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おけいこのおけいこ

56 もう、25だ

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 今日あったばかりの男なのに。何故かホッとして、急に眠くなって・・・。人をホッとさせる、マキノの言葉を借りれば、そんな「オーラ」のようなものがムラカミにはあった。能面のような美形。いわゆる「イケメン」に属する部類なのに、彼にはどこか諧謔があって、そこに安心してしまった。

 最愛の男はサキさん。それは変わらない。彼に抱かれたり調教を受けるときはどこか緊張感がある。だけどムラカミにはそれがない。彼の前では思い切り心を弛緩させることができるのだ。


 

 なんとか、全てを思い出した。

 急いでハンドバッグの中を確認する。心配なのは金ではない。スミレが何者か、サキさんにつながる情報を持っていなかったかを確認するためだ。あのイワイのことが、レイコさんのことが骨身にしみている。迂闊に素性も知らぬ、今日会ったばかりの男と寝てしかも眠り込んだことを後悔していた。

 最近秘書用のスマートフォンはミッションがない間は事務所に置くようにしているし手帳は家に置いてきた。あとはコスメと財布くらいだ。私用のスマートフォンにサキさんのスレイヴ関係の情報はあるがミッション関係は一切入れていない。

 自分でまさかの時の配慮をしていたことさえ忘れていた。それだけ動揺していたのだ。ほっとして力が抜けた。

「『枕探し』なんかしやしないよ」

 ドキッ。

 心臓が止まるかと思った。

 ムラカミは、起きていた。

「急に倒れこんで眠っちまったからおれも横になってた。寝顔、可愛かったよ」

 英語で「bedroom theft」という。

 洋の東西を問わず、旅籠で長旅の疲れに眠りこけた旅人の枕もとを探り財布を盗むというのは昔も今もある。スミレが気にしたのはサキさん関係の「情報」だったが、彼はスミレに物取りと疑われたことを気にしているのじゃないだろうか。それに今夜のことはもうこれきり。一夜限りにしたい。

「・・・ごめんなさい。わたしが悪かったの」

 シーツをかき集めて胸を隠した。そして何を思ったか財布から数枚抜き出し、彼の枕もとに置いた。

「本当に、ごめんなさい。これで、忘れて・・・」

 彼はその数枚の札を手に取りキョトンとした顔を見せた。

「それじゃ、足りない?」

 すると彼は壁が壊れるんじゃないかと思うぐらいの大きな声で笑った。

「うわははは、はははははっ、あっははははははは・・・」

 しばらくして落ち着いた。

「あー・・・、笑った、笑った。いやー・・・。女から『忘れて』なんて言われて金貰ったの、初めてだよ。・・・あー、また笑えて来た・・・うん、うん・・・」

 彼は自分の笑いのツボを塞ぐのに苦労しているみたいだった。

「もしかして、気を悪くした?」

「おいおい・・・。そんなんで傷ついたりしないさ。でも・・・。もしかしてキミ、疲れてるんじゃないのか」

 疲れている。そうかもしれない。

 毎週の役員会。担当分野の勉強と事業の把握。サキさんの仕事のアシスト。スレイヴのお世話。そして、ナメクジのお守り。それに、柄にもない、8歳も下の女子高生に対する嫉妬・・・。

