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狭量な長弟
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クロムウェル公爵家で療養して1週間。
白髪に白い顎髭。見るからにヤギの獣人っぽいおじいちゃん先生ことコッツェイ先生から、完治のお墨付きをもらうことができた。
本来は1週間の安静。さらに1週間の経過観察だったけど、地道に治癒魔法を頭にかけ続けた結果、頭痛が止んだ。ぼーっとしていた頭がクリアになって、体内を巡る魔力が正常化した。
今朝、コッツェイ先生に見守られながら最後の治癒魔法をかけたのは、頬骨のヒビと小指の骨折。
コッツェイ先生は初めて見る治癒魔法に感動しながらも、「あとは無理のないように体力を戻すだけ」と第2騎士団に戻ることを許可してくれた。
その報せを受け、早々迎えに来たのはジャレッド団長だ。
開口一番、「さっさと帰るぞ」には驚いた。
戻るのは賛成だけど、私は病み上がり。
怪我は治っても、1週間のほぼ寝たきりで落ちた筋力と体力では、以前のようにすいすい歩くことはできない。
ディアンネが困惑気味に私のリュックサックを抱え、ジャレッド団長は「これがイヴの荷物だな」と革製のトランクケースを手にした。
それは公爵家のもので、中に私の着替えなどが入っている。その着替えを用意してくれたのも公爵家だ。給料天引きで返していきたいとは思うけど、全てが高品質だったので何年かかるかは分からない…。
何を急いでいるのか、ジャレッド団長はずんずんと先を行く。
健康であった頃も歩幅の違いで置いてけぼりだったのに、病み上がりの体力でついて行けるわけがない。
「ふぅ…」と深々と息を吐けば、ディアンネが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。
それからキッと目つきも鋭く、ジャレッド団長の背中を睨みつけた。
「ジャレッド様!イヴ様の歩みに合わせて下さいませ」
叱責を孕んだ声に、ジャレッド団長が振り返った。
私が壁に手をつき、肩で息をしているのに驚いたらしい。ぎょっと目を丸め、「どうした!?」と急ぎ足で戻って来た。
「すみません。体力が落ちているので、早く歩けないだけです」
「では俺が抱えよう」
「いえ。大丈夫です。コッツェイ先生からも筋力を回復させるように言われているので」
「しかし」と渋面を作るジャレッド団長を宥め、えっちらおっちら歩く。
ジャレッド団長も一緒に小さな歩幅で歩きながら、「無理はするな」とか「やはり俺が抱えた方が…」と口を出してくる。
出会った頃を思うと、全くの別人みたいに甘い。
歩く、抱える、歩く…の攻防の末、ようやく辿り着いたエントランスホールは、私の実家が丸々入るくらいの広さがある。
一面の大理石は、ピカピカツヤツヤのアイボリー。ゴージャスな花瓶にゴージャスな大輪の花が生けられ、吹き抜けの天井には、金色のシャンデリアが大きな窓から射し込む陽射しを受けて燦然と輝いている。
ずらりと並んだ使用人に怯んでしまったけど、エントランスホール正面の幅広い階段を上がった先にある巨大絵画に気づいて、息を詰めて見入ってしまった。
前回は疲労困憊の上、公爵夫人と対面して精神的な疲弊で他に目がいかず気が付かなかった。今回は昏倒していたので、気付く以前の問題だ。
決して明るい色使いではないけど、黒髪の厳つい男性と跪く騎士の絵は荘厳な雰囲気がある。
跪く騎士の肩に剣を当てているので、アコレードという騎士に称号を授与する儀式だと思う。王族から騎士に、というのが一般的だけど、黒髪の男性は王族に見えない。深い青地の軍服姿で、王冠もなければ、絵本の王様の定番、白貂の毛皮を用いたマントも着用していない。
「闘神ヴァルトゥーゼによる叙勲の儀式だよ」
コツリ…と音がして絵画から視線を外せば、2階の手すりに手を置いた、恐ろしく美しい人が微笑んでいた。
髪と瞳の色はジャレッド団長と同じだ。ただ、チョコレート色の髪は長く、藍色のリボンでゆったりと首の後ろで束ねている。容姿は男性なのか女性なのか判別できないほど中性的。
というか、美貌が突き抜けすぎて人かどうかも疑わしい。
聞くところによると、天使には性別がないという。
ようやくマリアたちの言っていた意味が分かった。
息を呑んで麗人を見上げていると、急に視界が真っ暗になった。目の前にジャレッド団長が立ったのだ。
