文字の大きさ
大
中
小
4 / 40
先代様にお会いしました。
広くはないけれど自由な空間と、美味しい食事、それに眠るための毛布、リーリエはそれだけあれば充分だ。
幸せな気分で指を伸ばし、牢の壁を意味もなくつるつる撫でた。
「しあわせ」
一言だけでは足りない。
しあわせ、しあわせ、しあわせ。
しあわせに浸されている。
ぼんやりしながらリーリエは、遠くで牢の扉が開く音を聞いた。
重い音だ。
この部屋にはいくつかの牢があり、総じて地下牢となっている。重い扉の音は誰かがやってきた音だ。王子が来るたびに聞いた音だ。
誰だろう。
牢番の兵士が、隣の牢の前で一言二言やりとりをしていたことがあるので、他にも入居者はいるようだ。彼らも自由に過ごしているのだろうが、客は今のところリーリエにしかいなかった。
「はっ……」
兵士の声が聞こえる。
「このような場所に……い、いえ、はい。もちろん、リーリエ様ももっとよい場所に……」
誰かと話をしているようだ。
「いいのよ、お忍びだから。わたくしのことは見なかったことにしてちょうだい。それで、リーリエ様は……」
「……こちらです」
「失礼いたしますわ。リーリエ様」
落ち着いた、穏やかな女性の声だった。
リーリエが顔を上げると、最初に目に入ったのはたっぷりとしたドレスの生地だ。一人で三人分の幅を取りそうなドレスである。
そしてそもそもにして、彼女自身が二人分くらいの幅があった。
「申し訳ないですわ、ちょっと、わたくしにはここは狭いみたいで……」
「えっ、いえ、はい……?」
「お初にお目にかかります。わたくしはユーファミア・クローヴ」
「王妃さま!?」
リーリエは思わず声をあげた。
俗世に疎いリーリエでも知っている。わずかながらあった学びの時間で、特によく教えられた名だった。
「ええ、そうです。ご存知でしたのね。今は王妃などと名乗っておりますが、元はあなた様と同じ、聖女ユーファミアと呼ばれておりました」
「なんてこと! お会いできて嬉しいです、先代様。私は当代聖女……ではない、ただのリーリエです」
リーリエは急いでくるまっていた毛布から出ると、床に膝をつき、祈りの姿勢をとった。聖女であるリーリエに教えられた、最上の挨拶だ。
「わたくしも嬉しく思いますわ。いつかお詫びをしなければと思っていたのです」
「お詫びを……?」
「ええ。聖女のお役目をあなたに押し付けて、愉快に暮らしておりましたもの。……その、この姿を見れば、おわかりになるかもしれませんが」
リーリエはまばたきを一つして、ユーファミアの立派な体を見つめた。
「王家の食事がとても、おいしくて……」
「わかりますわ!」
リーリエは強く同意した。
できるものなら飛びついてその手を握りたい。けれど鉄格子が阻み、さすがに失礼に思われたので、ぎゅっと両の手を合わせるにすませた。
「私も、とても、とても、おいしくて……おいしいのです。噛めるのです!」
「そうでしょう! 噛むたびにおいしいでしょう!」
「ええ、いつまでも噛んでいたいです。ただ顎が……疲れてしまって……」
「リーリエ様、お気を落とさないで。噛み続ければ顎が鍛えられ、いつまででも噛めるようになるのですわ」
「まあ……! いつまででも……?」
「いつまででもです。ただ、そのうちに、ひとつのものをずっと噛み続けるより、別のものを挟むことによって……あ、いえ、これはまだリーリエ様には早かったですわ」
「え、お待ちください、その先をぜひ……」
「リーリエ様、本日は、あなた様のご意思を伺いに参ったのです」
「私の……意思、ですか?」
そんなことより別のものを挟むというのを詳しく聞きたいが、教えてくれないらしい。
「ええ。このたびのことは、恐らく私も一因です。第一王子の母君がお亡くなりになられ、その後に王妃となったわたくしは、たくさん美味しいものを食べ、きれいなもの、楽しいものを集めました。それで王子は、聖女は欲深いものと偏見を持ったのだと思います」
「欲深い……美味しいものを食べるのは、よくないのですか……?」
「いいえ。ただ、わたくしはやりすぎてしまったのです。リーリエ様、もし、あなた様の体がどんどん重く、大きくなるなら、それは食べすぎです。それだけは気をつけなければなりません」
「食べすぎ……」
リーリエはユーファミアの言葉を胸に刻んだ。
欲深さの罪はリーリエも学んでいる。世には自分だけではないのだから、人のものを奪うほどに手に入れてはいけない。
「気をつけます」
