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おけいこのはじまり

03 銀のネコ

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 この、男は一体何者なのだろう。まだ歳若いのに日本有数の企業集合体を統べる「タチバナ・ホールディングス」の会長であるスミレの父に物怖じもせず対等に話すとは。

 しかも、パーティーを抜け出したスミレを匿い、あろうことかあの厳格な父を説き伏せてさえしまっている。

 某国大使館の狭いオフィスで、スミレは微かな畏怖さえ覚えつつ、この謎の男サキを凝視した。


 

 デスクの上の洋服を選んだ。一つはカジュアル。ブルージーンズに白いTシャツにマリンブルーのパーカーにスニーカー。もう一つは女子高生に相応しい、淡いブルーのストライプが入った、白いベルトで腰を締めるタイプの大人しめのワンピースに白いパンプス。

 最後のが派手なイケイケルックだった。濃い紫のシルクの、辛うじて尻が隠れるほどの超ミニのタイトなドレス。それに黒のロングブーツ。

 スミレは最後のを選んだ。

「トイレはどこですか」

「行ってもいいけど、その後は保証しないよ。この中はね、外部の人間が勝手に独り歩きしちゃいけないんだ。見つかるとスパイの容疑が掛けられる。下手すると、本国に送られて、最悪は終身刑になるかもね」

「じゃあ、トイレまで案内してください」

「ここで着替えればいい。僕しかいないんだから」

 どうしてこんなに恥ずかしいのかわからない。会ったばかりの得体の知れない男の部屋には平気でホイホイついてゆき一夜を供にしたりも二度三度ではない。しかも、全裸になるわけでもなくドレスを替えるだけなのに。

「手伝ってあげようか」

 サキさんがスミレの背中にまわり、背中のボタンをはずして行く。あのコロンの香りがスミレの官能を呼び覚まし、微かに幻惑を覚える。

「キレイな、可愛いうなじだね」

 言わないで。

 吐息が漏れそうになる。

 この人、女慣れし過ぎてる。さっきの黒いビキニショーツの股間が頭から離れない。冷たい手が肩に触れる。ビクッ。鳥肌が立つ。シルクのドレスが肩から滑り落とされる。とっさに胸を抑えてしまう。

「素敵な下着だ。でも、少しサイズが小さいんじゃないかな」

 コルセットの紐が緩む。ブラジャーを外した時以上の安堵感。

「いつも思うけど、女性の正装は、大変だな」

 スミレが選んだパープルのドレスがいつの間にか彼の手にある。

 下着だけになったスミレの姿態。早くそれを覆いたいのに、彼はなかなか服をくれなかった。

「キレイだよ。そこらのモデルより、断然イカしてる」

「服、下さい」

「ねえ。どうしてこれを選んだの? それを教えてくれたら、着せてあげる」

 スミレにも、それはわからなかった。


 

 車は夜のハイウェイを二百キロ以上の猛スピードで西に向かっていた。

「あの・・・、こんなスピード出したらパトカーに捕まってしまうんじゃ・・・」

「今日は運がいいかもね。まだ一台も見かけていないね」

 サキさんは、口ではそう言いながら、少しもスピードを落とすことなく、車は長距離トラックの多い道を縫うように疾走した。

「外交官特権って、知ってる? この国の外務省が発行したパスがある。それさえ提示すれば、スピード違反しようが飲酒運転しようが、警察が僕をタイホすることは出来ないんだ。どうだ、スゴイだろ」

 まるで野球少年が新しく買ってもらったグローブを見せびらかすみたいに、サキさんは笑った。

「もっとも、悪いヤツもいるけどね。特権を利用して闇のカジノを開いたりね。摘発されると特権を使って逮捕もされずに本国に逃げ帰る。あんなチンケなギャンブルのためによくそこまでやるなと思うねえ。

 知ってるか?

