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Main story ¦ リシェル
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そんな、今更どうにもならないことを頭の片隅で考えながら、両手に握り締めた短剣をゆっくりと持ち上げる。そうする手は細かく震えているというのに、でも、少しも恐ろしくはなかった。寧ろ清々しいまでの安心感と、そして、とろりと蕩けるような開放感が、身体中をやさしく包みこんでいる。
死のう、と思いついた時、それはとても素晴らしい考えだ、と思ったことを、今でも鮮明に憶えている。喜びが溢れたことも、今すぐそれをしたいと心が弾んだことも。
死んでも姉のもとへはいけないだろう。身代わりまでなくなって、両親はひどく落ち込むだろう。二度目の喪失によって、アルベルトは今以上に狂い病んでしまうかもしれない。でも、その時の私の頭には、それらは少しも浮かばなかった。不思議なほど、何もかも。愛しているはずのアルベルトのことすら、全く。それくらい、私にとって死は魅力的なものだったのだ。心をとらわれるくらい。生きることよりも死ぬことの方が、大きな幸福に思えた。
その、幸せ以外の何物でもない死が、今目の前に迫っている。鋭く尖った、蒼白い月明かりを浴びて妖しく光る切っ先とともに。これで喉を一突きすれば。そうすれば、全てが終わり、全てから開放される。“オリヴィア”としての人生からも、“リシェル”としての人生からも。そして、ひどく縺れてしまい、歪な形になってしまったたくさんの人々の人生や感情からも。
痛くて苦しいのは、きっとほんの少しの間だけだ。それはこれまで味わった数々の苦楚に比べれば、ずっとずっとやさしいものだろう。もしかしたら、痛いとも苦しいとも思わないかもしれない。
切っ先を、少しずつ、でも躊躇いなく近づける度、くすくすとした笑いがこぼれ落ちてゆく。もっと早くこうしていればよかった。でも、どこでそうすることが正しかったのかは、分からない。姉を亡くした時か、両親に頼まれた時か、それとも、アルベルトに初めて――“オリヴィア”として――抱き締められた時か。
死のう、と思いついた時、それはとても素晴らしい考えだ、と思ったことを、今でも鮮明に憶えている。喜びが溢れたことも、今すぐそれをしたいと心が弾んだことも。
死んでも姉のもとへはいけないだろう。身代わりまでなくなって、両親はひどく落ち込むだろう。二度目の喪失によって、アルベルトは今以上に狂い病んでしまうかもしれない。でも、その時の私の頭には、それらは少しも浮かばなかった。不思議なほど、何もかも。愛しているはずのアルベルトのことすら、全く。それくらい、私にとって死は魅力的なものだったのだ。心をとらわれるくらい。生きることよりも死ぬことの方が、大きな幸福に思えた。
その、幸せ以外の何物でもない死が、今目の前に迫っている。鋭く尖った、蒼白い月明かりを浴びて妖しく光る切っ先とともに。これで喉を一突きすれば。そうすれば、全てが終わり、全てから開放される。“オリヴィア”としての人生からも、“リシェル”としての人生からも。そして、ひどく縺れてしまい、歪な形になってしまったたくさんの人々の人生や感情からも。
痛くて苦しいのは、きっとほんの少しの間だけだ。それはこれまで味わった数々の苦楚に比べれば、ずっとずっとやさしいものだろう。もしかしたら、痛いとも苦しいとも思わないかもしれない。
切っ先を、少しずつ、でも躊躇いなく近づける度、くすくすとした笑いがこぼれ落ちてゆく。もっと早くこうしていればよかった。でも、どこでそうすることが正しかったのかは、分からない。姉を亡くした時か、両親に頼まれた時か、それとも、アルベルトに初めて――“オリヴィア”として――抱き締められた時か。
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