「ええ、きっと、お気をつけになって。きっとよ。……そう、それで、本題ですわ。教会の選んだ聖女を俗物と考えた王子は、あなたを聖女の任から解き、かわりにマイラ様を据えようとしておられます」
リーリエは驚いた。
「俗物であれば、聖女をやめられるのですか?」
そんなこと誰も教えてくれなかった。聖女をやめられるのは、次の聖女が見つかった時だけ。そう聞いていたのだ。
「本来なら無理です。けれど、ひとりの聖女にかける荷が重すぎることは、わたくしもよく存じております。是正するよう教会に働きかけてもいましたが、無駄でしたわね……」
ユーファミアはため息をつき、視線をあげて真っ直ぐにリーリエを見た。
「今回はあのバ……、王子がやらかしたこと。このさいあなた様がお望みなら、そうしてさしあげようかと思うのです。リーリエ様、聖女でありたいですか?」
「いいえ!!!!!」
リーリエは強く答えた。
「私は聖女でなんていたくないです! もう祈りたくないのです」
「……ですがそれでは、一生をこの牢で過ごすことになるかもしれません」
「一生を……!? ユーファミア様、ぜひ、ぜひ、そうしていただきたいのです。私は自由でいたいのです」
この自由な牢の中で、ただぼうっとして一生を終える。
そんな幸せなことはない。
「……わかりましたわ」
ユーファミアは微笑みを浮かべた。
けれどどこか悲しげにも見えて、リーリエは首を傾げた。
「では、そのようにいたしましょう。……後のことは後でも考えられますものね。マイラ様が聖女となれるよう、わたくしが後押しいたします」
「ユーファミア様……!」
喜びに祈りを捧げかけ、踏みとどまった。リーリエはもう祈らないのだ。
かわりに衝動に任せ、立ち上がってくるりと回った。それで少し落ち着くと、今度は心配になる。
「マイラ様にはご迷惑をおかけすることになります……」
「大丈夫ですわ。マイラ様は聖女になりたいようですから。しばらく国が荒れる可能性があるとお伝えしましたが、努力でどうにかするとおっしゃっておられました」
「そうなのですか? なんて素晴らしい方なのでしょう」
「ええ、まあ……素晴らしい方、ですわね……」
リーリエは感動し、自分を情けなく思った。
けれどそれでも、素晴らしい人間になるために一日中祈りたいとは思わない。
幸せな気分で指を伸ばし、牢の壁を意味もなくつるつる撫でた。
「しあわせ」
一言だけでは足りない。
しあわせ、しあわせ、しあわせ。
しあわせに浸されている。
ぼんやりしながらリーリエは、遠くで牢の扉が開く音を聞いた。
重い音だ。
この部屋にはいくつかの牢があり、総じて地下牢となっている。重い扉の音は誰かがやってきた音だ。王子が来るたびに聞いた音だ。
誰だろう。
牢番の兵士が、隣の牢の前で一言二言やりとりをしていたことがあるので、他にも入居者はいるようだ。彼らも自由に過ごしているのだろうが、客は今のところリーリエにしかいなかった。
「はっ……」
兵士の声が聞こえる。
「このような場所に……い、いえ、はい。もちろん、リーリエ様ももっとよい場所に……」
誰かと話をしているようだ。
「いいのよ、お忍びだから。わたくしのことは見なかったことにしてちょうだい。それで、リーリエ様は……」
「……こちらです」
「失礼いたしますわ。リーリエ様」
落ち着いた、穏やかな女性の声だった。
リーリエが顔を上げると、最初に目に入ったのはたっぷりとしたドレスの生地だ。一人で三人分の幅を取りそうなドレスである。
そしてそもそもにして、彼女自身が二人分くらいの幅があった。
「申し訳ないですわ、ちょっと、わたくしにはここは狭いみたいで……」
「えっ、いえ、はい……?」
「お初にお目にかかります。わたくしはユーファミア・クローヴ」
「王妃さま!?」
リーリエは思わず声をあげた。
俗世に疎いリーリエでも知っている。わずかながらあった学びの時間で、特によく教えられた名だった。
「ええ、そうです。ご存知でしたのね。今は王妃などと名乗っておりますが、元はあなた様と同じ、聖女ユーファミアと呼ばれておりました」
「なんてこと! お会いできて嬉しいです、先代様。私は当代聖女……ではない、ただのリーリエです」
リーリエは急いでくるまっていた毛布から出ると、床に膝をつき、祈りの姿勢をとった。聖女であるリーリエに教えられた、最上の挨拶だ。
「わたくしも嬉しく思いますわ。いつかお詫びをしなければと思っていたのです」
「お詫びを……?」
「ええ。聖女のお役目をあなたに押し付けて、愉快に暮らしておりましたもの。……その、この姿を見れば、おわかりになるかもしれませんが」
