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第九章
我慢の限界
しおりを挟む婚約者の不躾な発言に、王太子アズライルは不機嫌と共に眉根をひそめた。
普段の彼ならこう言っただろう。
「それは君のお父上から、俺の父親である国王陛下を通して発現されるべき問題だ」
と。
しかしこの時の彼は少しばかり違っていた。
二度にわたるデートをすっぽかされたと言う男の意地もあったのだろう。
立場とか礼節とか、そんな重要なものを放り出し、自分をないがしろにした小娘を叱りつけてやりたいという思いがあったのかもしれない。
青い瞳を不機嫌で曇らせながら、それでも話してみろ、と片手で合図をする
アイリスにとってはまたとないチャンスが舞い込んできたのだ。
これを無駄にする手はなかった。
「何が気に入らない? 俺の対応か? それとも、待遇が不満か?」
「いいえ――いいえ。そういう問題ではありません。もっと根本的な事……ダイアナ様とあなたとの関係についてです」
「ダイアナ? あれは側室だ。君は正妃になる」
ますますもって理解できないという顔を王太子はしていた。
いぶかし気に顔をしかめ、側に座るヴィクターにどう思う? と肩をすくめて見せる。
問われた青黒い髪の貴公子は、婚約者であるケイトにどうして連れて来た!? そんな仕草で怒りを示していた。
「待って、ヴィクター……オンセド男爵様。あなたたちに迷惑をかける気は無いの。アズライル王子、殿下にも同じです」
「しかし――もうかかっているぞ。婚約破棄を令嬢から申し出るなんて貴族社会では許されないことだ。おまけにヴィクターは帝国の貴族で、俺はこの国の王太子。この噂が流れれば、我が国の沽券に関わる」
やはり発言を許すべきではなかった。
アズライルはそう言うと肩をすくめて首を振る。呆れ果てた婚約者だ
女はこれだから浅はかで困る。
そんないくつかの侮蔑が込められた発言を真っ正面から受けて、普段のアイリスなら黙り込んだかもしれないけれど、この時のアイリスは二年以上先の未来からやってきた人間。
それも、普通の人間には成し得ないような大冒険を体験してきている。
彼女にとっては子犬がほんの少しじゃれついたような程度にしか感じなかった。
「明らかなる女性蔑視の発言、とても情けなく思いますわ殿下」
「ほう……?」
「国際社会という問題を持ち出されるのであれば、まず正妃を迎える前に側室を迎えられた殿下の軽薄さを、全国民に笑われながら、全世界に知らしめなければならないでしょう」
「言い過ぎにもほどがあるぞ、アイリス。今はまだ婚約者として、幼い少女の戯れ言と聞き流して行ってもいい。身の程を知れ――」
そんな恫喝、あの熊さんと――小山ほどもある巨大な魔獣と戦った後のアイリスには、小鳥のさえずりにも等しい。
確かに貴族令嬢としては問題がある発言だったかもしれないけど。
やはり浮気男にはそれなりの罰を与えてやらなければ気がすまない。
「身の程なんてものは生前からよく分かっております」
「生前? まるで死に戻りでも下からのことを言うんだな」
「似たようなものかもしれません。ただし少しばかり未来からですけれども」
「おいおい聞いたかよ、ヴィクター。今度は死に戻りでしかも未来からやってきたなんて戯れ言を言い出したぞ!?」
そう信じるわけがない。
普通の人間ならありえないと信じる理由は無い。
それでもケイトなら――幼い頃からずっとそばにいてくれた親友なら。
戯れ言であっても、決して嘘だと馬鹿にはしないはず……。
信じてもらえないことを辛さを噛み締めながら、でも、と言葉を続けようとするアイリスの手を掴む誰かがいた。
そっと両手で握りしめるその掌の温かさは、冷たくなりそうな心を癒してくれる。
振り返ればそこにはケイトがいて、頑張って、そう唇でエールを送ってくれていた。
「……。アズライル王太子殿下」
「なにかな? 未来人殿?」
あざけるようなその視線。悪辣で真摯なんてものは一つも見えない青い瞳はまるでガラス玉のように見えた。
感情のない人間と話をしている気分――最悪だ。
「未来から来たなどはどうでもいいのです。建国王との約定により、この国を守護すると決められた女神サティナ様の司祭として――主からの命を伝えます。我が女司祭を諦め、ダイアナ・ナズ・ディーゼル女伯爵を正妃にするように、と。今後、ドナード侯爵家・ならびに関係者に一切の干渉を禁ずる、と……」
「ばか、な……」
「主は――サティナ様はそうお考えです。嘘だと思うのであれば、聖女様でも、大神官様でも、遠く異国にいるあなたの親戚筋に当たる、アルフォンス・レダ・シュネイル子爵にでも確認をされれば宜しいかと」
「シュネイルの名前まで出て来るとはな。あれとの縁戚関係を知る者は多はない……。アイリス、女神様の神託を騙った以上――真実でなければ、理解しているな?」
もちろん、と女司祭は頷いた。
ケイトにぎゅっと力強く握りしめてもらった片手が、自分に勇気を与えてくれるから。
ここで立ち止まったり、引いたりするなんて思いは、心に生まれてこなかった。
「お好きに調べられれば宜しいかと。何より――わたしのような正妻候補がいるのに、側室にうつつを抜かして政務をおろそかにしようするから、女神様がお怒りになられるのですよ、殿下!」
「貴様!」
叫んだ途端、アズライル王子に向けて制したつもりが、盛大な炎が出現した。
おおう……何よこれ。
熱波もすさまじいその壁が二人を両断し、床から天井に至るまで高い壁を成している。
テーブルは真っ二つに炎により切断されていて、ごめんなさいっ、とアイリスは心の中で謝罪した。
「あなたの浮気癖なんてもうたくさんなのよ! それがどれほどの人を悲しませたか、そろそろ目を覚ましなさいよ、アズライルの馬鹿ッ!」
「この期に及んで馬鹿呼ばわりするとは……なんたる暴言だ!」
暴言なんて知ったもんですか!
こんな炎が出て来るなんて予想外だったけど。
言いたいことを言えて、アイリスはすっきりとした気分だった。
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