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第二十五話 戸惑い -1
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夜の帳が落ち切り、周囲はすっかり闇に包まれていた。
戦時下であるヴィンターベルク城塞内は、夜とはいえ灯りを全て落とすことはない。それでも夜の闇は深く暗い上に、外は数日ぶりの雪が降っていた。
――今日は、会わなくて済むと思っていたのに。
そう思いながらルインは目の前の赤髪の竜騎士を見た。竜騎士は肩や頭の積もった雪を払いながら竜舎の中に入ってくる。
夜半、ルインが夜番をしているとシグルドが訪ねて来たのだ。
その日、一日をルインは竜舎で過ごした。昼食を取る暇もないほど忙しかったということもある。けれども、どこかでシグルドとすれ違うのが恐ろしくて、ずっと避けていたのだ。
日課であるアーベントの世話も竜師に任せきりにするしかないほど、シグルドが多忙だったことはルインにとっては僥倖だった。戦闘が激化している今、特務武官は何かと慌ただしく以前のようにゆっくりとアーベントの世話をすることも難しくなっていた。
今日だって朝から晩までお偉方と一緒に戦略会議とやらに出席していたから、当然竜舎には顔を見せなかったのだ。そのことにひそかに安堵していたのだけれど。
「部屋に帰って来ないから探した。夜番だったのか」
「そうです。重症の子たちがいるので。言ってませんでしたか?」
「聞いてないな」
どうやらシグルドは遅くまで帰って来ない同居人を心配して、わざわざ探しに来てくれたらしい。その優しい言葉に、ルインは自らの失態を悟った。彼を避けるあまり、伝えなければいけない用件を伝え忘れていたようだ。
「朝まで竜舎で過ごします」
「そうか」
今日は部屋には戻らない、と告げればシグルドは頷いた。
シグルドは南方でも戦闘を経験しているから、竜師の職務には詳しいのだ。ルインが言えばすぐに納得してくれたようだった。
けれども、何故かシグルドはその場から動かず、じっとルインを見ていた。
「あの……」
何か他に用件があるのか、と視線だけで問う。
「いや、ああ、夕飯は食べたのか?」
「食べました。食堂でパンをもらってきて」
そう言ってルインは竜房の隅に置かれた毛布と水筒をちらりと見た。
竜師が竜舎に泊る際は、様子を見なければいけない竜の竜房のひとつに入って夜を明かす。今回は重症の竜が二頭いるので、最も傷が深い竜の竜房で寝起きすることになっていた。
「ここで寝るのか」
「そうです。この子が一番重症なので」
言えばシグルドは包帯を巻かれた竜をしげしげと眺めた。
昼間に変えた包帯は清潔で、薬と消毒液の匂いがする。血はすっかり止まっていたから、そのことにシグルドは幾分か安堵したようだった。
「……ルイン」
「はい?」
「身体は大丈夫か?」
朝は何も言わなかったくせに、今、ここでそれを問うのか、と思った。
正直な話をすると今日一日、ルインはずっと腰を庇っていた。あれだけ丁寧に抱かれたけれども、それでも身体は辛かった。股関節や後孔や腰が痛くて、太ももはずっと強張っている。しかし、それを周囲に悟られるのは絶対に嫌だった。だからこそルインは辛い身体を押してでも極力普段通りに過ごし、今夜の夜番を引き受けたのだ。
「まぁ、大丈夫ですよ。……まったく平気かって言われれば、そういうわけではないんですけど」
素直に痛い、とは言えず、そう答えればシグルドは静かにそうか、と返した。
「……コーヒーでも入れますか?」
何も言わず立ち尽くしてしまったシグルドにルインは言った。
本当はさっさと帰って欲しかったが、シグルドは一向に立ち去る気配を見せなかった。
だから、何か話したいことでもあるのかと思ったのだ。――まぁ、その内容なんて昨日のこと以外にはないだろうけれども。
そうであれば、立って話すよりも座って話したい。身体が痛いので。
ルインは竜舎の中央に置かれたストーブで沸かしていたケトルを手に取った。
アルミのマグカップに注いだコーヒーは、雪かきをしてくれた兵士たちに振舞う支給品のものだ。部屋でシグルドが入れてくれるそれよりもずっと味も香りも落ちるが、凍えるような寒さの中ではいっとう美味しく感じられるだろう。
