『やさしい光の中へ』

水由岐水礼

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「……すごいな、君は。そんなに強くて、優しくて、とことん前向きで……」
 正義は独りごちるように言う。
 ……軟弱で脆い。いつも迷ってばかり。
 うじうじ悩み、嘆くのが大得意……。
 そんな脆弱な心しか持てない臆病者、マイナス思考の固まりの自分とは大違いだ。
「まったく、僕なんかとは大違いで……君が、君のことが羨ましいよ」
 ……本当に羨ましいよ。
 どこか苦しげな響きの滲む声。
 悄然と零す正義に、「なに言ってるのよ、正義さん」と麻理亜が声を上げる。
「そんなことないよ。あたしからすれば、正義さんの方がよっぽど優しい人だよ。前にも言ったでしょう、お兄ちゃんは優しい人だって」
 内容と裏腹に、彼女の声には少し怒りの感情が交じっているようだった。
「まだ納得がいかないんなら、何度でも言ってあげる。正義さんは優しい人だよ」
「…………」
「あたしね、思うの。他の人のことを心から優しいと思えることのできる人って……その人自身も、とっても優しい人なんじゃないかって。少なくとも、心のどこかに優しさの欠片を持っている人だって……そう思うんだ」
「……優しさの欠片を、持ってる?」
「うん。だって、優しさを全く持たない人の心に、優しさは響かないと思うから。あたし、優しさって、お互いに響き合うものだと思うんだ。だから、ひどく冷たく思える人でも、その人が優しさを感じられる人なら……」
「……実は、その人間の心の中にも、どこかに優しさの欠片が隠されている?」
 正義は麻理亜の言葉を継いだ。
「うん、そう!」
 と、麻理亜が嬉しそうに微笑む。
「優しさは響き合うか……とてもいい言葉だね」
 心から正義はそう思った。
 なんだか無敵のフレーズだと感じられた。
「じゃあ、君はとっても優しい娘だね」
「あたしだけじゃなくて、正義さんもね。お兄ちゃんも、とっても優しい人だよ。それから、ちゃんと強さも持ってる」
「……強さ? 僕に?」
 この僕に、強さだって……。
 また、この娘は何を……。
「ねえ、正義さんってさ、たぶん笑えないだけじゃないんじゃない?」
 突然、麻理亜がそんなことを言い出した。
「えっ……?」
「きっと、泣いたこともほとんどないでしょう?」
 …………言われてみて、気づく。
 彼女の言うとおりだった。
 本当になかった……。ここ何年どころか、もっと時を遡ってみても、自分が涙を流した記憶……それが自分の中にはなかった。
 そんな……。笑えないだけじゃなくて、自分は、泣くこともできなくなっていたのか……。
 その事実に、正義は愕然とする。
 惚ける正義に、麻理亜が言う。
「……我慢。正義さんは、それのし過ぎなんだよ。きっと不器用な人なんだね。ううん、違うかな……感情を抑えるのが上手いって言った方がいいのかな。とにかく、我慢のし過ぎなんだと思うよ」
 ……感情を抑えるのが上手い? 僕が?
 こんなに要領の悪い僕が……。
 正義は苦笑してしまう。
「それは違うよ、麻理亜。僕はそんな器用な奴じゃないよ。僕が泣いたり笑ったりできないのは、ただ単に僕の心が希薄な感情しか抱けないからだよ」
「それこそ違うよ。そんなの、ただの思い込みだよ。正義さんが笑えないのは、正義さん自身がそんな風に思っているからだよ」
「でも、それが事実だから……」
「違う、そんなことない! 絶対にそんなことないよ。正義さんにも、ちゃんと感情はあるよ。正義さんが笑ったりできないのは、感情がないからじゃなくて、それを表に出そうとしないからだよ」
「…………」
「ここに来て、まだたったの十日だけど……それでも、あたしは思うもの。正義さんはすごく無理してるって……。
 ねえ、正義さん。自分の思いはちゃんと表に出さないとダメだよ。どうして、そんなに我慢するの?」
 自分を見つめる麻理亜の真っすぐな眼差しに、正義は何故かたじろいでしまう。
「別に、僕は我慢なんて……」
「してない、なんて言わせないよ。そんなに苦しそうな顔をしてるくせに、否定したって無駄なんだからね」
「へっ……」
 ……苦しそう?
