亡き姉を演じ初恋の人の妻となった私は、その日、“私”を捨てた

榛乃

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Side story ¦ ルシウス

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「オリヴィアが戻ってきた……そう思ったら、もう抗うことなんて出来なかった」

 静かに、ぽつりぽつりと紡がれるアルベルトの言葉を耳にしながら、半ば睨め付けるようにして刺繍針と向き合うリシェルの――“オリヴィア”を演じるリシェルの――横顔を思い出す。彼女は姉と違い、刺繍も裁縫もてんで駄目だった。苦手を通り越して、もはや天才的なまでに下手だった。ある意味で一種の才能だろう、とからかったことを憶えている。彼女はオリヴィアではなくリシェルとして唇を尖らせ、膨れっ面をしたけれど。それでも彼女は、刺繍も裁縫も得意だった“オリヴィア”になりきる為に、懸命に練習を重ねていた。アルベルトの目の届かぬところで。白くほっそりとした指に、幾つもの小さな傷を作りながらも。

 もしかしたら彼女は憶えていないだろうけれど――。胸倉を掴む手に力をこめながら、まだ明るいばかりだった過去の日々の眩さに、僅かばかり目を細める。

 裁縫や刺繍は、貴族の娘に必須とされる嗜みのひとつだ。いくら苦手といえど、伯爵家の令嬢であるリシェルもまた例外ではない。家庭教師に教わっている、と嘗て彼女は言っていた。その頃、つまりはまだ十かそこらの齢の頃から既に、彼女は裁縫の類がまるで駄目だった。何度練習してもうまくいかず、それでも教会の裏庭で黙々と――というより、嫌々と――丸い枠に張られた布に針を突き刺していた彼女の、拗ねたように口をへの字に曲げた顔。

 どうせアルベルトにでも遣るハンカチなのだろう、と思って、敢えて気にしないようにしていたのだが――。けれどもおかしなことに、苦戦しながらも初めて仕上げたそのハンカチを渡してきたのは、アルベルトでもオリヴィアでもなく、まさかの俺だった。彼女らしい純粋さのあらわれた清潔な白いハンカチと、その隅に不器用に縫い付けられた、赤と緑の花のような何か。

 ――なんだ、これ。
 ――どう見てもチューリップでしょう?

 言われてみれば、確かにチューリップに見えなくもなかった。赤い花弁と、緑色の茎と葉。「下手くそだなあ」とからかったのを、今でもはっきりと憶えている。彼女が機嫌を損ねて「じゃあ、捨てればいいじゃない」と言ったことも。そんな遣り取りを遠い昔にしたことを、きっと彼女はもう憶えてはいないだろう。
 そしてそのハンカチを、俺が今でも大事にしていることを、リシェルは当然知らないはずだ。言ったこともなければ、彼女の前で取り出したこともないのだから。

「だからずっと、狂った演技をしてたってわけか」
「狂わないとやっていけなかったんだよ。狂わなければ……彼女をオリヴィアだと思い込み続けることが難しかった。……ルシウス、君になら分かるだろう? どうしたって僕たちは、彼女たちを“本能的に”見分けてしまうんだ」

 否が応でも分かってしまう。彼女はオリヴィアではない、と。だから執拗以上に、アルベルトは“オリヴィア”をオリヴィアたらしめるもので埋め尽くそうとしたのだろう。ドレスもアクセサリーも、好みの花も食べ物も、何もかも。そうすることで誤魔化したかったに違いない。見て見ぬふりをしたかったに違いない。眼の前にいる“オリヴィア”がオリヴィアではない、というその現実を、がむしゃらに打ち消したかったのだろう。その現実こそが間違いなのだ、と、そう必死に思い込むことで。
 全て分かった上で、こいつはそれをしていたのだ。狂いたくて狂おうとした男の末路は――結局、何の意味もなさず、ただ自分自身を、そしてリシェルを苦しめるだけにしかならなかった。
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