贄の神子と月明かりの神様

木島

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恋の芽生え

十五

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 領域を侵し儚い命の人間と悠久の時を生きる神が結ばれる。その行いは禁忌とされていると垂氷は言った。
 彼はすばるの内に秘めた恋心を皓月に捧げ、皓月がそれに振り回されることを不安視していた。そしてもしも彼が受け取ってしまったら、かつての雨神子と水神のように二人に不幸な結末が訪れるのではと危惧していた。
 けれどそれは雨神子と水神に起きた話であって、すばると皓月の話ではない。関係性が似ていても同じ道を辿るとは限らないだろう。要するに可能性の話で、そう本気にしなくとも問題はないはずだ。
 正直に言えばその後に言われた、受け入れられないがゆえに関係が崩れてしまう方がよっぽど現実味がある。
 そうは思うのに垂氷の言葉はすばるの心に小さな棘を刺した。
 そんな風に感じていたからだろうか、その日の夜すばるは夢を見た。

 皓月と恋仲になる夢。
 初めは甘く甘美な夢だった。大きな満月が輝く夜に、湖のほとりで。皓月は柔らかく甘い声音ですばるの名を呼び、愛おしいと金の瞳に熱を灯す。頬を滑る硬い節だった指と全身を柔らかく包む銀鼠の尾が心地よく、すばるは心底幸せだと微笑を浮かべた。
 ゆっくりと目を閉じて皓月の胸に頬を摺り寄せる。皓月は応えるように強く抱き寄せてくれた。
 ことことと打つ鼓動の音は命の音。皓月が生きている証。

『あぁ』

 自分でも驚くほど甘い、蕩けるような声が漏れる。
 世界中に己ほど幸福な人間はいないだろうと思った。この身があらゆる不幸の生贄になるべく生まれついたのも、この幸福に辿り着くためだったのだと。この幸せを得る代償にこの体は傷を負い続けてきたのだと。
 この気持ちを伝えたくてすばるは顔を上げる。花が綻ぶような微笑を浮かべて愛しい男の名を呼んだ。

『こうげつ、すき。だいすき。あいしています』

『ああ、すばる。私も……?!』

 すばるの愛に応えようとした皓月の目が見開かれる。
 いつの間にか、言葉を紡いだすばるの唇から零れるように血が落ちていた。そのうえ胸にはぽっかりと大きな穴が開いていて、何もかもを体の外へ吐き出すかのようにとめどなく血が流れている。

『あ、れ?』

 おかしいなと胸を押さえてみようとしたがそれは叶わなかった。一気に全身の力が抜けてまるで糸の切れた繰人形のように体が頽れる。

『すばる?!そんな、なぜ……!』

 倒れそうな体を抱き留めて皓月は狼狽える。事態が飲み込めていない様子に、神様でもわからないことはあるのだなとぼんやりとした頭で考えた。
 これは誰かの災いだろうか。それとも禁忌に浸り幸福だと思った事の罰だろうか。
 胸からも口からも血が流れ、指の一本も動かせない。急激に視界も思考も霞んできて、しかし耳だけははっきりと音を拾った。皓月の嘆く声を。

『ああ、死ぬな!死ぬなすばる!何故お前が死なねばならない。何故お前が……!』

『有象無象の人間などのために!』

 それは言ってはいけない言葉だと言えればよかったのに、すばるの血に濡れた唇はほんのわずかに震えただけだった。
 銀鼠に包まれていたはずの視界が徐々に黒に蝕まれていく。頬に落ちる温かいものは涙だろうか。もうすばるにはわからない。ただ蠢く黒い影の真ん中に、愛してやまない黄金色の満月がふたつ。
 体の芯から凍えるような寒気に抱かれ、すばるはこほりと最後の息を吐いた。

『あ、あ、あ、ああぁぁぁぁぁぁぁ!』

 最早言葉にもならない叫びが木霊する。黒く澱んだ腕が命を亡くしたすばるの体を包みこみ、元の形を無くしていく。皓月の規則正しく打っていた鼓動の音はその肉体が形を崩し始めると共に消えてしまった。
 皓月の悲しみが月から光を奪い、闇夜の中で憎しみに身を浸した穢れが広がっていく。その様子をすばるは感じることができた。

『これは、どういうこと?』

 ついさっき死んでしまったと思ったら、体から放り出されてしまったかのように意識だけが皓月の目の前に存在していた。これは所謂魂と言うものだろうか。
 見下ろすように意識すれば見えるのは彼自身が呼び寄せた瘴気に包まれている解けかかった皓月の体。その穢れの塊の中から力なく垂れる己の血に濡れた細い腕。

『すばる……私の愛しい半身……お前の命を奪ったものを、許しはしない……』

『まさか……待って。待ってください。皓月!』

 どっぷりと皓月だったものに体を取り込まれて命どころか体も失くしてしまっても弾かれた意識だけははっきりとしていて、皓月に訪れた変化にない体が凍りつくようだった。

 皓月が穢れ神になろうとしている。

 穢れ神は憎悪や憤怒に自我を呑まれた神が堕ちる災いの形。神としての役割を忘れ、人や世界に仇なす災厄。一度堕ちれば元の姿に戻ることは適わない。消滅だけが救いとなるもの。
 すばるは過去に小さなものだが穢れ神に触れたことがあった。黒く、汚泥のような不定形の塊。蠢く度に周囲に淀んだ瘴気を撒き、草木を枯らし人々の体を蝕むもの。彼らは皆負の感情に呑まれ、抑えきれない憎悪に苦しみ叫んでいた。
 広がった瘴気を贖うために伸ばした手から全身が氷のように冷たくなって、その直後に燃えるように熱くなり、穢れに触れた腕の皮が一面爛れて剥がれ落ちてしまったのを覚えている。
 無事に役目を終えた後何日も寝込んで、その間ずっと叫び出しそうなほど痛くて熱くて苦しかった。それは恐らく穢れ神自身が味わっていた痛苦で、彼らは消滅するまでずっとその痛みを抱え続けなければならないのだろう。そしてそれが彼らの全てなのだ。
 他には何も残らない。自分自身が何者であったのかさえ。

『皓月、やめてください。皓月!自分を忘れないで!あなたは月光の神でしょう?!』

『罰してやる、殺してやる、呪ってやる!私からたった一つの愛を奪った世界を!』

 悲しみに心を曇らせた皓月にすばるの声は届かない。人間の災厄を贖って死んだのだと思い込んだ皓月は、愛する男を死に追いやった人間すべてに怒りを向けた。その負の感情は穢れを生み、その身を掬われぬものへと変えていく。
 最後に残った満月の瞳から輝きが失われていく。その濁った瞳から溢れる穢れの泥はまるで涙のようで、すばるはただ只管に彼の名を呼び続けた。

『皓月、皓月。こんなのは嫌、嫌です……皓月!』

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