ……!!」

 ベッドの側に膝をつき、涙を流すエイミー。
 彼女の泣き顔を見たシャロンは、自分の身に起きた出来事を思い出した。
 (そうだ……私、バルコニーから……)
 落下していく時の感覚がよみがえり、震えが走る。
 見れば身体のあちこちに包帯が巻かれており、動かすと痛みが走る。
 どうやら自分は助かったらしい。
 けれど一体どうやって?
 
 「……っ!!」

 自分がここにいる経緯を聞きたかったのだが、酷い頭痛にうまく口をきくことができない。

 「シャロン様、大丈夫ですか!?エイミーです!わかりますか?」

 エイミーはとても興奮しているようで、近距離でまくし立てられたシャロンはたまらず首を横に振った。
 声量を抑えて欲しかっただけなのだが、エイミーはそれをまったく違う意味に受け取ってしまった。

 「シャロン様、おわかりにならないのですか?……まさかご記憶が……そんな!!」

 エイミーは驚愕の表情をシャロンに向けた。
 そしてすぐに踵を返し部屋から出て行ってしまった。
 その場に取り残されたシャロンは痛む頭を押さえながらうずくまる。
 やがてエイミーよりも重量ある足音がこちらへ向かって響いてきた。
 凄まじい勢いだ。
 そして扉が乱暴に開かれる音がしてすぐに、足音の主がシャロンの元へと駆け込んできた。

 「シャロン!」

 足音の主はセシルだった。
 彼は部屋に入るなり大声でシャロンの名を呼び、ベッドの側までくると膝をついた。

 「シャロン!あぁシャロン……本当に……!」

 自分を見つめる青灰色の瞳から大粒の涙が溢れ出し、シャロンは驚愕した。
 (この人はなぜ泣いているの……?)
 
 「シャロン──」

 「セシル殿下!どうかおやめください」

 セシルが言いかけた言葉を遮ったのはエイミーだった。
 セシルを追いかけて来たようで、必死で走ったのか息は苦しそうに乱れていた。

 「セシル殿下!先ほども申し上げましたようにシャロン様は記憶を失われております!どうか無体な真似はおやめください!」

 どうやらエイミーは、早とちりを通り越してとんでもない勘違いをしてしまったようだ。
 シャロンは慌てて訂正しようとしたが、その瞬間再び激しい頭痛が襲ってきた。

 「……っう……!!」

 「シャロン!!」

 頼むから至近距離で大声を出さないで欲しい。
 シャロンは両手で頭を抱えた。

 「シャロン。俺だ、セシルだ。本当にわからないのか?」

 セシルは恐る恐るシャロンの顔を覗き込む。
 その表情はなぜだかとても緊張しているようだった。
 そのまましばらく強張った顔でシャロンを観察していたが、反応がないのを答えだと思ったようだ。
 セシルはしばらくの間拳を握り締めていたが、やがて何かを決意したように顔を上げた。

 「シャロン……シャロン王女。俺、いやの名はセシルという……いや、いいます」

 聞き間違いだろうか。
 今『私』と言わなかったか。

 「私はあなたの婚約者です」

 なぜそれを伝える必要があるのだ。
 本当にシャロンが記憶を失ったと思っているのなら、彼らにとってこれほど都合の良いことはあるまい。
 これを機に処分するなり厄介払いするなり、さっさとしてしまえばいいのに。
 セシルの思惑がわからず、シャロンは痛む頭を押さえながら彼の顔を見つめ返すことしかできなかった。

 「シャロン王女」

 優しく身体を引かれ、セシルの腕の中に包まれた。
 大きな手が優しくシャロンの頭を撫でる。

 「俺……私が側にいます。だから今は安心して養生してください」

 口調まで変えてシャロンを欺こうとするのは何故だ。
 シャロンが意識を失っている間に何か予期せぬ出来事でも起こったのだろうか。
 (まさか……エウレカが動いた……?)
 可能性は低いが考えられない事ではない。
 同盟国が急襲に遭い、王家に迎えるはずの花嫁が奪われたのだ。
 エウレカがエドナを攻撃する理由としては十分過ぎる。
 このまま記憶を失ったと思わせる方がいいのか。
 それとも本当の事を話した方がいいのか。
 どちらにせよ今のシャロンは冷静に判断できる状態ではなかった。
 
 「今薬を持ってこさせます」

 エイミーが慌てて部屋を出て行く。
 セシルはシャロンの身体に負担をかけぬよう慎重に横たえると、部屋を出て──行かなかった。
 




 
 

 
 
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