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第一章 もう一つの世界
22. 線引き
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青砥の言うご飯というのはいわゆるご飯フェスタ的なものだった。街はずれにある広大なイベント広場に野菜を模した簡易的な建物が建っており、そのどれもから美味しそうな香りが漂っていた。
「何でも食べていいよ」
「本当?」
自分が食べてもいい沢山の食べ物を目にするとつい心が躍ってしまう。それはこの世界に来てから気がついたことだ。小走りに店に近寄り、歩くのが遅い青砥の腕を引っ張ってあちこちの店を見て回った。
「あっちの赤いトマトみたいな店のやつと、そこの葉っぱの店のお肉、あとは白い野菜の店のデザートみたいなやつ、それが食べたい」
「それだけでいいの?」
えっ、ちょっと待ってと言いながらキョロキョロともう一度店を見渡す樹はまるで小さな子供のようだ。さっきまでのツンとした態度は微塵もない。「じゃあ、あっちの四角いやつも。いい?」と顔を傾けて聞く樹を見て、青砥がまた笑った。
「なんでまた笑う……」
ぷいっとそっぽを向いて樹が姿勢を正す。自分でもはしゃいでしまった自覚はあるのだ。その証拠に樹の耳がほんのりと赤く染まっている。
「ほら、買いに行くぞ」
先程までは樹が掴んでいた青砥の腕。その腕が今度は樹の腕をつかんで人ごみを進む。なんでもないそんな行動に樹の胸にまたひとつ黒い染みが浮かび上がった気がした。
二人で買い回ってテーブルの上に並べた食事は、控えめに言ってもどれも美味しかった。樹のいた世界とまるっきり同じ名前ではなかったが、形や匂いでおおよその見当はつく。カレーに焼鳥、プリンに杏仁豆腐、好きなものをこれほど一度に食べたのは初めてで樹は夢中になって食べた。
「そういえば、食べ終わったこのお皿たちってどうすればいいんですか?」
ゴミ箱という物がないこの世界。捨てる時は物を投げればいいということは分かっていたが、周りを見てもお皿を投げている人は一人もいない。それどころか、先ほどまでテーブルにあったお皿が突然消えているようにしか見えないのだ。
「あぁ、それは皿にあるこの灰色の印の部分を破るんだ。そうすると物質が蒸発してやがて消える」
「すげぇ……」
樹が目を丸くしていると、青砥が頬杖をついたまま樹を見つめた。
「なぁ、樹って本当に記憶がないだけなのか?」
「え、あ、うん。そう」
ぎこちない言い方になったと樹は思った。青砥の目を見ることもせずに黙々とお皿を蒸発させる。
「自分のことは覚えている。年齢も名前も、箸の持ち方や時計の読み方、単位……。樹が覚えているものは自分のこと以外は昔からずっと変わっていない物なんだよな。もしくは、ずっと昔にあったもの、とか」
「え? 何それ。気のせいじゃない?」
「俺に気のせいが通用するとでも? 爆弾だってさ、今は使わなくなった古の武器。一般人で知っている人はごく少数だ」
青砥と出会ったばかりの頃の薬局でのことだと思い出した。一般人は知らない知識なのか!? 何か上手い言い訳をしなくては、と樹が表情を歪めると青砥はテーブルの上に置いてある樹の手を握った。
「別に樹を脅そうとかそういうんじゃないんだ。例えばだけどさ、樹がこの世界の住人じゃないとしても俺は別に構わないし、誰かに言うつもりもない」
青砥の本心が読めずに樹はただ青砥を睨むように見ていた。
「目的はなんですか?」
「目的っていうか、もうちょっと警戒心を解いて欲しいんだけど」
「警戒心!?」
樹が驚いて青砥に掴まれていた手を引いて自分の元へと戻すと「こういうのな」と青砥が言う。
「距離が縮まったかと思えば、ほら、すっと引かれる」
「別にわざとそうしてるわけじゃ……」
「わざとだろ?」
いつもは樹を追い詰めるようなことをせずに退く青砥が、今日は珍しくしつこい。その視線に落ち着かなくなっていると、青砥が樹から目を逸らした。
「ちょっと傷つくだろ……」
「……」
傷つくだと? 青砥が言ったとは思えない言葉に樹が青砥を見ると、確かに今まで見たことの無いような複雑な表情をしていた。そんなことを言われても樹だって困るのだ。
そもそも青砥があの夜にキスをしてこようとしなければ、こんな状況にはなっていなかったはずだ。
あの行動できっと自分の脳はバグってしまったのだと樹は思った。男である自分、男である青砥。そもそも青砥が自分に対してどんな形を求めているのかも分からない。でも、それを聞くことは樹にとっては高層階から飛び降りるよりも怖いことだった。
「もう気付いていると思うけど、俺、親の愛情とかそういうの知らなくて。だから、必要以上に近寄らないで欲しいというか」
「……それって、樹が懐いた後で俺がいなくなったら嫌だからってこと?」
青砥の言葉がその通り過ぎて、体の奥から渇いていくような感じがする。頷く事も出来ずに樹はゴクッと唾を飲み込んだ。そんな樹の様子を見ていた青砥は、青砥自身が発した言葉を経て樹の思いもよらない言葉を続けた。
「裏を返せば、離れない覚悟があるなら近づいても良いってことだよな」
樹の心が動揺する。濁った水にほんの少しの水質浄化剤を垂らされたみたいだ。樹は少しでも青砥の視線から逃れるように目を逸らして手の甲で口元を隠した。
「それはそれで、困ります……」
