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第一章 冬の訪れ
1-2 〈第六聖女遠征〉 ……ミカエル
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煤混じりの雪が、月盾の兄弟の間に舞う。
何を言ってもどこ吹く風の弟に、溜息をつきたいのはこっちだとミカエルは内心ぼやいた。
〈帝国〉領への〈第六聖女遠征〉が始まって、三ヵ月が経過していた。
すでに秋は終わり、冬が訪れていた。数日前から降り始めた雪に、北の〈帝国〉の地は、あっという間に白く染まった。
アンダースの愚痴は教会遠征軍の現状を端的に示していた。つまり、冬の訪れを待たずして、教会遠征軍はすでに疲弊しきっていた。
*****
〈教会〉と〈帝国〉の対立が表面化していく中、〈黒い安息日〉にて戦端が開かれる以前から、誰もが、〈教会〉の絶対的優位を確信していた。大陸の文化の心臓部である教皇庁を首都とし、〈東からの災厄〉の影響が軽微だった南の沃野と、豊富な海外植民地を有する〈教会〉に対し、〈帝国〉は北部の辺境から武力で領土を拡張しただけに過ぎない。いくら皇帝グスタフが類稀な英傑であっても、彼我の国力差は明らかであり、順調に進めば、開戦から一ヵ月後には帝都は陥落し、戦争は〈教会〉の勝利で終わるはずだった。
だが〈第六聖女遠征〉の開始後、一蹴で滅ぶと思われていた〈帝国〉が取った行動は、徹底した決戦の回避と、国土の焦土化による遅滞作戦だった。
遠征軍の進軍路上にある主要都市は軒並み破壊され、物資の現地調達はほとんど当てにならなかった。伸びきった教会遠征軍の兵站線は度々寸断され、輜重部隊の損害だけは増加の一途を辿った。
第六聖女セレンを遠征軍総帥とし、ミカエルの父ヨハンを総指揮官とする本隊八万、その次席であるヴァレンシュタイン元帥率いる第二軍七万、総勢十五万人いた教会遠征軍の規模も、徐々に縮小。現在、総兵力は十万人まで落ち込み、本隊も初期の八万から五万まで減少した。
ロートリンゲン家と同じ〈教会五大家〉のティリー卿が、再三の援軍要請にも動かず、国境沿いに留まったままであるため、兵員補充の目途は立っていない。北陵街道を進む本隊も、王の回廊を進む第二軍も、ダラダラと長引く行軍により、今や敵の捕捉と交戦よりも、兵站の維持管理、進軍路の確保に注力せざるを得ない状況に陥っている。
*****
焼け落ちる木造の教会を横目に、沈黙が風にそよぐ。
満足そうにそれを見る弟は相変わらず気楽そうだったが、しかしミカエルにとって事の次第は、濁った雪雲が垂れ込める空と同じく、どこまでも重苦しかった。
そんな兄弟の気まずい空気を察したかのように、月盾騎士団の副官であるディーツがやってきた。
「騎士団長。弟君」
〈古の聖戦〉時代から伝わる、前時代的な鎖帷子とサーコートを着用した騎士が、馬を降り敬礼する。ミカエルも姿勢を正し、指揮官として表情を引き締める。
「ディーツ。敵の足取りは掴めたか?」
「一足遅かったようです。敵は篝火だけ焚いて、昨晩にはもうここを出立していたようです」
「そうか……。食料はどうだ? 何か見つかったか?」
「いいえ。この近辺は焼き討ちこそされていませんが、他の北部諸都市と同じです。残っているのは、腐ってるか干からびてる冷や飯、そして見捨てられた帝国領民ばかりです。物資を徴発しようにも、そもそも何も残っていません。敵の情報も収集中ですが、期待はできないでしょう」
ディーツの返答に、アンダースが露骨に落胆する。ミカエルも思わず、溜息を漏らしてしまう。
「ここまで用意周到な退却を見ると、我らを本隊から誘き出す陽動の可能性もあるのでは?」
味方しかいない村を恨めしげに見渡しながら、アンダースが吐き捨てる。
ミカエルは言葉を濁し、弟の意見を煙に巻いた。ディーツも否定はしなかったが、肯定もしなかった。
「はぁ……。ろくに兵站を整えず、略奪頼みで軍を動かすからこんなことになるんだ。この調子では、他の部隊にも期待はできないな……」
苛立ちを隠そうともせず、アンダースが雪を蹴る。
「ない物は仕方あるまい。物資の補給については、本隊と合流後、父上と主計長に相談してみる。他の部隊が戻るまで、我らはここで小休止だ」
ミカエルの命令にディーツが敬礼する。一方で弟は、刺剣のくるくると回して遊んでいた。
幕僚たちに指示を出し終えると、ミカエルは小さく息を吐いた。白い息は、すぐに粉雪の合間に霞んで消えていった。
*****
〈第六聖女遠征〉は行き詰っていた。