リーリエはまばたきを一つして、ユーファミアの立派な体を見つめた。
「王家の食事がとても、おいしくて……」
「わかりますわ!」
リーリエは強く同意した。
できるものなら飛びついてその手を握りたい。けれど鉄格子が阻み、さすがに失礼に思われたので、ぎゅっと両の手を合わせるにすませた。
「私も、とても、とても、おいしくて……おいしいのです。噛めるのです!」
「そうでしょう! 噛むたびにおいしいでしょう!」
「ええ、いつまでも噛んでいたいです。ただ顎が……疲れてしまって……」
「リーリエ様、お気を落とさないで。噛み続ければ顎が鍛えられ、いつまででも噛めるようになるのですわ」
「まあ……! いつまででも……?」
「いつまででもです。ただ、そのうちに、ひとつのものをずっと噛み続けるより、別のものを挟むことによって……あ、いえ、これはまだリーリエ様には早かったですわ」
「え、お待ちください、その先をぜひ……」
「リーリエ様、本日は、あなた様のご意思を伺いに参ったのです」
「私の……意思、ですか?」
そんなことより別のものを挟むというのを詳しく聞きたいが、教えてくれないらしい。
「ええ。このたびのことは、恐らく私も一因です。第一王子の母君がお亡くなりになられ、その後に王妃となったわたくしは、たくさん美味しいものを食べ、きれいなもの、楽しいものを集めました。それで王子は、聖女は欲深いものと偏見を持ったのだと思います」
「欲深い……美味しいものを食べるのは、よくないのですか……?」
「いいえ。ただ、わたくしはやりすぎてしまったのです。リーリエ様、もし、あなた様の体がどんどん重く、大きくなるなら、それは食べすぎです。それだけは気をつけなければなりません」
「食べすぎ……」
リーリエはユーファミアの言葉を胸に刻んだ。
欲深さの罪はリーリエも学んでいる。世には自分だけではないのだから、人のものを奪うほどに手に入れてはいけない。
「気をつけます」
「ええ、きっと、お気をつけになって。きっとよ。……そう、それで、本題ですわ。教会の選んだ聖女を俗物と考えた王子は、あなたを聖女の任から解き、かわりにマイラ様を据えようとしておられます」
リーリエは驚いた。
「俗物であれば、聖女をやめられるのですか?」
そんなこと誰も教えてくれなかった。聖女をやめられるのは、次の聖女が見つかった時だけ。そう聞いていたのだ。
「本来なら無理です。けれど、ひとりの聖女にかける荷が重すぎることは、わたくしもよく存じております。是正するよう教会に働きかけてもいましたが、無駄でしたわね……」
ユーファミアはため息をつき、視線をあげて真っ直ぐにリーリエを見た。
「今回はあのバ……、王子がやらかしたこと。このさいあなた様がお望みなら、そうしてさしあげようかと思うのです。リーリエ様、聖女でありたいですか?」
「いいえ!!!!!」
リーリエは強く答えた。
「私は聖女でなんていたくないです! もう祈りたくないのです」
「……ですがそれでは、一生をこの牢で過ごすことになるかもしれません」
「一生を……!? ユーファミア様、ぜひ、ぜひ、そうしていただきたいのです。私は自由でいたいのです」
この自由な牢の中で、ただぼうっとして一生を終える。
そんな幸せなことはない。
「……わかりましたわ」
ユーファミアは微笑みを浮かべた。
けれどどこか悲しげにも見えて、リーリエは首を傾げた。
「では、そのようにいたしましょう。……後のことは後でも考えられますものね。マイラ様が聖女となれるよう、わたくしが後押しいたします」
「ユーファミア様……!」
喜びに祈りを捧げかけ、踏みとどまった。リーリエはもう祈らないのだ。
かわりに衝動に任せ、立ち上がってくるりと回った。それで少し落ち着くと、今度は心配になる。
「マイラ様にはご迷惑をおかけすることになります……」
「大丈夫ですわ。マイラ様は聖女になりたいようですから。しばらく国が荒れる可能性があるとお伝えしましたが、努力でどうにかするとおっしゃっておられました」
「そうなのですか? なんて素晴らしい方なのでしょう」
「ええ、まあ……素晴らしい方、ですわね……」
リーリエは感動し、自分を情けなく思った。
けれどそれでも、素晴らしい人間になるために一日中祈りたいとは思わない。
感想
あなたにおすすめの小説
身代わりの呪いで感情を失った氷の公爵令嬢ですが、王太子に婚約破棄された瞬間に解呪されたので辺境で幸せに暮らします!