「こっち、来ます?」
マグカップを渡しながら、ルインは竜たちが使う寝藁を厚めに敷いて作った即席の寝床を指さした。そこに座って毛布を拡げて促せば、シグルドは無言のままでそっとルインの隣に腰を下ろす。
いつもとは立場が逆になったようだった。
不愛想で言葉の少ないルインに、シグルドはいつも笑って何くれと世話を焼いてくれるのだ。
これまでは気づかなかったけれど――否、気づかないふりをしていたけれど、ルインはそうやってシグルドに世話を焼かれたり、構われたりすることが嬉しかったらしい。
されて嬉しいことは、人にもしてやりたくなるものだということを、ルインはこのとき初めて知った。それも好きな相手には特に。
「アーベントに会いに来られないくらい忙しいんだから、疲れてるんじゃないですか。さっさと部屋に戻ったらいいのに」
ひとつの毛布をふたりで分け合っているという喜びとは裏腹に、そんな可愛くないことを口にしてしまう。そんなルインにシグルドは慣れているのだろう。小さく笑って、渡したマグカップに口をつけた。
「部屋に帰ってもひとりだからな」
眦を緩ませて、そんなことを言うこの男は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
竜たちの呼吸とコーヒーを啜る音だけが響いていた。
外は雪が降っているが、風はあまり強くはない。静かに降り積もる雪はあたりの音を吸い取ってしまうから、どうしても冬の夜は静謐なものとなる。
「シグルド」
別に沈黙に耐えきれなかったわけではない。
普段過ごしている兵舎の一室でも、ルインは無駄な口は叩かないしシグルドもルインもより口数が多いというだけで饒舌な質ではない。いつだってルインとシグルドの間には、喋らずともよい穏やかな空気があった。
それでも声をかけたのは、彼がわざわざ今日の夜にルインを訪ねて来た理由を聞きたかったからだ。
夜番であることを伝え忘れていたことで心配をかけたというのなら、所在だけを確かめて早々に自室に戻るべきなのだ。
今は開戦中で、連邦からの侵攻を受けている真っ最中だ。特務武官であるシグルドは、いつ出撃命令が出るのか分からない。職務に忠実な軍人である彼は、当然休むことも仕事の内であることを理解しているはずだった。
戦時下であるヴィンターベルク城塞内は、夜とはいえ灯りを全て落とすことはない。それでも夜の闇は深く暗い上に、外は数日ぶりの雪が降っていた。
――今日は、会わなくて済むと思っていたのに。
そう思いながらルインは目の前の赤髪の竜騎士を見た。竜騎士は肩や頭の積もった雪を払いながら竜舎の中に入ってくる。
夜半、ルインが夜番をしているとシグルドが訪ねて来たのだ。
その日、一日をルインは竜舎で過ごした。昼食を取る暇もないほど忙しかったということもある。けれども、どこかでシグルドとすれ違うのが恐ろしくて、ずっと避けていたのだ。
日課であるアーベントの世話も竜師に任せきりにするしかないほど、シグルドが多忙だったことはルインにとっては僥倖だった。戦闘が激化している今、特務武官は何かと慌ただしく以前のようにゆっくりとアーベントの世話をすることも難しくなっていた。
今日だって朝から晩までお偉方と一緒に戦略会議とやらに出席していたから、当然竜舎には顔を見せなかったのだ。そのことにひそかに安堵していたのだけれど。
「部屋に帰って来ないから探した。夜番だったのか」
「そうです。重症の子たちがいるので。言ってませんでしたか?」
「聞いてないな」
どうやらシグルドは遅くまで帰って来ない同居人を心配して、わざわざ探しに来てくれたらしい。その優しい言葉に、ルインは自らの失態を悟った。彼を避けるあまり、伝えなければいけない用件を伝え忘れていたようだ。
「朝まで竜舎で過ごします」
「そうか」
今日は部屋には戻らない、と告げればシグルドは頷いた。
シグルドは南方でも戦闘を経験しているから、竜師の職務には詳しいのだ。ルインが言えばすぐに納得してくれたようだった。
けれども、何故かシグルドはその場から動かず、じっとルインを見ていた。
「あの……」
何か他に用件があるのか、と視線だけで問う。
「いや、ああ、夕飯は食べたのか?」
「食べました。食堂でパンをもらってきて」
そう言ってルインは竜房の隅に置かれた毛布と水筒をちらりと見た。