独立遊撃部隊として父ヨハン率いる本隊に付随する月盾騎士団は、現在、帝国軍の殿軍を務める部隊を追っているが、しかし目立った戦果はなかった。会敵しても、ほとんどは前衛同士の小競り合いであり、戦況に大きな進展はない。
五千人で編成される月盾騎士団は、兵力の減少こそなかったが、士気の低下は明らかだった。兵士らには疲労感が、将官らには倦怠感が漂い始めていた。
それでもミカエルは騎士団を動かし続けた。迷いはもちろんあったが、そうすることしかできなかった。しかし実態は、止められなかったと言った方が、正しかった。
恐らくは、父も同じ心境なのだろう──総勢十五万もの大軍が動き出した以上、〈教会七聖女〉の一人を遠征の旗印に掲げた以上、生半可なことではあとには退けない。兵力が減少したとはいっても、未だ総力では勝っている。このまま帝都まで侵攻すれば、戦争には勝てる。遠征軍の実質的な総指揮官を務める父ヨハンは、ミカエルにそう語った。
このまま進軍を続ければ、いくら敵が足掻いても、一ヵ月足らずで帝都には辿り着く。そこで改めて皇帝グスタフ三世に最後通牒を突きつけ、帝国軍の降伏を受け入れる。それまでの辛抱だと、軍議ではみなが口を揃えて言った。
一度だけ、それまで軍の体裁が保てるのかと、ミカエルは父に問いかけた。だが、明確な返答はなかった。
*****
意味のない思案が、浮かんでは消える。どうにもならない迷いだけが、雪のように降り積もっては、心を濁らせる。
そんなときだった。唐突に、枯れた森の向こうから遠雷が響いた。
冬の雷鳴──その音にどこか胸騒ぎを覚え、ミカエルは森の向こうの空を見上げた。
垂れ込める雪雲と、色のない冬の陽に目をやりながら、耳を澄ませ、神経を研ぎ澄ます。幕僚の何人かも不穏な空気を察したのか、動きを止め、話し声を制する。
遠雷が大きくなる。
雪に沈む静謐の中で、ゆっくりと、遠雷がその輪郭を露わにしていく。そして、轟くその音の正体を理解したとき、一際冷たい北風が、ミカエルの背筋を撫でた。
背筋が凍った。それは、大砲の砲声だった。
戦が始まっている──ミカエルは、即座に騎士団に集合の合図を発した。
月盾の騎士たちが目の色を変え動き出す。突然のことながら、アンダースも表情を引き締め、三度騎兵帽の被りを直す。
〈教会〉の十字架旗が、月盾騎士団の月盾の軍旗が、吹き抜ける北風に揺れる。これまでは死んだように静かだった北の〈帝国〉の地は、にわかに蠢き始めていた。
何を言ってもどこ吹く風の弟に、溜息をつきたいのはこっちだとミカエルは内心ぼやいた。
〈帝国〉領への〈第六聖女遠征〉が始まって、三ヵ月が経過していた。
すでに秋は終わり、冬が訪れていた。数日前から降り始めた雪に、北の〈帝国〉の地は、あっという間に白く染まった。
アンダースの愚痴は教会遠征軍の現状を端的に示していた。つまり、冬の訪れを待たずして、教会遠征軍はすでに疲弊しきっていた。
*****
〈教会〉と〈帝国〉の対立が表面化していく中、〈黒い安息日〉にて戦端が開かれる以前から、誰もが、〈教会〉の絶対的優位を確信していた。大陸の文化の心臓部である教皇庁を首都とし、〈東からの災厄〉の影響が軽微だった南の沃野と、豊富な海外植民地を有する〈教会〉に対し、〈帝国〉は北部の辺境から武力で領土を拡張しただけに過ぎない。いくら皇帝グスタフが類稀な英傑であっても、彼我の国力差は明らかであり、順調に進めば、開戦から一ヵ月後には帝都は陥落し、戦争は〈教会〉の勝利で終わるはずだった。
だが〈第六聖女遠征〉の開始後、一蹴で滅ぶと思われていた〈帝国〉が取った行動は、徹底した決戦の回避と、国土の焦土化による遅滞作戦だった。
遠征軍の進軍路上にある主要都市は軒並み破壊され、物資の現地調達はほとんど当てにならなかった。伸びきった教会遠征軍の兵站線は度々寸断され、輜重部隊の損害だけは増加の一途を辿った。
第六聖女セレンを遠征軍総帥とし、ミカエルの父ヨハンを総指揮官とする本隊八万、その次席であるヴァレンシュタイン元帥率いる第二軍七万、総勢十五万人いた教会遠征軍の規模も、徐々に縮小。現在、総兵力は十万人まで落ち込み、本隊も初期の八万から五万まで減少した。
ロートリンゲン家と同じ〈教会五大家〉のティリー卿が、再三の援軍要請にも動かず、国境沿いに留まったままであるため、兵員補充の目途は立っていない。北陵街道を進む本隊も、王の回廊を進む第二軍も、ダラダラと長引く行軍により、今や敵の捕捉と交戦よりも、兵站の維持管理、進軍路の確保に注力せざるを得ない状況に陥っている。