「兄上。今日は弁護士と打ち合わせがあると聞きましたが?」
「時間をずらしてもらったんだよ。ゴゼットさんが快癒したと聞いたのでね。まさか、挨拶もなく帰るのかい?」
ジャレッド団長越しに、ぞくり、と怖気を感じるほどの圧を感じる。
ディアンネが「大丈夫ですよ」と背中を摩ってくれるけど、全然大丈夫じゃない。
1週間も客間で療養させてもらったのだ。しかも、着替えを揃えてくれ、美味しいごはんを3食も用意してくれた。紅茶とケーキも堪能できた。
至れり尽くせりの看病を経て、挨拶もなく出て行くというのは、恩を仇で返すと同義だ。
天使様改め次期公爵様であらせられるハワード団長の叱責に、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
ただ、私の前に立つジャレッド団長に反省の色はない。
「はっ」と鼻で笑い飛ばし、「当然だ」と胸を張っている。
「イヴにストレスは与えたくない」
「あははは!母上が言っていた通りだね!ああ、可笑しい」
ハワード団長の陽気な笑い声がエントランスホールに反響する。
大きな笑い声なのに、それですら下品にならないとは…。
一方、ジャレッド団長の機嫌がさらに下降したのが分かった。
ジャレッド団長が不機嫌になると、周囲の空気が凍り付いたように張り詰める。ディアンネはびくりと肩を震わせ、遠巻きに待機している使用人たちは壁に張り付く勢いで後ろに退った。
あからさまにハワード団長の時と反応が違う。
手汗を、公爵家が用意してくれた黄色のワンピースで拭う。
すごく肌触りのいい上等な布地に手汗を擦り付けるのは罪悪感が半端ない。それでも、ひと拭き、ふた拭きした後、覚悟を決めてジャレッド団長の背中から出て驚いた。
目の前にハワード団長が立っていたのだ。
野性味溢れるジャレッド団長とは真逆で、近くで見れば見るほど繊細で完全無欠な容姿をしている。
そんな麗しい顔貌と見合って、じわじわと頬が熱くなった。
マリアたちの熱狂が分かるというものだ。貴族への恐怖より、目を奪われるほどの凄艶にガチガチと奥歯が鳴ってしまう。
「初めましてではないのだけど、記憶が欠けていると聞いた。だから、ここでは初めましてと言わせてくれるかな」
優しい声音に、私はがくがく頷く。
「は、は、はじ、初めまして。イイイイヴ・ゴゼットです…!おっ、お世話になりました…!」
「緊張しないでほしい。リラックスしてくれ。でないと愚弟の機嫌が悪くなる」
ふふ、と笑うハワード団長の美しさを、どうやってマリアたちに伝えようか…。
「当主はスカーレン領の件で皇帝陛下に呼ばれていてね。母と共に留守にしている。後日、ゴゼットさんに直接謝罪したいと連絡を受けているんだが…」
「断る!」
一刀両断。
こういう時のジャレッド団長は頼もしい。
「時期尚早だ。それでなくともこいつは貴族に好感情をもっていない」
「そうだね。いきなり公爵は拙いかもしれないな。では、私の妻ではどうかな?妻がお茶に呼びたいとうずうずしていてね」
「いい加減にしろッ」
ガルルル、と唸るジャレッド団長に、ハワード団長は苦笑する。
「まぁ、お茶会の件は後日に改めようか」
改めなくていいので私のことは忘れてほしい…。
「それでは本題だ。今回の件だが、公爵は加害者へ一切手心を加えることはないと断言された。裁判で吊るし上げるようだ」
天使な顔で、ぞくり、と薄ら寒くなるような嗜虐的な笑みを浮かべる。
ジャレッド団長とは違う怖さがある…。
「あの…裁判は…私も出るのでしょうか?」
「無理して出る必要はない。証言には部下と医師が立つ」
出廷なんて大事にならずに済んで良かった。
ほっと胸を撫で下ろしたところで、痺れを切らしたようにジャレッド団長が再び私の前に立った。
「挨拶は終わったな。行くぞ」
「我が弟は、どれだけ狭量なのだ」
ハワード団長のため息が聞こえた。
「あ、あの!大変ご迷惑をおかけしました」
ジャレッド団長の背中越しに頭を下げる。
「迷惑ではないよ。ゴゼットさんは被害者なのだから。私たちの目と鼻の先で、このような犯罪が起きたことは遺憾に思っている。留守を預かる身として謝罪したい」
「い、いえ!悪いのは暴力を振るった人なので…。運が悪かったで片づけていいのかは分からないですけど、本当に運が悪かったんだと思います。あんなに沢山の人がいるのに、熱狂的なファンと鉢合わせるなんて…想像にもしてませんでした」