竜師が竜舎に泊る際は、様子を見なければいけない竜の竜房のひとつに入って夜を明かす。今回は重症の竜が二頭いるので、最も傷が深い竜の竜房で寝起きすることになっていた。
「ここで寝るのか」
「そうです。この子が一番重症なので」
言えばシグルドは包帯を巻かれた竜をしげしげと眺めた。
昼間に変えた包帯は清潔で、薬と消毒液の匂いがする。血はすっかり止まっていたから、そのことにシグルドは幾分か安堵したようだった。
「……ルイン」
「はい?」
「身体は大丈夫か?」
朝は何も言わなかったくせに、今、ここでそれを問うのか、と思った。
正直な話をすると今日一日、ルインはずっと腰を庇っていた。あれだけ丁寧に抱かれたけれども、それでも身体は辛かった。股関節や後孔や腰が痛くて、太ももはずっと強張っている。しかし、それを周囲に悟られるのは絶対に嫌だった。だからこそルインは辛い身体を押してでも極力普段通りに過ごし、今夜の夜番を引き受けたのだ。
「まぁ、大丈夫ですよ。……まったく平気かって言われれば、そういうわけではないんですけど」
素直に痛い、とは言えず、そう答えればシグルドは静かにそうか、と返した。
「……コーヒーでも入れますか?」
何も言わず立ち尽くしてしまったシグルドにルインは言った。
本当はさっさと帰って欲しかったが、シグルドは一向に立ち去る気配を見せなかった。
だから、何か話したいことでもあるのかと思ったのだ。――まぁ、その内容なんて昨日のこと以外にはないだろうけれども。
そうであれば、立って話すよりも座って話したい。身体が痛いので。
ルインは竜舎の中央に置かれたストーブで沸かしていたケトルを手に取った。
アルミのマグカップに注いだコーヒーは、雪かきをしてくれた兵士たちに振舞う支給品のものだ。部屋でシグルドが入れてくれるそれよりもずっと味も香りも落ちるが、凍えるような寒さの中ではいっとう美味しく感じられるだろう。
「こっち、来ます?」
マグカップを渡しながら、ルインは竜たちが使う寝藁を厚めに敷いて作った即席の寝床を指さした。そこに座って毛布を拡げて促せば、シグルドは無言のままでそっとルインの隣に腰を下ろす。
いつもとは立場が逆になったようだった。
不愛想で言葉の少ないルインに、シグルドはいつも笑って何くれと世話を焼いてくれるのだ。
これまでは気づかなかったけれど――否、気づかないふりをしていたけれど、ルインはそうやってシグルドに世話を焼かれたり、構われたりすることが嬉しかったらしい。
されて嬉しいことは、人にもしてやりたくなるものだということを、ルインはこのとき初めて知った。それも好きな相手には特に。
「アーベントに会いに来られないくらい忙しいんだから、疲れてるんじゃないですか。さっさと部屋に戻ったらいいのに」
ひとつの毛布をふたりで分け合っているという喜びとは裏腹に、そんな可愛くないことを口にしてしまう。そんなルインにシグルドは慣れているのだろう。小さく笑って、渡したマグカップに口をつけた。
「部屋に帰ってもひとりだからな」
眦を緩ませて、そんなことを言うこの男は自分が何を言っているのか分かっているのだろうか。
竜たちの呼吸とコーヒーを啜る音だけが響いていた。
外は雪が降っているが、風はあまり強くはない。静かに降り積もる雪はあたりの音を吸い取ってしまうから、どうしても冬の夜は静謐なものとなる。
「シグルド」
別に沈黙に耐えきれなかったわけではない。
普段過ごしている兵舎の一室でも、ルインは無駄な口は叩かないしシグルドもルインもより口数が多いというだけで饒舌な質ではない。いつだってルインとシグルドの間には、喋らずともよい穏やかな空気があった。
それでも声をかけたのは、彼がわざわざ今日の夜にルインを訪ねて来た理由を聞きたかったからだ。
夜番であることを伝え忘れていたことで心配をかけたというのなら、所在だけを確かめて早々に自室に戻るべきなのだ。
今は開戦中で、連邦からの侵攻を受けている真っ最中だ。特務武官であるシグルドは、いつ出撃命令が出るのか分からない。職務に忠実な軍人である彼は、当然休むことも仕事の内であることを理解しているはずだった。
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