どんな言葉を言うのが正解なのか樹には分からなかった。心の奥がむず痒い、このくすぐったさが何を示しているのかを自身に問うには、樹はまだ臆病すぎた。
この日から約2か月後、樹はN+捜査官試験に見事合格した。
「何でも食べていいよ」
「本当?」
自分が食べてもいい沢山の食べ物を目にするとつい心が躍ってしまう。それはこの世界に来てから気がついたことだ。小走りに店に近寄り、歩くのが遅い青砥の腕を引っ張ってあちこちの店を見て回った。
「あっちの赤いトマトみたいな店のやつと、そこの葉っぱの店のお肉、あとは白い野菜の店のデザートみたいなやつ、それが食べたい」
「それだけでいいの?」
えっ、ちょっと待ってと言いながらキョロキョロともう一度店を見渡す樹はまるで小さな子供のようだ。さっきまでのツンとした態度は微塵もない。「じゃあ、あっちの四角いやつも。いい?」と顔を傾けて聞く樹を見て、青砥がまた笑った。
「なんでまた笑う……」
ぷいっとそっぽを向いて樹が姿勢を正す。自分でもはしゃいでしまった自覚はあるのだ。その証拠に樹の耳がほんのりと赤く染まっている。
「ほら、買いに行くぞ」
先程までは樹が掴んでいた青砥の腕。その腕が今度は樹の腕をつかんで人ごみを進む。なんでもないそんな行動に樹の胸にまたひとつ黒い染みが浮かび上がった気がした。
二人で買い回ってテーブルの上に並べた食事は、控えめに言ってもどれも美味しかった。樹のいた世界とまるっきり同じ名前ではなかったが、形や匂いでおおよその見当はつく。カレーに焼鳥、プリンに杏仁豆腐、好きなものをこれほど一度に食べたのは初めてで樹は夢中になって食べた。
「そういえば、食べ終わったこのお皿たちってどうすればいいんですか?」
ゴミ箱という物がないこの世界。捨てる時は物を投げればいいということは分かっていたが、周りを見てもお皿を投げている人は一人もいない。それどころか、先ほどまでテーブルにあったお皿が突然消えているようにしか見えないのだ。
「あぁ、それは皿にあるこの灰色の印の部分を破るんだ。そうすると物質が蒸発してやがて消える」
「すげぇ……」
樹が目を丸くしていると、青砥が頬杖をついたまま樹を見つめた。
「なぁ、樹って本当に記憶がないだけなのか?」
「え、あ、うん。そう」
ぎこちない言い方になったと樹は思った。青砥の目を見ることもせずに黙々とお皿を蒸発させる。
「自分のことは覚えている。年齢も名前も、箸の持ち方や時計の読み方、単位……。樹が覚えているものは自分のこと以外は昔からずっと変わっていない物なんだよな。もしくは、ずっと昔にあったもの、とか」
「え? 何それ。気のせいじゃない?」
「俺に気のせいが通用するとでも? 爆弾だってさ、今は使わなくなった古の武器。一般人で知っている人はごく少数だ」
青砥と出会ったばかりの頃の薬局でのことだと思い出した。一般人は知らない知識なのか!? 何か上手い言い訳をしなくては、と樹が表情を歪めると青砥はテーブルの上に置いてある樹の手を握った。
「別に樹を脅そうとかそういうんじゃないんだ。例えばだけどさ、樹がこの世界の住人じゃないとしても俺は別に構わないし、誰かに言うつもりもない」
青砥の本心が読めずに樹はただ青砥を睨むように見ていた。
「目的はなんですか?」
「目的っていうか、もうちょっと警戒心を解いて欲しいんだけど」
「警戒心!?」
樹が驚いて青砥に掴まれていた手を引いて自分の元へと戻すと「こういうのな」と青砥が言う。
「距離が縮まったかと思えば、ほら、すっと引かれる」
「別にわざとそうしてるわけじゃ……」
「わざとだろ?」
いつもは樹を追い詰めるようなことをせずに退く青砥が、今日は珍しくしつこい。その視線に落ち着かなくなっていると、青砥が樹から目を逸らした。
「ちょっと傷つくだろ……」
「……」
傷つくだと? 青砥が言ったとは思えない言葉に樹が青砥を見ると、確かに今まで見たことの無いような複雑な表情をしていた。そんなことを言われても樹だって困るのだ。
そもそも青砥があの夜にキスをしてこようとしなければ、こんな状況にはなっていなかったはずだ。
あの行動できっと自分の脳はバグってしまったのだと樹は思った。男である自分、男である青砥。そもそも青砥が自分に対してどんな形を求めているのかも分からない。でも、それを聞くことは樹にとっては高層階から飛び降りるよりも怖いことだった。
「もう気付いていると思うけど、俺、親の愛情とかそういうの知らなくて。だから、必要以上に近寄らないで欲しいというか」
「……それって、樹が懐いた後で俺がいなくなったら嫌だからってこと?」
青砥の言葉がその通り過ぎて、体の奥から渇いていくような感じがする。頷く事も出来ずに樹はゴクッと唾を飲み込んだ。そんな樹の様子を見ていた青砥は、青砥自身が発した言葉を経て樹の思いもよらない言葉を続けた。
「裏を返せば、離れない覚悟があるなら近づいても良いってことだよな」
樹の心が動揺する。濁った水にほんの少しの水質浄化剤を垂らされたみたいだ。樹は少しでも青砥の視線から逃れるように目を逸らして手の甲で口元を隠した。
「それはそれで、困ります……」
どんな言葉を言うのが正解なのか樹には分からなかった。心の奥がむず痒い、このくすぐったさが何を示しているのかを自身に問うには、樹はまだ臆病すぎた。
この日から約2か月後、樹はN+捜査官試験に見事合格した。
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