「そうだね。極論、ジャレッドが悪い」
「あ”ぁ!?」
「だってそうだろう?後手後手じゃないか。模擬戦の一般開放は問題があった。一部の熱狂的な令嬢が、身分下の子たちに脅迫紛いのことまで仕出かしていた。早々に手を打つべきことを放置していたのはお前だろ?」
その指摘に、ジャレッド団長が「ぐぅ…」と怯んだ。
「せめて、婚約者でもいれば過激な令嬢は減っていたんだろうがね」
確かに。
公爵家令息なのに不思議。
キャトラル王国の貴族の長男次男は、早々に婚約するのだとメリンダから聞いたことがある。長男は家を継ぐから理解できるけど、次男はスペアとして待機させられるって言うから可哀想に思ったものだ。
「俺のことは放っておいてくれ。次期公爵の兄上に男児が生まれたんだ。もう俺は必要ないだろ」
「私としてはね、可愛らしい妹が欲しいんだよ。お前でもグレンでも良いんだけどね」
ハワード団長は言って、何事かをジャレッド団長に耳打ちした。
内容は全く聞こえなかったけど、楽しいことじゃないのは確かだ。ジャレッド団長が「ガルルル」と低い唸り声をあげ、私はディアンネと一緒に2歩3歩と後ろに退った。
顔は見えなくても、全身から滲み出た憤怒のオーラが怖い。
なのに、ハワード団長はからからと笑っている。
笑いながら、ひょいっと私を覗き込んだ。
「ゴゼットさん。君さえ良ければ、公爵家預かりとしようか?客人として公爵家滞在となる方が、第2にいるより安全は保たれる」
「兄上!!」
まるで雷が落ちたかのような怒声に体が跳ねた。
「元々、治癒士を招くのは公爵家の意向だったんだ。その上で、第1、第2、第3の何れかの預かりにしようと会議の末、獣人に慣れて貰うためにも、団員数の少ない第2預かりとなった経緯があるんだよ」
見えるのはジャレッド団長の背中ばかりだけど、ハワード団長は私に言っているのだろう。
色々と疑問に思うことはあったけど、腑に落ちた。
「兄上ッ」
地を這うような声に総毛立つ。
私よりも本能が勝る獣人の使用人たちは、怯えた子犬のように背を丸め、ぷるぷると震えている。かくいう私も、膝ががくがくする。
ジャレッド団長はハワード団長に唸りながらも、ディアンネが持ってくれていたリュックサックを引っ手繰った。かと思えば、すいっと私の体が宙に浮く。
急な抱っこ体が硬直してしまう。
抱っこされたことで、さらにハワード団長の美貌が近くなった。羞恥で顔を背ければ、今度はジャレッド団長の首筋が鼻先に触れる。色んな感情が爆発して、青くなればいいのか、赤くなればいいのか私の顔色は目まぐるしく変わる。
「帰る」
吐き捨て、歩き出したジャレッド団長に、「せっかちだね」と苦笑が落ちる。
「ジャレッド、待ちなさい。馬車を準備しているから」
「必要ない」
「まさか、病み上がりのゴセットさんを馬に乗せるんじゃないだろうね?」
図星とばかりにジャレッド団長の足が止まった。
正直、抱えられて落馬の危険はないと言われても、爆走する馬に跨り、およそ6kmの道のりを駆けるのは体力的に無理だ。
絢爛豪華な4頭立ての馬車は緊張するけど、馬車がいい。
祈るような気持ちが通じたのかどうか。ジャレッド団長は険しい顔つきで歯軋りした後、しおしおと肩の力を抜いた。
「外で待つ。馬車の準備を急いでくれ」
「せっかくお茶をしようと思ったのに」
「1人でしてろッ」
ジャレッド団長は噛みつくように吼え、隅っこに佇んでいた黒服の男性に「馬車を急げ!」と命令を飛ばした。
白髪に白い顎髭。見るからにヤギの獣人っぽいおじいちゃん先生ことコッツェイ先生から、完治のお墨付きをもらうことができた。
本来は1週間の安静。さらに1週間の経過観察だったけど、地道に治癒魔法を頭にかけ続けた結果、頭痛が止んだ。ぼーっとしていた頭がクリアになって、体内を巡る魔力が正常化した。
今朝、コッツェイ先生に見守られながら最後の治癒魔法をかけたのは、頬骨のヒビと小指の骨折。
コッツェイ先生は初めて見る治癒魔法に感動しながらも、「あとは無理のないように体力を戻すだけ」と第2騎士団に戻ることを許可してくれた。
その報せを受け、早々迎えに来たのはジャレッド団長だ。
開口一番、「さっさと帰るぞ」には驚いた。
戻るのは賛成だけど、私は病み上がり。
怪我は治っても、1週間のほぼ寝たきりで落ちた筋力と体力では、以前のようにすいすい歩くことはできない。
ディアンネが困惑気味に私のリュックサックを抱え、ジャレッド団長は「これがイヴの荷物だな」と革製のトランクケースを手にした。