*****
焼け落ちる木造の教会を横目に、沈黙が風にそよぐ。
満足そうにそれを見る弟は相変わらず気楽そうだったが、しかしミカエルにとって事の次第は、濁った雪雲が垂れ込める空と同じく、どこまでも重苦しかった。
そんな兄弟の気まずい空気を察したかのように、月盾騎士団の副官であるディーツがやってきた。
「騎士団長。弟君」
〈古の聖戦〉時代から伝わる、前時代的な鎖帷子とサーコートを着用した騎士が、馬を降り敬礼する。ミカエルも姿勢を正し、指揮官として表情を引き締める。
「ディーツ。敵の足取りは掴めたか?」
「一足遅かったようです。敵は篝火だけ焚いて、昨晩にはもうここを出立していたようです」
「そうか……。食料はどうだ? 何か見つかったか?」
「いいえ。この近辺は焼き討ちこそされていませんが、他の北部諸都市と同じです。残っているのは、腐ってるか干からびてる冷や飯、そして見捨てられた帝国領民ばかりです。物資を徴発しようにも、そもそも何も残っていません。敵の情報も収集中ですが、期待はできないでしょう」
ディーツの返答に、アンダースが露骨に落胆する。ミカエルも思わず、溜息を漏らしてしまう。
「ここまで用意周到な退却を見ると、我らを本隊から誘き出す陽動の可能性もあるのでは?」
味方しかいない村を恨めしげに見渡しながら、アンダースが吐き捨てる。
ミカエルは言葉を濁し、弟の意見を煙に巻いた。ディーツも否定はしなかったが、肯定もしなかった。
「はぁ……。ろくに兵站を整えず、略奪頼みで軍を動かすからこんなことになるんだ。この調子では、他の部隊にも期待はできないな……」
苛立ちを隠そうともせず、アンダースが雪を蹴る。
「ない物は仕方あるまい。物資の補給については、本隊と合流後、父上と主計長に相談してみる。他の部隊が戻るまで、我らはここで小休止だ」
ミカエルの命令にディーツが敬礼する。一方で弟は、刺剣のくるくると回して遊んでいた。
幕僚たちに指示を出し終えると、ミカエルは小さく息を吐いた。白い息は、すぐに粉雪の合間に霞んで消えていった。
*****
〈第六聖女遠征〉は行き詰っていた。
独立遊撃部隊として父ヨハン率いる本隊に付随する月盾騎士団は、現在、帝国軍の殿軍を務める部隊を追っているが、しかし目立った戦果はなかった。会敵しても、ほとんどは前衛同士の小競り合いであり、戦況に大きな進展はない。
五千人で編成される月盾騎士団は、兵力の減少こそなかったが、士気の低下は明らかだった。兵士らには疲労感が、将官らには倦怠感が漂い始めていた。
それでもミカエルは騎士団を動かし続けた。迷いはもちろんあったが、そうすることしかできなかった。しかし実態は、止められなかったと言った方が、正しかった。
恐らくは、父も同じ心境なのだろう──総勢十五万もの大軍が動き出した以上、〈教会七聖女〉の一人を遠征の旗印に掲げた以上、生半可なことではあとには退けない。兵力が減少したとはいっても、未だ総力では勝っている。このまま帝都まで侵攻すれば、戦争には勝てる。遠征軍の実質的な総指揮官を務める父ヨハンは、ミカエルにそう語った。
このまま進軍を続ければ、いくら敵が足掻いても、一ヵ月足らずで帝都には辿り着く。そこで改めて皇帝グスタフ三世に最後通牒を突きつけ、帝国軍の降伏を受け入れる。それまでの辛抱だと、軍議ではみなが口を揃えて言った。
一度だけ、それまで軍の体裁が保てるのかと、ミカエルは父に問いかけた。だが、明確な返答はなかった。
*****
意味のない思案が、浮かんでは消える。どうにもならない迷いだけが、雪のように降り積もっては、心を濁らせる。
そんなときだった。唐突に、枯れた森の向こうから遠雷が響いた。
冬の雷鳴──その音にどこか胸騒ぎを覚え、ミカエルは森の向こうの空を見上げた。
垂れ込める雪雲と、色のない冬の陽に目をやりながら、耳を澄ませ、神経を研ぎ澄ます。幕僚の何人かも不穏な空気を察したのか、動きを止め、話し声を制する。
遠雷が大きくなる。
雪に沈む静謐の中で、ゆっくりと、遠雷がその輪郭を露わにしていく。そして、轟くその音の正体を理解したとき、一際冷たい北風が、ミカエルの背筋を撫でた。
背筋が凍った。それは、大砲の砲声だった。
戦が始まっている──ミカエルは、即座に騎士団に集合の合図を発した。
月盾の騎士たちが目の色を変え動き出す。突然のことながら、アンダースも表情を引き締め、三度騎兵帽の被りを直す。
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