小野林 千早名門公爵家の令嬢エレンは、幼い頃に王太子レオンの命を魔物から救った代償として、感情表現と声、そして当時の記憶の一部を奪う呪いを受けた。
真実を忘れたレオンは、無表情なエレンを冷たい氷の人形と忌み嫌い、新たに現れた男爵令嬢リアナに惹かれていく。
エレンは不器用なまでにレオンを思い続けていたが、建国祭の舞踏会でついに理不尽な婚約破棄を言い渡されてしまう。
しかしその直後、王家の魔法の鏡が過去の真実とリアナの卑劣な罠を全貴族の前で暴き出す。
レオンは自らの手で命の恩人を切り捨てたことに絶望し、激しく後悔するが、時すでに遅し。
「守るべき相手からの完全な拒絶」によって呪いの完了条件が満たされ、感情と声を取り戻したエレンは、泣きすがる彼をきっぱりと拒絶する。
王都を去ったエレンは辺境の領地へ。
そこには温かい領民たちと、太陽の光、そして初めて味わう本物の自由が待っていた。
自分を取り戻した元・氷の令嬢が歩む、心温まる辺境スローライフ開幕!
だから聖女はいなくなった
澤谷弥(さわたに わたる)「聖女ラティアーナよ。君との婚約を破棄することをここに宣言する」
レオンクル王国の王太子であるキンバリーが婚約破棄を告げた相手は聖女ラティアーナである。
彼女はその婚約破棄を黙って受け入れた。さらに彼女は、新たにキンバリーと婚約したアイニスに聖女の証である首飾りを手渡すと姿を消した。
だが、ラティアーナがいなくなってから彼女のありがたみに気づいたキンバリーだが、すでにその姿はどこにもない。
キンバリーの弟であるサディアスが、兄のためにもラティアーナを探し始める。だが、彼女を探していくうちに、なぜ彼女がキンバリーとの婚約破棄を受け入れ、聖女という地位を退いたのかの理由を知る――。
※7万字程度の中編です。
護国の聖女、婚約破棄の上、国外追放される。〜もう護らなくていいんですね〜
ココちゃん平民出身と蔑まれつつも、聖女として10年間一人で護国の大結界を維持してきたジルヴァラは、学園の卒業式で、冤罪を理由に第一王子に婚約を破棄され、国外追放されてしまう。
護国の大結界は、聖女が結界の外に出た瞬間、消滅してしまうけれど、王子の新しい婚約者さんが次の聖女だっていうし大丈夫だよね。
がんばれ。
…テンプレ聖女モノです。
王子が元聖女と離縁したら城が傾いた。
七辻ゆゆ王子は庶民の聖女と結婚してやったが、関係はいつまで経っても清いまま。何度寝室に入り込もうとしても、強力な結界に阻まれた。
妻の務めを果たさない彼女にもはや我慢も限界。王子は愛する人を妻に差し替えるべく、元聖女の妻に離縁を言い渡した。
『遅い』と捨てられた聖女、離れた瞬間に勇者パーティが壊れました
白瀬しおん「お前のヒールは遅すぎる」――そう言われ、聖女エリーナは静かに去った。
だが彼女は、パーティ全員の痛みを一人で引き受けていた存在だった。
すべてを手放した彼女が出会ったのは、暴走する魔力を抱えた公爵。
これは、“必要とされること”しか知らなかった彼女が、新しい感情に触れていく物語。
(完結)殿下との婚約は私には破棄できませんの。……どうしてもというなら、署名活動なさったら?
七辻ゆゆ「ハル君を自由にしてあげて!」
「貴族の署名(サイン)が五十も集まれば、王家も無視できないでしょう。がんばってくださいませ」
生徒会室に突撃してきたローズは全く話を聞かない。行動力だけは異常で、妙なカリスマのある彼女。署名活動は成功するのだろうか?
【完結】未来を見据えて行動していた才女は、支えることを諦めました
しばゎんゎん婚約者のために尽くしてきた、伯爵家次女カレン。
カレンは公爵家嫡男レオンの婚約者として、厳しい教育を受け続けてきた。
政治、経済、貴族の習わし、すべては公爵家と未来の夫レオンために学び、得てきた。
だが、レオンにはその努力が評価されなかった。
むしろ、甘い言葉を囁く子爵令嬢に心を奪われ、やがてカレンを遠ざけていく。
ならば、もう支える必要はないと気づき、静かに手を引く。
その日から、レオンの歯車は音を立てて狂い始めていく。
努力を怠らないカレンの支えを失った婚約者。
何も知らない愚か者と、すべてを知る才女。
だが、その母である公爵夫人は本質を見抜いていた。
果たして誰が勝ち残り、誰が捨てられるのか。
これは、すべてを見通す令嬢が、真の評価を得るまでの物語。