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第一話 ルイン・ネルケ -2
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険しい渓谷の隙間から差し込む朝日が、切り立つ急峻な山肌に張り付くようにして立ち並ぶ家々を照らし出す。夜が終わり、一日が始まるその瞬間、ヴィンターベルクの街は橙色に輝くのだ。そんな美しい街を囲む岩山の麓に、帝国軍の基地はあった。
基地内の最も山に近い位置には竜たちの離着陸場があり、そこからほど近い場所に騎竜たちの住まいである竜舎は建てられている。
その竜舎から最も近い場所にある隊舎から続く、細い小路を早足で歩きながら、ルインは明け方の寒さに身を震わせた。まだ秋の始まりだというのに、早朝は身を切るような寒さだった。
ルインが配属されているヴィンターベルク城塞は、帝国の北東部に位置している。
北に大陸の屋根と呼ばれるノルトダッハ山脈を望み、東はストラナー連邦に接する。要は国境にして最前線。大陸統一を大義として、四方八方で戦争をしている帝国の北東部戦線と呼ばれる場所がヴィンターベルクだ。
ヴィンターベルクの他の家々がそうであるように、竜舎も針葉樹を乾燥させた木材と山から切り出した石材を使って作られており、冬に降り積もる雪に負けないように頑丈な造りになっている。しかし、寒いものは寒い。
「寒……」
竜舎に入って、ルインは思わず呟いた。
吐く息は白く、吸う空気はひんやりと冷たい。しかし、このヴィンターベルク城塞においてこの程度の寒さはまだ序の口なのだ。これから秋が深まり冬になるにつれて、どんどん寒さは厳しくなっていく。
とはいえ、竜たちにそんな人間の都合は関係ない。
朝の早い竜はもう目覚めていて、すんすんと鼻を鳴らしている。早く水を新しいものに変えてあげなくてはいけない。
辺境であるヴィンターベルク城塞に来てよかったと思うのは、水だけは豊富で思う存分使えるということだ。特にこの竜舎には、裏の山から直接引いた湧水を貯める水場が作ってある。滾々と湧き続ける湧水は全てが凍る真冬でも凍結せずに流れ続けるため、年間を通して安定して水が確保出来た。
一抱えほどもある大きな桶を使って、ルインは十六頭全ての竜の水を入れ替えていく。
竜は頑丈な身体と賢い頭脳を持つ、気位が高い生き物だ。水がなくても長期間生きていける特性を持っているが、種族としては清純な水を好む。それ故か、せっせと水を汲んでくるルインを見て、竜たちは歓迎するように声を上げた。
「おはようさん、相変わらず早ぇな。ルイン」
「おはようございます、グスタフさん」
水の入れ替えが終わり、今度は掃除をするためにフォークを手に取ったときだ。
入り口に見慣れた大男の姿があった。顔に大きな傷のある壮年の男は、ルインと同じ竜騎士団所属の竜師の徽章のついた作業服を着ていた。――ルインの直増の上司であるグスタフ・エッヘだ。
「どこまで終わった?」
「水の入れ替えまでです。掃除はこれから」
「そうか。じゃあそっちは頼む。俺は餌の調合してくるかな」
「はい」
ヴィンターベルク城塞の竜師長であるグスタフは、ルインの竜師としての師匠でもある。
厳つい顔のわりに親切で気安い彼は、城塞のみんなからは「親父さん」や「グスタフさん」と呼ばれて親しまれていた。腕のいい竜師である彼と、ルイン。それから――。
「おはようございます! あ、あの! ちょっと寝坊しちゃって……」
「おはよう、リアム。寝坊はしてないと思うよ」
「そうだぞ、リアム。ルインが無駄に早ぇんだよ。俺も今来たところだ」
グスタフの後ろから飛び込むように竜舎に入って来た少年、リアム・シュミット。
この三人でヴィンターベルク城塞にいる全ての竜の面倒を見ている。
リアムは先の春オルデンに入団したばかりの見習いだ。どうにも早起きが苦手らしく――といっても、十分早朝と言っていい時間帯にはやってくるのだけれど――毎回、竜舎に来るのが最後になってしまうことを気にしているらしい。それを慰めるようにグスタフがリアムの頭を軽く叩いた。それからすれ違いざまにルインの耳元でこっそりと囁く。
「ルイン、お前最近またあんまり眠れてねぇんだろ」
「あー、まぁ、はい……」
言い訳するよう夢見が悪くて、と呟くのはルインの定番の言い訳だ。
あの夢を見て、青い顔をして出勤してくるルインをグスタフはいつも心配してくれるのだ。
ルインが頻繁に見るいやに現実的で生々しいあの夢。あれを「夢見」という単語だけで片づけていいものかどうか、ルインにはよく分からない。
ただひとつ分かっているのは、あれはただの「夢」ではないということだ。
ルイン・ネルケには前世の記憶がある。
否、正確には「前世の記憶」を頻繁に夢に見ると言った方が正しい。
七十年前、確かに存在したリーヒライン王国。今ではもう帝国の一地方としてのみ、その名前を残すかつての王国は、帝国が戦争を始めた初期に接収され滅んだのだ。
大陸の北西部に位置した小さな国。土地がやせて作物があまり育たないその王国は、けれど秋になると美しい麦穂の黄金で彩られていた。
そんな小さいけれど美しい国で、生きて死んだ記憶がルインにはあった。
