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先代様にお会いしました。

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 広くはないけれど自由な空間と、美味しい食事、それに眠るための毛布、リーリエはそれだけあれば充分だ。
 幸せな気分で指を伸ばし、牢の壁を意味もなくつるつる撫でた。
「しあわせ」
 一言だけでは足りない。
 しあわせ、しあわせ、しあわせ。
 しあわせに浸されている。

 ぼんやりしながらリーリエは、遠くで牢の扉が開く音を聞いた。
 重い音だ。
 この部屋にはいくつかの牢があり、総じて地下牢となっている。重い扉の音は誰かがやってきた音だ。王子が来るたびに聞いた音だ。

 誰だろう。
 牢番の兵士が、隣の牢の前で一言二言やりとりをしていたことがあるので、他にも入居者はいるようだ。彼らも自由に過ごしているのだろうが、客は今のところリーリエにしかいなかった。

「はっ……」
 兵士の声が聞こえる。
「このような場所に……い、いえ、はい。もちろん、リーリエ様ももっとよい場所に……」
 誰かと話をしているようだ。
「いいのよ、お忍びだから。わたくしのことは見なかったことにしてちょうだい。それで、リーリエ様は……」
「……こちらです」

「失礼いたしますわ。リーリエ様」
 落ち着いた、穏やかな女性の声だった。
 リーリエが顔を上げると、最初に目に入ったのはたっぷりとしたドレスの生地だ。一人で三人分の幅を取りそうなドレスである。
 そしてそもそもにして、彼女自身が二人分くらいの幅があった。

「申し訳ないですわ、ちょっと、わたくしにはここは狭いみたいで……」
「えっ、いえ、はい……?」
「お初にお目にかかります。わたくしはユーファミア・クローヴ」
「王妃さま!?」

 リーリエは思わず声をあげた。
 俗世に疎いリーリエでも知っている。わずかながらあった学びの時間で、特によく教えられた名だった。

「ええ、そうです。ご存知でしたのね。今は王妃などと名乗っておりますが、元はあなた様と同じ、聖女ユーファミアと呼ばれておりました」
「なんてこと! お会いできて嬉しいです、先代様。私は当代聖女……ではない、ただのリーリエです」
 リーリエは急いでくるまっていた毛布から出ると、床に膝をつき、祈りの姿勢をとった。聖女であるリーリエに教えられた、最上の挨拶だ。

「わたくしも嬉しく思いますわ。いつかお詫びをしなければと思っていたのです」
「お詫びを……?」
「ええ。聖女のお役目をあなたに押し付けて、愉快に暮らしておりましたもの。……その、この姿を見れば、おわかりになるかもしれませんが」
 リーリエはまばたきを一つして、ユーファミアの立派な体を見つめた。

「王家の食事がとても、おいしくて……」
「わかりますわ!」
 リーリエは強く同意した。
 できるものなら飛びついてその手を握りたい。けれど鉄格子が阻み、さすがに失礼に思われたので、ぎゅっと両の手を合わせるにすませた。

「私も、とても、とても、おいしくて……おいしいのです。噛めるのです!」
「そうでしょう! 噛むたびにおいしいでしょう!」
「ええ、いつまでも噛んでいたいです。ただ顎が……疲れてしまって……」

「リーリエ様、お気を落とさないで。噛み続ければ顎が鍛えられ、いつまででも噛めるようになるのですわ」
「まあ……! いつまででも……?」
「いつまででもです。ただ、そのうちに、ひとつのものをずっと噛み続けるより、別のものを挟むことによって……あ、いえ、これはまだリーリエ様には早かったですわ」
「え、お待ちください、その先をぜひ……」

「リーリエ様、本日は、あなた様のご意思を伺いに参ったのです」
「私の……意思、ですか?」
 そんなことより別のものを挟むというのを詳しく聞きたいが、教えてくれないらしい。

「ええ。このたびのことは、恐らく私も一因です。第一王子の母君がお亡くなりになられ、その後に王妃となったわたくしは、たくさん美味しいものを食べ、きれいなもの、楽しいものを集めました。それで王子は、聖女は欲深いものと偏見を持ったのだと思います」
「欲深い……美味しいものを食べるのは、よくないのですか……?」
「いいえ。ただ、わたくしはやりすぎてしまったのです。リーリエ様、もし、あなた様の体がどんどん重く、大きくなるなら、それは食べすぎです。それだけは気をつけなければなりません」

「食べすぎ……」
 リーリエはユーファミアの言葉を胸に刻んだ。
 欲深さの罪はリーリエも学んでいる。世には自分だけではないのだから、人のものを奪うほどに手に入れてはいけない。

「気をつけます」
「ええ、きっと、お気をつけになって。きっとよ。……そう、それで、本題ですわ。教会の選んだ聖女を俗物と考えた王子は、あなたを聖女の任から解き、かわりにマイラ様を据えようとしておられます」
 リーリエは驚いた。
「俗物であれば、聖女をやめられるのですか?」
 そんなこと誰も教えてくれなかった。聖女をやめられるのは、次の聖女が見つかった時だけ。そう聞いていたのだ。

「本来なら無理です。けれど、ひとりの聖女にかける荷が重すぎることは、わたくしもよく存じております。是正するよう教会に働きかけてもいましたが、無駄でしたわね……」
 ユーファミアはため息をつき、視線をあげて真っ直ぐにリーリエを見た。
「今回はあのバ……、王子がやらかしたこと。このさいあなた様がお望みなら、そうしてさしあげようかと思うのです。リーリエ様、聖女でありたいですか?」
「いいえ!!!!!」
 リーリエは強く答えた。

「私は聖女でなんていたくないです! もう祈りたくないのです」
「……ですがそれでは、一生をこの牢で過ごすことになるかもしれません」
「一生を……!? ユーファミア様、ぜひ、ぜひ、そうしていただきたいのです。私は自由でいたいのです」
 この自由な牢の中で、ただぼうっとして一生を終える。
 そんな幸せなことはない。

「……わかりましたわ」
 ユーファミアは微笑みを浮かべた。
 けれどどこか悲しげにも見えて、リーリエは首を傾げた。

「では、そのようにいたしましょう。……後のことは後でも考えられますものね。マイラ様が聖女となれるよう、わたくしが後押しいたします」
「ユーファミア様……!」
 喜びに祈りを捧げかけ、踏みとどまった。リーリエはもう祈らないのだ。
 かわりに衝動に任せ、立ち上がってくるりと回った。それで少し落ち着くと、今度は心配になる。

「マイラ様にはご迷惑をおかけすることになります……」
「大丈夫ですわ。マイラ様は聖女になりたいようですから。しばらく国が荒れる可能性があるとお伝えしましたが、努力でどうにかするとおっしゃっておられました」
「そうなのですか? なんて素晴らしい方なのでしょう」
「ええ、まあ……素晴らしい方、ですわね……」

 リーリエは感動し、自分を情けなく思った。
 けれどそれでも、素晴らしい人間になるために一日中祈りたいとは思わない。
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