 ニースやモナコやマカオのカジノで遊んでる金持ちはね、いかにもつまらなそうに金をかけるんだ。一億、二億ってね。オケラになるのをちっとも怖がらない。で、乗って来た車まで摩ってすっからかんになって、巻き上げられた相手のリムジンで屋敷まで送ってもらうんだ。主人に車まで摩られた哀れな運転手のトムと並んでね。巻き上げたヤツが、

『トム。キミも苦労するねぇ』

 と車の無い運転手を労う。すると運転手はこう答える。

『大丈夫です。慣れておりますので』

 オケラになった金持ちの屋敷につくと、金持ちはシルクハットをちょっと上げてこう言うんだ。

『チャールズ、ありがとう。じゃあまた来週、カジノで会おう』

 わかるかい? 本当の金持ちのギャンブルってのはそういうものだよ」

 ジョーク、あるいは小噺といった類の話を続ける彼は楽しそうにさえ見えた。

 どこまで行くんですか、というスミレの質問には、あそこ、と次々と過ぎ去る目的地の案内看板を指した。ちょっと西どころではない、このハイウェイの終点が目的地だった。

「何も首都にあるのだけが大使館じゃないんだよ。政令指定都市ならどこにでも、領事館ってのがある。僕のメインの仕事場はそこなのさ」

 スミレは何度となくスカートから露出した脚を組み替えた。この男、サキさんの横で彼の彫りの深い端正な横顔や右手のシフトレバーを動かす、しなやかでセクシーな手を見ていると、なぜか疼いてくるのを持て余してしまう。

 彼には独特のセックスアピールがあった。しかも、あんなイヤらしいサイトを見せられたあとではそれはなおさらスミレを刺激した。

 そのパープルの短いドレスの裾から、健康的な太腿が露出しているのが、今さらのように、恥ずかしく、何度も裾を気にした。きっと、この車のシートが低すぎて、寝そべり過ぎるせいだ。

「さっきから、何をもぞもぞしてるんだ」

 疼いてきているのを気付かれるのは恥ずかし過ぎる。でも、身体がそうなってしまっている。どうしようもなかった。

「もしかして・・・」

 ああ。まずい。

「・・・もしかして、車に興味があるのか?」

 は?

 いや、それは違くて、大きな誤解というか・・・。

「それならそうといえばいいのに。この先のインターで降りよう。その次のインターまでニ十キロちょっと。これと並行して走っている山道がある。眠気覚ましに丁度いいから、久しぶりに走り込んでみるか」

 車は料金所を出ると二三の交差点を経由して真夜中の人通りのほとんどない、民家もまばらなその山道の入り口の脇に停まった。

「かなり荒っぽくなるからね」

 そういうとスミレのシートの後ろから別の黄色のシートベルトを引っ張り出して彼女の両肩と脇腹を固定し始めた。反対側のベルトを引き出すときに一瞬だけ彼の身体が覆い被さる。あの幻惑的なコロンが、彼の唇が、急に息のかかるほどの距離に来る。

 刹那、彼の冷たい唇が重なる。

「おまじない」

 サキさんはそう言ってニヤ、と笑った。

 胸が不用意なほどに高鳴ってしまう。

 自分のを革ジャンパーの上から締め上げると、彼はアクセルをふかす。

「多分腕は落ちてないと思うけど、事故ったら、ごめんね」

 そう言って左右を確認しライトをアッパーに切り替え、峠道を昇り出した。

 その時はまだ、スミレはほんの少しの唇の接触の余韻に浸っていたが、徐々にスピードが上がり、車が前にではなく急加速で横滑りを繰り返し始めるや身体の奥底から沸き起こるアドレナリンの分泌に興奮を感じ始めた。

 片側一車線の狭い山道。ところどころセンターラインがなくなるほど狭くなる。そこをストレートで百三十キロオーバーのままカーブに突っ込む。テールをガードレールすれすれに滑らせながら、シフトダウンされた5リッターV8エンジンが吼える。吼えまくる。遠心力でスミレの身体は右に左に凄まじい勢いで振られる。パーティーでほとんど食べなかったのは正解だった、と思う。

 そんな冷静な分析ができる一方で、昂奮は最高潮に達している。全くの暗闇に突然照らし出される崖や谷に恐怖感がいや増す。股間の疼きが高まり、なんだか、セックスで昂るのに、似ている、と思う。生きている。それを実感する。