 疲れていた。それにいろんな部分が、凝っていた。このホテルの部屋に入るまでは。

 今、少しラクになったような気がする。ムラカミにその「凝り」を解してもらったような、少し気分が軽くなったような気もした。

 彼はスミレの手から財布を取り、札を戻して返してくれた。

「おれの方こそ、忘れてくれ」

 と、彼は言った。

「あのさ、おれ、前の店ね、クビになったんだ。店の女の子に手出してさ・・・。

 これでも元はちゃんとしたホテルマンだったんだぜ。でも毎度女癖が悪すぎるのが災いしてね。それから、あちこち・・・。それで、ここまで流れてきちまった。

 あの今の店、気に入ってるんだ。シェフもいい人だし。ここいらの店じゃ一番格式も高いしさ。それなのに、入ったばっかで上客に手出したなんてわかったら・・・。

 だから、店にだけは内緒にしてほしいんだ。・・・頼むよ」

 その言葉でもう一つ肩の力が抜けた。

 マキノもそうだが、自分の弱みを曝け出してくれる男は付き合いやすい。

「おいで」

 素直にムラカミに抱かれた。

 彼の胸に鼻をつける。体臭が甘い。この甘い、ちょっとビターな体臭が数々の、彼を通り過ぎて行った女たちを蕩けさせてきたんだろうなあ・・・。

 彼のは、よかった。もちろん、サキさんのが一番だが、あの悪魔的な快感とは違う、どこか人間同士、普通の男と女の馴れ合いのような優しい交接が印象に残るものだった。

 彼の美しい巧みな指がスミレの肌を這う。このまま身を任せれば、また酔ってしまいそうだ。体臭や愛撫だけじゃない。キスが、あの蕩けるようなキスがくる・・・。

「でも、ガマンしなきゃ」

 スミレは気合を入れるようにそう口に出し、ぐいと顔を上げ、ムラカミの頬にキスをして体を起こした。

「ごめんなさい。わたし、帰らなきゃ」

「そう・・・。また店に来てください。お待ちしてます」


 

 ムラカミとは、ことの後も気持ちよかった。

 変に後腐れることなく、あっさり別れられた。そう度々はムリだが、機会があればまた手合わせしたいと思った。


 


 

 

 次の日。


 

 カンカン照りの陽炎の経つようなハイウェーを途中で降り、側道に入る。周りは一面の田んぼで青々とした稲が風にたなびき、海のようにうねっていた。

 その海を割るようにまっすぐ伸びる道の途中に赤い馬を寄せ、エンジンを切った。

 ここがB地点だ。

 時刻は2時20分。約束は3時だ。少し早めに着き過ぎてしまったかもしれない。

 止まるとさすがに暑い。濃紺のサマースーツのジャケットはもう脱いでいたが、ブラウスの袖をまくってもう一度エンジンをかけエアコンを入れる。ボタンを押してトップを出しかけた時、後ろから車が近づいてくるのが見えた。

 まずいものが来た。

 8年前にも同じようなことがあったなあ、と思い出す。あの、サキさんとの出会いの夜の山の上の展望台の駐車場。

 そのパトカーはスミレの赤い馬の後ろにピタリと着けて止まった。


 

「どうしましたあ」

 何と答えようか。ちょっと戸惑った。約束の時刻まであと20分。そろそろ相手が来る頃だ。相手は多分ロードサービスの偽装でくるはずだ。8年前に来た時と同じ。いつもそのフリをしてやってくる。エンジンをかけているからエンジントラブルとも言えない。タイヤも大丈夫だからパンクしたとも言えない・・・。

「ちょっとブレーキが怪しくて。オイルでも漏れたかなと・・・」

 とっさに吐いたウソはちと苦しいものだった。

「そうですかあ、輸入車はありがちなんですよねえ・・・。おねえさん悪いけどちょっと免許証見せてもらってもいい?」

 若い警官の口調は穏やかだが目は冷ややかだ。県境を越しているから、ここの所割はスミレの住む街のとは違う。派手な車だがそれほど知られてはいないはずだ。警邏中にちょっと気になった程度の職質だろう。だが、積み荷を知られるとチト厄介なことになる。早くどっか行かないかなあ・・・。

「ロードサービス呼びましたから。もう来るころだと思います」

 免許証を渡しながらサングラスを取り、ニッコリ微笑んだ。

 渡したそれを眺めていた警官が「あれ?」と言ったから死ぬほどアセった。

「おねえさん、もしかして、ラリードライバーの『タチバナスミレ』?」

「・・・そうです、というか、そうでしたけど・・・」

 その若い警官はいささか鼻息を荒くして、言った。

「・・・俺、DVD持ってます。あなたのファンです。引退して、残念でした・・・」

 後ろからロードサービスのレッカー車が近づいてきた。

「あ、来ましたね。それでは、・・・あの、またレース出ますか? DVDは、出ますかね?」


 