 僕はいま……そんな表情をしているのか。
 もしかして、ずっと……麻理亜の瞳には、自分はそう映っていたんだろうか……。
 自分はいつも、そんなに苦しげな顔を……。
 正義はまた、新たなショックを受けた。
「正義さん、今とっても辛そうだよ。辛さや哀しみなんて、溜め込んじゃダメだよ。きちんと心の外に出してやらなきゃ。そうじゃないと、しんどくなっちゃうよ。嬉しさや楽しさでも、それは同じだよ……」
「嬉しさや、楽しさも?」
「そうだよ。嬉しさだって、ずっと自分の心の中にだけ納めていたら、そのうち不衛生なものに変わっちゃうんだから。だから、自分の感情はちゃんと表に出さなきゃ。わかる、正義さん?」
 ……正直、分からなかった。
 正義の心には響かない。
「ごめん……分からない」
 ごまかすことなく、素直に口にする。
 その返答に、麻理亜はため息を吐く。
「あーあ、せっかく安心したのになぁ……。また少し心配になってきちゃった……。
 あたしね、この部屋で正義さんを待ってる時、ちょっとだけ心配だったんだ。もし正義さんが……吸血鬼になることを選んだらどうしよう、って。やっぱり、そんな選択をするような人が、自分のお兄ちゃんになるなんて嫌だもの……」
「待って、麻理亜」
 麻理亜の話を遮り、正義は割り込む。
「いま『ちょっとだけ』って言ったよな。ちょっとだけ心配だった、って……。それってつまり……僕が吸血鬼になることを選んだりはしない、君は初めからそう思ってたってことか?」
「そうだよ」
 麻理亜は頷く。
「どうして……?」
「だって、正義さんって、なんだかんだ言っても、ちゃんと前を向いているもの」
「僕が……前を向いている……」
 そんな馬鹿なこと……。
 さっきから、この娘はいったい……。
「正義さんは、自分のことを、すごく後ろ向きな人間だと思っているんでしょう?」
 ……そうだ。その通り、そう思っている。
 そして、実際に、自分はそういう人間だった。
 それを否定するなんて、どう足掻いたって無理なことだろう。
「それは確かにそうだと思うよ。あたしも、そのことは積極的に否定はしない。でもね、それでもね……正義さんはちゃんと前を向いてるって、あたしは思う。
 だって、そうでしょう? 笑顔の練習、それは、正義さんが前を向いているからこその行動でしょう? 笑顔を取り戻したい、その気持ちは前向きな気持ちだよ。心底後ろを向いた人は、そんなことを思わないって」
「…………」
「笑わない人だって言われて、ショックを受けたのだって、それも前を向いている証拠だよ。大丈夫、正義さんは前を向いてるよ。苦しみだって、ある意味、前を向いているからこそのものなんだから」
「麻理亜……」
 ……心から、何かがはがれ落ちるのを感じた。
 それは、所詮……ただの言葉遊びかもしれない。
 はたまた、巧妙な屁理屈……いい加減な説法もどきだったりするのかもしれない。
 それでも。麻理亜の言葉に、正義は救われた思いがした。
 ショックを受けたのは、前を向いているから……。
 前を向いているからこその苦しみ……。
 麻理亜の言葉が、心に染み込んでる。
 正義はそれを否定できなかった。
 いや、もしかすると……したくなかったのかもしれない。正義の弱い心が、それに寄り掛りたいと思っただけかもしれない。
 だとしても、それは必ずしも悪いことじゃないだろう。
「そうだね……そうかもしれないね」
「かも、じゃなくて……そうなんだよ。そう思わなきゃ!」
 麻理亜が叱るように言う。
「正義さんはちゃんと、前を向いているんだから。あとは、その前へ向かって歩き出せばいいんだよ」
 ……歩き出す。