 いきつけのバーの若いマスターによく愚痴ったものだ。

 毎日、退屈で死にそう。生きてる気がしない。退屈で十分に死ねる気がする。

 それに対してスミレの素性を知るマスターはこう言った。

「少なくても毎日汗流して働かなきゃ生きていけない俺らよりマシじゃねえかな」

 と。

「マスターには、わからないよ」

 いつもその言葉で愚痴を〆ていた。

 今、ギンギンに峠を攻める車に乗せられ、そんな過去のやりとりが全て吹き飛ぶのを実感する。

 サキさんはその脚で、腕で、小さいけれど強力な牙を持つ野獣を組み伏せ、手懐け、その背に跨って疾駆させている。

 これはまるで、強姦だ。レイプだ。

 スミレは今、その若い肢体を野獣に存分に嬲られ、強姦されていた。それなのに、その境遇に激しく感じ、昂らせてしまっている。

 なんという生理的、性的な、快感・・・。

 思い切り、貫かれたい。

 そんな思いすら湧き、絶頂の一歩手前まで昂ったとき、車は頂上近くの展望台の駐車場に着いた。

 遠くにさっきまで走っていたハイウェイの灯りを望む手摺の手前に車は停まった。

 エンジンをアイドルさせながら、サキさんはスミレを顧みてニヤリと笑った。

「どうだった?」

 手元のバックルを外し、スミレはサキさんに抱きついた。

 いささか無遠慮ではあるが、そうせずにはいられなかった。当然のように彼の唇を、奪った。その冷たい感触に、さらに萌えた。

 たまらなく、彼が、サキさんが欲しいと思った。

「最高!」

 サキさんの手を取り、自分の、大きく起伏する胸に導いた。

「ほら・・・。こんなにドキドキしてる」

 彼は驚いているように見えた。

 きっとスミレを揶揄うつもりだったのだろう。しかし、彼女の意外な反応が彼の好奇心を刺激したらしい。

「キミ、面白い女の子だな。・・・やってみるか?」

 は?

 え? そっち?

 サキさんはもう一度スミレのベルトを締め直し、ギアを入れた。広い駐車場の端まで移動し、向きを変える。

「ギアはローかセカンド。ギアを入れる度にこの左のクラッチを踏んでパワーを切る。アクセルを踏みながらタイミングよくつなぐ。すると車は前に走る。な? 一度やって見せるから、脚とギアの動き、見てな」

 車はゆっくりと動き出しスピードを上げ、反対側の端にぶつかる寸前には六十キロを超える。ハンドルを急に切り、右足でブレーキとアクセルを同時に踏み、アクセルを微妙にふかしながらギアを戻しアイドルする。車は反対方向を向いてキュッ、と停まった。

「な? 簡単だろ。やってみろ」

 スッと運転席を離れたサキさんを目で追い、ベルトを外して外に出た。少し、足がふらつくが、大丈夫だ。熱いフロントグリルの真ん中にあるネコのエンブレムを撫でてサキさんとすれ違う。コロンの香り。彼の手が、さっと腰に触れ、離れる。

 運転席に座る。ペダルが遠い。サキさんの手が伸び、シートを調整する。彼の唇が再び重なる。

「おまじない」

 スミレは言う。

 今度は、逃がさない。彼の首に手を回し、引き寄せて、強く、吸う。唇の上と、下と。交互に吸い舌で舐める。そして、彼に火がつくまでそれを繰り返す。火が、ついた。彼の唇がスミレの舌を捉え、舌が絡む。負けずに舌を差しいれ、絡ませる。さらに彼の舌を吸い込もうとした時、

「おまじないが過ぎると、利かなくなるぞ」

 去って行く彼の唇に名残惜しさを感じながら、シフトレバーを入れる。ぎゃぎゃぎゃっ!

「クラッチ」

 笑っているサキさんを睨む。もう一度、チャレンジ。すると今度はすんなりと入った。

「どうぞ」

 ゆっくりとアクセルを踏みクラッチを繋ぐ。自分の手で、野良猫が、野獣が動きだす。

「どうだ」

「楽しい!」

「エンジンの音を聞け。感覚でギアを繋ぐ。そう。上手いじゃないか。ターンして。もう一回」

 スミレは生まれて初めてのこの、万能感に似た感覚に昂奮した。この感動を持続させるために、駐車場の縁をぐるぐる周回した。

「飲み込みがいいぞ。これなら公道も行けるな。もう一度、スピンターンをやってみよう」

 駐車場の端で頭を反対側に向ける。

「出来るだけ加速して一気にハンドルを切る。大丈夫。キミならできる」

 サキさんに背中を押され、アクセルを踏み込む。ギアを上げる。目の前にガードレールが近づく。

 あれ? ブレーキ!

 ヤバい! 

 止まんなーいっ!
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