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第一部 序章

第7話 撃癒師、妻を娶る

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 彼女はカールの仕草を楽しんでいた。
 そして、ふと思いついたように、イゼアは口を開く。

「アルダセン様。どうしてあのような場所においでになられたのですか」
「えっと。どこまでご存知でしょうか?」

 娘の方を見やる。
 少女は、「全てを伝えました」とだけ短く言った。
 今度は沸かした湯をコップに注がれる。口の中に残ったミルクの生臭さを消すには、丁度いい按配だった。

「娘は、あなたさまを昏く深い血の底から引き上げた、と申しました」
「事実です。あのままだと染み出た地下水に溺れて死んでいたでしょうね」
「どうしてそのような場所に? 私どもはあの暗く恐ろしい獣が、空を舞い、地を焼き尽くし、嵐を呼び込んで……そして、雷雲の中から降りてきた光の腕に掴まれ、全身を焼け焦げさせて地上に叩き落とされるまでを、この場所から。正しくは、逃げようとしてそうできないまま、庭の先から丘の向こうの様子をただ、見ているだけしかできなかったのです」

 詫びるように彼女はそう言う。
 再び目を深く伏せて悲しそうな顔をした。

「田畑は炎と水によってただの土へと戻ってしまいました。荒れた土地はもはや十年は元に戻らないでしょう。この家に来て私を治療してくださったあなたのことが心配になり、全てが過ぎ去った後に雲間から太陽が見えたのに安堵を覚えて、娘をそちらにやったのです」
「それで……感謝します。イゼアの思いが僕を救ってくれた。ありがとう」
「いえ。命を救われた。その恩をお返しできて何よりです。しかし……」
「土地の問題ですか。確かに荒れ果てた時はしばらく元に戻らないでしょうね。ドラゴンの吐く炎には毒も含まれている」
「悲しい現実です。もはや誰もこの土地では生きていけない」

 そう言って涙を流しイゼアは首を振った。「お母様……」と少女も同じように涙を流している。
 自分はもう少し早くそして確実に丁寧にあのドラゴンを葬っていたら。
 こうはならなかっただろう。
 何もかもが遅すぎた。そして犠牲は払われてしまった。宮廷に戻ったらこの土地に対する手厚い庇護を陛下に訴えよう。
 土地の領主を治療した経緯もある。彼にも、この土地の管理者であるタータム伯爵にも、それなりの恩を返してもらおう。
 カールは固く心に誓った。その矢先だった。
 嘆き悲しむイゼアが、とんでもないことを言い出したのは。

「アルダセン様。一つ我々の願いを叶えてたくださいませんか」
「願い? それは何です? この土地に関する庇護を陛下にお願いしようと今決めたところです」
「……っ? 国王陛下に? あなたは一体? 失礼ですが貴族とはいえ、そうそう陛下にお会いできるものなのですか」

 と、訝しむイゼアに向かい、カールはあの銀環をかざして見せた。
 それが一番手っ取り早く身分を証明する方法だったからだ。

「……読めますか?」
「私は文字が読めませんが、娘なら。サティナならば」

 サティナって言うんだ。
 カールはこの時、初めて少女の名を聞いた。
 失礼しますと一言。サティナが銀環に刻まれた言葉を読み上げる。

「アルダセン男爵様。宮廷、宮廷……?」
「【宮廷撃癒師】と読みます。撃癒とは、治癒の最高位のことです」
「そんなに偉い御方が、私の治癒をしてくださった!」

 まるで奇跡を見たかのように、イゼアはそう叫んだ。
 ついでに望まない一言も、付いてきた。

「その撃癒師様を、今度はこの娘がお助けした……」
「ええ、そうですね。そうなります。感謝していますよ、イゼア?」

 なんだか嫌な予感がしてニコリと微笑み返したものの、彼はそこから先を聞きたくなかった。
 イゼアは悪巧みをするように、老女のようなにんまりとした顔つきになる。
 それは、悪意のある微笑みだった。

「では大変やぶさかではございますが、その恩を戻して頂きたくございます」
「つまり――国王陛下に何か申し上げたいことが……ある?」
「いえいえ、そんな大それた事が叶うとは思っておりません。ただ、私どもを助けていただきたいのです。いいえ、娘を助けていただきたい」
「どういうことかよくわからないんですが。どうすればいいと?」
「そうですね。無理な願いということは存じ上げております。娘をこの土地から連れ出してはいただけないでしょうか。叶うならば幸せを与えてやりたい」

 それってつまり……僕に面倒を見ろってこと?
 サティナさんを?
 雇って下女にでもすれば満足だろうか? だけどイゼアは言ったよな……命を救った恩を戻せと。
 返せと言わなかった。戻せと言った。

