亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

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Main story ¦ リシェル

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「……本当に、綺麗ね」

 ぽつりと呟いたその言葉は、あたたかな夜気の中へ静かに溶けて消えてゆく。誰の耳に届くこともなく、ひっそりと。それはまるで、これから私の身に訪れる事そのもののようだ、と思った。妙に心地の良い、すっきりとした感覚が、胸の中をすうっと吹き抜けてゆく。

 姉が亡くなって、夫――この時はまだ姉の夫だった――であるアルベルトは、それまでの温厚な人ぶりがまるで嘘のように、全くの別人になった。凶暴になったわけでも、冷酷になったわけでもない。狂ってしまったのだ。骨の髄まで。病的なまでの狂人になってしまった。或いは、亡霊になった、と言った方が正しいのかもしれない。心は疾うに、彼の逞しい身体の中にはなかった。ふよふよと、そこら中を彷徨い続けている。最愛の人を探して。朝も昼も夜も関係なく、ずっと。

 侯爵であるアルベルト・クローヴィアとは、私たちが六つになってまだ間もない頃に知り合った。彼の父と私の父がとても親しく、爵位の垣根を超えて“親友”と言い合うまでの仲だった彼らによって引き合わされた私たちは、それ以来、よき理解者、よき友人として長く付き合ってきた。
 一つ年上であるアルベルトは、当時からとても紳士的な振る舞いをする、どこか大人びたところのある少年だったのを、今でもよく憶えている。やさしくて、溌剌としていて。笑うと唇の端に愛らしい笑窪の出来るところが、私はとても好もしいと思っていた。同い年の子どもたちよりも幾分成熟しているけれど、それでも彼の子どもらしさを感じさせるチャームポイントとして。

 そんなアルベルトが、私の姉であるオリヴィア・モランディーヌに好意を寄せているのだと知ったのは、いつ頃のことだっただろう。はっきりとしたきっかけは思い出せない。それくらい、ほんの些細な“違和感”の積み重ねだったのだろうと思う。

 彼の恋心が明確になったのは、十五歳の誕生日を目前に、三人でこっそりと出かけたピクニックの時だったと思う。湖の畔に咲く花々を愛おしそうに眺める姉を、同じくらい、もしかしたらそれ以上に愛に溢れた眼差しで見つめる横顔に気付き、私は全てを悟らざるを得なかった。彼は姉のことが大好きなのだ、と。彼女以外はまるで眼中にないのだ、と。

 そう理解した瞬間、私は自分の失恋にも気付くことになってしまった。密かに抱き続けていた、アルベルトへ対する淡い想い。それは初恋だった。六つの頃からずっとずっと隠し続けてきた、時にあたたかく、時に切なく胸を締め付ける恋心。何もかもを互いに共有し合ってきた姉にさえ、一度として打ち明けたことのないそれは、日の目を見ることもないまま、儚く砕け散ってしまった。
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