パドックで会いましょう

櫻井音衣

文字の大きさ
上 下
55 / 60
いつの日かまた、パドックで

しおりを挟む
メインレースの神戸新聞杯が終わり、最終レースに出走する馬たちがパドックを周回し始めた。
神戸新聞杯を目当てに来場していた観客の多くが、競馬場を後にし始める。
僕はパドックで周回する馬たちをぼんやりと眺めながら、今日もねえさんは来ないだろうとあきらめ始めていた。

「まだ最終レースもあるのにな……」

思わずポツリと呟く。
自分だって目の前にいる馬たちのレースはそっちのけで、ねえさんを待っているくせに。
最終レースを観ずに帰ってしまう人たちのことは責められない。
ねえさんとはもう会えないのかな……。
おじさんがこの世を去って、ねえさんは競馬場に姿を見せなくなって、僕はひとりぼっちだ。
初めて競馬場に足を運んだあの日は、まさかこんな出会いと別れが待っているとは思わなかった。
僕は込み上げる涙をこらえながら、指輪の入った小箱を手の中でギュッと握りしめた。

おじさん、お願いです。
ねえさんに会わせて下さい。
おじさんから預かった指輪を渡すことも、僕のこの想いを伝えることもできないまま、もうねえさんに会えないなんてつらすぎる。
ねえさんに会いたい。
たとえ僕の気持ちは、ねえさんに受け入れてもらえなくても。

周回していた馬たちが、厩務員に手綱を引かれ本馬場へ向かって移動し始めた。
パドックにいた客たちも、思い思いの場所へゾロゾロと流れて行く。
パドックのモニターでは、最終レースに出走する競走馬たちの本馬場入場の様子が流れている。
僕はパドックの観覧席の片隅に座ったまま、背中を丸め膝に肘をついて、両手で顔を覆った。
頬に触れた指先は、無意識のうちに溢れた涙で濡れていた。
ねえさんは今日も来なかった。
もう何週間会っていないだろう?
このまま会えなかったら、僕は……。

「最終レース、始まるで?」

ずっと聞きたかったその声に顔を上げると、僕の目の前にはねえさんがいて、その向こうのモニターには無事にゲートインを済ませた馬たちがスターターの合図を待つ様子が映し出されていた。

「……何泣いてんのん?」

ねえさんは細い指先で、僕の目元をそっと拭った。

「ねえさん……ねえさん……!」

最終レースのゲートが開き、全馬一斉に飛び出した。
観客たちの歓声を聞きながら、僕はねえさんの肩口に額を預けて泣いた。
ねえさんは僕の背中に腕を回して、優しくトントンと叩いてくれた。

「ねえさん……会えて良かった……。もう……二度と会えないかと……」
「大袈裟やわ……。大人の男が、こんくらいのことで泣いたらあかんやろ?」
「……うん……」

ねえさんは少し笑ってポケットからハンカチを取り出し、涙で濡れた僕の顔を拭いてくれた。

「そう言えば……おっちゃんは?今日は来てへんの?」

ハンカチをポケットにしまいながら、ねえさんは尋ねた。
おじさんが亡くなったことは、伝えた方がいいんだろうか?
それとも、遠くへ行ったとだけ伝えるべきなんだろうか?

しおりを挟む

処理中です...