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プロローグ

第1話 そこは異世界で

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 バイトの休憩時間に煙草を吸おうと、食堂に併設されている喫煙室に入る。
 六畳一間程度のその部屋は、中央に排煙装置が設置されている以外、四方を透明な間仕切りと壁で遮られれていた。
 つまるところ椅子がない。座席がない。
 床にしゃがむわけにもいかないので、立ったまま喫煙することになる。
 一度、私物を置いてあるロッカールームに移動して、煙草とライターを取りに戻らなければならない点が、億劫だった。

 しかし、煙を呑む瞬間の爽快さは、もやもやとしていらいらとする喫煙衝動にはなかなか勝てない。
 赤マルボロを箱から一本取り出して口に咥え、ライターを点そうとしたら邪魔が入った。

 同僚の間島澪だ。
 今年、大学三回生になるという彼女は長身のスレンダーな体型をしている。

 断定的な物言いが、彼女を男っぽく感じさせる要素かもしれない。
 今もまた、遠慮のない一言がやってきた。

「先輩、煙草一本くれません?」
「いただけませんか、にしとけよ。社会に出たらうるさく言われたくないだろ?」
「へへ、すいません。あざす」

 申し訳なさそうに肩をすくめると、彼女はそれを口に咥えた。
 薄い唇には透明なリップが塗ってあって、咥えた先にライターで火を点けてくれ、と示すその仕草は、どう見ても男のものだ。

「休憩時間。残りあまりないだろう?」
「仕事の合間の一服。たまらんですねー。あと15分ぐらいかな」
「だとしたらさっさと戻らんと、下に降りて現場に行くまでに5分かかるからな」
「めんどくさいですねー。頭巾かぶって、上着着て、つま先まで指を洗って消毒して、さらに検温と目視による手指の切り傷とか検査受けて。それからようやく中に入れる。45分の休憩なんて、実質、30分もない気がします」
「仕方ねえよ。そういう現場を選んじまったんだから」
「それはそうなんですけど……」

 間島は、喫煙室の間仕切りにはめ込まれている窓の間から、隣の食堂に座る彼女たちをひとにらみする。

 あっちの世界にやってきたこっちの世界の工場は、こっちの世界のルールで成り立ってる。

 だが、食堂で座っている彼女たち現地の住民は、現地のルールで生活をしているのだ。

 日本人と、あっちの人。それぞれ文化も違えば言葉も違う。考え方だって、常識だって違うので、それらが入り乱れて働く食品製造ラインの現場では、常日頃からなにかしら小さな問題が起きているのだった。

 五本ある製造ラインのうち、三番目のラインでリーダーを務める間島の元には休憩時間前に起こったなにがしかのトラブルが持ち込まれたのだろう。
 彼女は眉間に深いシワを寄せて、うむむと唸っていた。

「なんとかならんもんですかね」
「あー? しょうがないよ何もかも違うんだから。一つのルールを押し付けて当てはめてそれと違う行動したらお前は犯罪者だ! みたいな物言いもなんだかおかしいだろ?」
「だって、ここはそういうルールで成り立ってるのに……」
「一番最初に雇われる時、説明会でそういった話はしてたはずなんだけどな。まあ、大半の現地の人はそんなこと覚えてないだろうね」
「うーん……。昼間の職場でもストレスなのに。こんな夜のバイトでさらにストレスを抱えるなんて。異世界にでも行きたい気分ですよ」

 あー、そうだね。と軽くいなしておしまいにする。
 間島も適当に愚痴を吐き出していれば、それで気が済むからだ。

 真剣に付き合うほど、向き合うほど、無駄なことはない。
 司はそう思いつつ、しかし……と頭の中で異論を唱えた。

「だけどさー。もう来てるじゃん、異世界」
「……そうっすね」

 時刻は深夜。三連の月が夜空に上がり、赤、青、銀の三種類の光が、夜の闇と一緒に世界を彩っている。

 食堂の窓から見える闇の向こうに、大きななにか巨大な生き物が、バッサバッサと巨大な翼を広げながら優雅に滑空していくのが、月の明かりに照らされてよく見えた。

 それは地球には存在しない生物、ドラゴンだ。
 ここは既に異世界だった。 

 * * *

 味道司(みどうつかさ)の人生はそんなに長くない。
 大学を卒業して新社会人として就職して五年。

 今ではコールセンターの人事管理職だ。ここまでの間に倉庫の配送、食品工場のライン製造、店舗運営などさまざまな現場を新人研修という名目で転々としてきた。

 入社五年目で係長クラスの管理職になったやつは、まだ同期にはいない。
 所謂、昇進組というやつらしいが、司にそんな実感はまるで沸かない。

 コールセンターの部下は四十人近くいる。その大半、いやほとんどすべてが女性で、司と同じかそれより年上で構成されている。

 従って、職位は上でも年齢的に司の立場は低い。低いだけ、上のやつらは不平不満やストレス発散のはけ口として、溜口を使うし愚痴も多い。

 それをはいはい、分かりましたよ。だからまあ、やってみてよ。できる範囲で良いから。といなしながら上手く活用することにも慣れた。

 慣れたが、やっていることは大学のサークルで上級生と下級生の合間に挟まれて、板挟みになり適当にやらんとやっとれんわ、と悟ったあのころと特に大差ない。

 いまの会社はこの点だけ除けば年収は一千万クラスだし、定時で退職できるし、ボーナスはあるし、住宅費用は全額会社持ちだし、福利厚生には文句の付け所がない。

 だから、部下たちの女性同士のトラブルに付き合わされ一瞬だけ「転職しようかなー」などという思いが頭をよぎったが、それはすぐに消えてしまった。

 この環境を手放す奴は単なる馬鹿だ。俺は馬鹿になりたくない。
 そう思っていたが一番大事なものは手元にない。

 車も買った。マンションも購入した。ローマなし、現金一括。
 貯金もある。同世代の中では成功している方だろう。

 けれど、みんなに居て当たり前のものが、俺にはない。

「……恋人欲しいな」

 なぜかそんな思いに囚われてしまった。

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