 それはつまり、カールと同じ身分に引き上げるという内容だった。
 早い話が、彼女を妻にしてくれとそう、イゼアは頼んだのだ。
 それはちょっと……ちょっと無謀じゃない?
 カールは呆れて開いた口が塞がらなかった。
 あなたたちを本当の意味で助けたのは僕なんだよ?
 ここまできてドラゴンを退治したと言って信じてもらえるかなあ?
 いやいや、絶対信じてもらえない違いない。

 そしてー……。あんな綺麗な女性を妻に? それこそ一生かかっても叶わない願いだろうな。
 そうも思う。自分みたいな逃げ癖のある男に絶対に会ってくるはずのない素晴らしい女性がそこに、いた。

 ついでに彼女もカールと同じ心境だったらしい。
 あんぐりと開いた口はなかなか塞がらないでいた。
 衝撃は大きかったらしく彼女はただただ驚いて、ただでさえ大きい目を更に見開いて。
 そして驚いていた。

 ため息をつきようやく自分を取り戻した彼女は、ちらりと、一目だけこちらを見て、後は何も言わず目を伏せているだけだ。
 真剣な眼差しの母親と、恥ずかしがって目線すらも合わせない身勝手な娘? それとも、申し訳ないと思って目を合わせないんだろうか。
 カールにはそこの判別がつかなかった。

「そう簡単に言われますが、しかし僕にも都合というものが」
「傍に置いていただけるだけで結構です。それ以上多くは望みません。どうか娘をもらってやってくださいませ」

 命を助けてあげたでしょ。みたいな視線が、強い意志を持ったそれがカールの心を打つ。
 つい半日前まで死にそうにしていたのに、こんなことなら治療なんかしなきゃよかった。
 いやいや違う、そうじゃない。

「傍にって。あの、妻にはできない……貴族には貴族のルールというものが……」
「愛人という形でも結構です」

 あっさりと母親は言ってのけた。
 何の迷いもなく即座に返事が返ってくる。
 これは断ったら、もしかして生きて、二度とこの土地から出れかもしれない。
 体力も魔力もまだまだ戻っていない状態の自分は衰弱したただの十四歳だ。
 女二人の手にかかったら、刃物なんて持ち出されたら。
 ま、それはそれで、なんとかなるんだろうけど。

「愛人、ですか。妻をもらう前から愛人がいるというのも何かと体裁が悪い」
「奥様になる女性に伝えなければ宜しいだけではないですか。まさかすでに奥様がいらっしゃるとか?」
「いいいいいや、独身ですよ。ええ、こんな僕の妻となってくれる女性がいるはずがない」
「それはなぜ? あなたは実力も地位も才能も持っていらっしゃるではないですか」

 イゼアは訝しむ。理解できないと顔をしかめた。その理由が知りたい? 僕がこれまで人生の勝負事から全て逃げてきたからだよ。
 そう言ってやりたかった。そう言ったら、彼女はどんな顔しただろう? 負け犬に与える妻はないと言うだろうか?

 自分のことは諦めてくれるだろうか。サティナを愛人にとめちゃくちゃな訴えを取り下げてくれるだろうか。
 いや多分、それはないな。それはない。だってこの母親、断ったら死んでやるみたいな。そんな顔してるんだから。
 宮廷魔導師になる以外、勝負事を諦めたカールは、ここでも戦うことを諦めた。
 ひとまず請負い、王都に戻るまでの間に娘と話をして理解してもらう。
 どこかに住む家を用意して、仕事を用意して、そして自分のことは諦めてもらおう。
 しかし母親は……? どうするんだ。

「わかりました。分かりましたよ分かりましたから……。でもあなたはどうするんです?」
「私? 私は弟の元に参ります」
「弟?」
「はい。治癒師様をここまで来るように依頼し、手筈を整えてくれた弟が、街におります」
「ああ……」

 あの貧相な。貧しさにかけてはこの家にも負けじ劣らずのあの男か。
 無理やり頼み込まれたあの押しの強さは確かに。この母親の弟らしいと言えば、身内らしい。
 詰まるところ、娘の方だって同じような性格で……。
 ちゃんと言うこと聞いてくれるかな?
 カールの人生で最大の過ちは、いやいや最高の伴侶はこうして彼の元にやってきた。

 イゼアの後ろで気恥ずかしいのか顔を真っ赤に染め、両手を頬について、ずっと俯いたままで、そちらを向いても目も合わせてくれない。
 そして勢いで引きうけたサティナに、揺り動かれて目を覚ましてみたら、いつの間にか朝が来ていた。
 もちろん、彼女とは同衾していなかった。

「……良かった」

 朝一番の重いため息。そして、三人で朝食、その後はいつの間にか用意されていたサティナの荷物を積みこんだ馬が待っていて、もう一頭にはカールを載せたまま彼女は頬を染めたままに会話にならない一日が始まる。
 二人のへの旅立ちはこうやって始まったのだった。
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