帝国に愛する人を殺されて、孤独と悲しみを抱えて生きたその記憶。
十六の誕生日を迎えたあの日から、夜な夜な繰り返し見るその夢は、今を生きるルインにとってまるで悪夢でしかないものだった。
基地内の最も山に近い位置には竜たちの離着陸場があり、そこからほど近い場所に騎竜たちの住まいである竜舎は建てられている。
その竜舎から最も近い場所にある隊舎から続く、細い小路を早足で歩きながら、ルインは明け方の寒さに身を震わせた。まだ秋の始まりだというのに、早朝は身を切るような寒さだった。
ルインが配属されているヴィンターベルク城塞は、帝国の北東部に位置している。
北に大陸の屋根と呼ばれるノルトダッハ山脈を望み、東はストラナー連邦に接する。要は国境にして最前線。大陸統一を大義として、四方八方で戦争をしている帝国の北東部戦線と呼ばれる場所がヴィンターベルクだ。
ヴィンターベルクの他の家々がそうであるように、竜舎も針葉樹を乾燥させた木材と山から切り出した石材を使って作られており、冬に降り積もる雪に負けないように頑丈な造りになっている。しかし、寒いものは寒い。
「寒……」
竜舎に入って、ルインは思わず呟いた。
吐く息は白く、吸う空気はひんやりと冷たい。しかし、このヴィンターベルク城塞においてこの程度の寒さはまだ序の口なのだ。これから秋が深まり冬になるにつれて、どんどん寒さは厳しくなっていく。
とはいえ、竜たちにそんな人間の都合は関係ない。
朝の早い竜はもう目覚めていて、すんすんと鼻を鳴らしている。早く水を新しいものに変えてあげなくてはいけない。
辺境であるヴィンターベルク城塞に来てよかったと思うのは、水だけは豊富で思う存分使えるということだ。特にこの竜舎には、裏の山から直接引いた湧水を貯める水場が作ってある。滾々と湧き続ける湧水は全てが凍る真冬でも凍結せずに流れ続けるため、年間を通して安定して水が確保出来た。
一抱えほどもある大きな桶を使って、ルインは十六頭全ての竜の水を入れ替えていく。
竜は頑丈な身体と賢い頭脳を持つ、気位が高い生き物だ。水がなくても長期間生きていける特性を持っているが、種族としては清純な水を好む。それ故か、せっせと水を汲んでくるルインを見て、竜たちは歓迎するように声を上げた。
「おはようさん、相変わらず早ぇな。ルイン」
「おはようございます、グスタフさん」
水の入れ替えが終わり、今度は掃除をするためにフォークを手に取ったときだ。
入り口に見慣れた大男の姿があった。顔に大きな傷のある壮年の男は、ルインと同じ竜騎士団所属の竜師の徽章のついた作業服を着ていた。――ルインの直増の上司であるグスタフ・エッヘだ。
「どこまで終わった?」
「水の入れ替えまでです。掃除はこれから」
「そうか。じゃあそっちは頼む。俺は餌の調合してくるかな」
「はい」
ヴィンターベルク城塞の竜師長であるグスタフは、ルインの竜師としての師匠でもある。
厳つい顔のわりに親切で気安い彼は、城塞のみんなからは「親父さん」や「グスタフさん」と呼ばれて親しまれていた。腕のいい竜師である彼と、ルイン。それから――。
「おはようございます! あ、あの! ちょっと寝坊しちゃって……」
「おはよう、リアム。寝坊はしてないと思うよ」
「そうだぞ、リアム。ルインが無駄に早ぇんだよ。俺も今来たところだ」
グスタフの後ろから飛び込むように竜舎に入って来た少年、リアム・シュミット。
この三人でヴィンターベルク城塞にいる全ての竜の面倒を見ている。
リアムは先の春オルデンに入団したばかりの見習いだ。どうにも早起きが苦手らしく――といっても、十分早朝と言っていい時間帯にはやってくるのだけれど――毎回、竜舎に来るのが最後になってしまうことを気にしているらしい。それを慰めるようにグスタフがリアムの頭を軽く叩いた。それからすれ違いざまにルインの耳元でこっそりと囁く。
「ルイン、お前最近またあんまり眠れてねぇんだろ」
「あー、まぁ、はい……」
言い訳するよう夢見が悪くて、と呟くのはルインの定番の言い訳だ。
あの夢を見て、青い顔をして出勤してくるルインをグスタフはいつも心配してくれるのだ。
ルインが頻繁に見るいやに現実的で生々しいあの夢。あれを「夢見」という単語だけで片づけていいものかどうか、ルインにはよく分からない。
ただひとつ分かっているのは、あれはただの「夢」ではないということだ。
ルイン・ネルケには前世の記憶がある。
否、正確には「前世の記憶」を頻繁に夢に見ると言った方が正しい。
七十年前、確かに存在したリーヒライン王国。今ではもう帝国の一地方としてのみ、その名前を残すかつての王国は、帝国が戦争を始めた初期に接収され滅んだのだ。
大陸の北西部に位置した小さな国。土地がやせて作物があまり育たないその王国は、けれど秋になると美しい麦穂の黄金で彩られていた。
そんな小さいけれど美しい国で、生きて死んだ記憶がルインにはあった。
帝国に愛する人を殺されて、孤独と悲しみを抱えて生きたその記憶。
十六の誕生日を迎えたあの日から、夜な夜な繰り返し見るその夢は、今を生きるルインにとってまるで悪夢でしかないものだった。
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