 ああ、そうか……。
 そういうことだったのか……僕はずっと立ち止まっていたのか。
 迷い、前にも後ろにも進めず。
 ……前方の小さな光に憧れて。
 一方で、後方の大きな闇に脅え……。
 ただ憧れ……ただ脅えていた。
 ほとんど何もせずに……。
「正義さん、あまり美菜子さんに心配を掛けちゃダメだよ」
「えっ……」
「今回のお芝居が始まる前、美菜子さん、あたしにこう言ったんだよ。『麻理亜ちゃん、正義のことお願いね』って。因みに、あたしへの『頑張ってね』は、その次だったんだから」
「母さんが……」
 ……母さん。自分の口から、その単語がすんなりと零れ出た。
 そのことに、なぜか正義はほっとした。
「そうだよ。たぶん、美菜子さんには、正義さんの今の状態が分かってたんじゃないかな。美菜子さん、正義さんがバイトしてることも知ってたし……。
 あたし思うんだけど、今回、美菜子さんがあたしの味方をしてくれたのって、絶対正義さんのことがあったからだよ。もちろん、あたしのことを応援してくれる気持ちがあったのも確かだろうけど。でも、本命はやっぱり正義さんだと思う。美菜子さん、きっと……何かきっかけが欲しかったんじゃないかな?」
「……きっかけ? 何の?」
「もう……そんなの決まってるじゃない。当然、正義さんに会うためのだよ。美菜子さん、よく『正義に会いたい』って言って……あっ」
 麻理亜の言葉が半端で途切れる……。
 彼女は驚きの表情で正義を見ていた。
 それが優しい微笑みに変化する。
「あ、えっ……」
 自分の頬を伝う感触に、正義は戸惑う。
 もうずっと忘れていた……思い出せなくなってしまっていた感覚。
 ……正義は泣いていた。
 目から勝手に……涙が溢れ出してくる。
 どうにも止まらない。
 正義は、手を目許へ持っていく。
 手の甲で涙を拭こうとした。
 けれど。
「ダメ!」
 と、それを麻理亜が止める。
「ダメだよ、拭いちゃ。もっと流れるだけ流しなよ。その方がいいよ」
 少し逡巡したけれど、正義は麻理亜の言葉に従った。手を下ろす。
 恥ずかしいという思いはあったけれど。麻理亜に見守られながら、正義は涙を流し続けた。
 涙を流し続けながら、思う。
 …………絆。
〝先輩が気づいていないだけで……あなたのことを見ていてくれる人が、いるかもしれないじゃないですか〟
 夏子さんの言葉を思い出す。
 ああ……馬鹿だな、僕は。
 こんなに側に絆はあったのに……。
 それを忘れていたなんて。
 それとも……もしかして、無意識の内に忘れようとしていたんだろうか。
 ……どっちにしろ、馬鹿だ。間抜けすぎる。
 母に会いたい……正義は思った。
(……母さんに会いたい)
 本当はたぶん……もっとずっと前から、自分はその想いを抱いていたんだろう。
 でも、見えていない振りをして、その気持ちを抑えて込んでいたんだと思う。
 やがて……そんなことを続けているうちに、いろんなものを忘れてしまった……。
 自分で自分の感情を麻痺させて……。
 それに気づかないまま、ずっと……。
 ……本当に馬鹿だな、僕は。
 そんな偽物の心を抱え、何もせずに立ち止まっていれば……。
 笑うことなんて……できるはずがない。
 泣くことも、同じ。できなくて当然だ。涙なんて流せるわけがなかった……。
 まったく……弱いんだか、強いんだか。
 正義は、自分の心のアンバランスさを自覚した。
 そして……素直になった。

「麻理亜……僕も、母さんに会いたいよ」
 ……正義は前へと第一歩を踏み出した。
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