 パトカーが去ってゆくとレッカー車が寄せてきた。パトカーが完全に見えなくなってから、運転席のツナギの男が降りてきて架台から一本のホイール付きのタイヤを転がしてきた。赤い馬の前のトランクを開け、転がしてきたタイヤをひょいと乗せた。

「来るのが早すぎたんだ。だから野次馬に目をつけられる。それにこの車、目立ちすぎる。もっと普通の車にしろ!」

 男は帽子の下の目を光らせた。

「・・・ごめんなさい」

 スミレは一応、謝った。

「これか。また延べ板に戻すのか」

 黒い大ぶりのバッグに詰め込んできたものを男は取り出した。それは灰皿だったり、水差しだったり花器だったりしてそれぞれ適当な色に着色してあったが、どれも重さが一キロぴったり。それらが全部で8個ある。それらの材質は全て、純金だ。

「これに仕様書が入ってます」

 男にUSBメモリーを手渡した。

「わかった」

 載せたタイヤのホイールに付いているレバーを男がクイと引くと、ホイールは一瞬で薄っぺらい板になり、タイヤの中が覗けた。そこにはクッション代わりの細く切ったラバーが詰まっている。そこへ純金製の灰皿や花入れやらを詰め込んでいった。

 レイコさんがいたときはミッションで使う延べ板を隠しておくのにオイル漬けの甕を使っていたが、万が一、当局の捜索を受けたときの用心に形を変えて隠す方法を思いついた。ところが、

「これじゃイザというとき面倒すぎだろうが。なんだってこんなアホなこと思いついたんだ!」

 スミレの工夫はサキさんには大不評だった。

 プールしておく延べ板が増え、その緊急度合いも増していた。ただし、全てを貸金庫に預けるのも危険だった。リスクは最小限にと、これでも知恵を絞ったのだ。苦労を重ねている人の気も知らないで、サキさんはいつも勝手なことばかり言う。

 それで各スレイヴのプレイルームのベッドマットレスの中に延べ板のまま隠すことを思いついた。これなら万一の時は24時間いつでもマットレスを切り裂いてすぐに取り出せる。まさかこんなところに隠しているとは当局も思わないだろう。

 すべての金器をしまい込むとまたホイールの上蓋を引いた。タイヤはもとの形に戻ったが、重量が増した。それをよっこらしょと地面に下ろすと、男は胸ポケットから手帳を出した。そしてスミレに広げて寄越した。

「は?」

「サインしてくれよ。タチバナスミレだろ? 俺、ファンなんだ」

 お前もかよ!

 まあ、いいや・・・。

 スミレはサラサラとサインをしながら男に言った。

「マットレスの搬入先は今週中に伝えます。でね、その時に同時に取り付けてもらいたいものがあるの・・・」


 

 男のレッカー車を見送って、スミレは赤い馬をハイウェーに戻した。

 たしかにサキさんの言うとおりだ。スミレは彼の秘書でいるには、あまりにも顔と名前が売れ過ぎた。それにこの赤い馬。

 このスミレの血肉ともいえる車を手放すのは辛すぎる。だけど、サキさんの傍にいるためには、役員をやめ、車も処分しなけらばならない。

 そしてもっとも重要なのは、そうまでして彼の傍にいたところで、彼は絶対スミレ一人のものにはならないということなのだ。

「僕は誰も愛さない」

 そんな男と8年も一緒に居た。しかし、それに少しずつ疲れを感じてきている自分がいる。

 もう25だ。

 世間の並の25の女たちよりも早く、速く、多くを走り過ぎてしまったからなのだろうか。

 もう一度高校生だったころの自分に戻れたらなあ・・・。

 女なら誰でも一度は思うそのナンセンスな、でもほろ苦くて悲痛な願いは、あの全知全能の、サキさんの雇い主にさえ叶えられない望みだった。

 ササキ レナ、か・・・。

 サキさんのあの8番目のスレイヴ。17歳の高校生はそれほどまでにスミレを物狂いにしていた。
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