それは公爵家のもので、中に私の着替えなどが入っている。その着替えを用意してくれたのも公爵家だ。給料天引きで返していきたいとは思うけど、全てが高品質だったので何年かかるかは分からない…。
何を急いでいるのか、ジャレッド団長はずんずんと先を行く。
健康であった頃も歩幅の違いで置いてけぼりだったのに、病み上がりの体力でついて行けるわけがない。
「ふぅ…」と深々と息を吐けば、ディアンネが「大丈夫ですか?」と声をかけてくれる。
それからキッと目つきも鋭く、ジャレッド団長の背中を睨みつけた。
「ジャレッド様!イヴ様の歩みに合わせて下さいませ」
叱責を孕んだ声に、ジャレッド団長が振り返った。
私が壁に手をつき、肩で息をしているのに驚いたらしい。ぎょっと目を丸め、「どうした!?」と急ぎ足で戻って来た。
「すみません。体力が落ちているので、早く歩けないだけです」
「では俺が抱えよう」
「いえ。大丈夫です。コッツェイ先生からも筋力を回復させるように言われているので」
「しかし」と渋面を作るジャレッド団長を宥め、えっちらおっちら歩く。
ジャレッド団長も一緒に小さな歩幅で歩きながら、「無理はするな」とか「やはり俺が抱えた方が…」と口を出してくる。
出会った頃を思うと、全くの別人みたいに甘い。
歩く、抱える、歩く…の攻防の末、ようやく辿り着いたエントランスホールは、私の実家が丸々入るくらいの広さがある。
一面の大理石は、ピカピカツヤツヤのアイボリー。ゴージャスな花瓶にゴージャスな大輪の花が生けられ、吹き抜けの天井には、金色のシャンデリアが大きな窓から射し込む陽射しを受けて燦然と輝いている。
ずらりと並んだ使用人に怯んでしまったけど、エントランスホール正面の幅広い階段を上がった先にある巨大絵画に気づいて、息を詰めて見入ってしまった。
前回は疲労困憊の上、公爵夫人と対面して精神的な疲弊で他に目がいかず気が付かなかった。今回は昏倒していたので、気付く以前の問題だ。
決して明るい色使いではないけど、黒髪の厳つい男性と跪く騎士の絵は荘厳な雰囲気がある。
跪く騎士の肩に剣を当てているので、アコレードという騎士に称号を授与する儀式だと思う。王族から騎士に、というのが一般的だけど、黒髪の男性は王族に見えない。深い青地の軍服姿で、王冠もなければ、絵本の王様の定番、白貂の毛皮を用いたマントも着用していない。
「闘神ヴァルトゥーゼによる叙勲の儀式だよ」
コツリ…と音がして絵画から視線を外せば、2階の手すりに手を置いた、恐ろしく美しい人が微笑んでいた。
髪と瞳の色はジャレッド団長と同じだ。ただ、チョコレート色の髪は長く、藍色のリボンでゆったりと首の後ろで束ねている。容姿は男性なのか女性なのか判別できないほど中性的。
というか、美貌が突き抜けすぎて人かどうかも疑わしい。
聞くところによると、天使には性別がないという。
ようやくマリアたちの言っていた意味が分かった。
息を呑んで麗人を見上げていると、急に視界が真っ暗になった。目の前にジャレッド団長が立ったのだ。
「兄上。今日は弁護士と打ち合わせがあると聞きましたが?」
「時間をずらしてもらったんだよ。ゴゼットさんが快癒したと聞いたのでね。まさか、挨拶もなく帰るのかい?」
ジャレッド団長越しに、ぞくり、と怖気を感じるほどの圧を感じる。
ディアンネが「大丈夫ですよ」と背中を摩ってくれるけど、全然大丈夫じゃない。
1週間も客間で療養させてもらったのだ。しかも、着替えを揃えてくれ、美味しいごはんを3食も用意してくれた。紅茶とケーキも堪能できた。
至れり尽くせりの看病を経て、挨拶もなく出て行くというのは、恩を仇で返すと同義だ。
天使様改め次期公爵様であらせられるハワード団長の叱責に、心臓がばくばくと早鐘を打っている。
ただ、私の前に立つジャレッド団長に反省の色はない。
「はっ」と鼻で笑い飛ばし、「当然だ」と胸を張っている。
「イヴにストレスは与えたくない」
「あははは!母上が言っていた通りだね!ああ、可笑しい」
ハワード団長の陽気な笑い声がエントランスホールに反響する。
大きな笑い声なのに、それですら下品にならないとは…。
一方、ジャレッド団長の機嫌がさらに下降したのが分かった。
ジャレッド団長が不機嫌になると、周囲の空気が凍り付いたように張り詰める。ディアンネはびくりと肩を震わせ、遠巻きに待機している使用人たちは壁に張り付く勢いで後ろに退った。
あからさまにハワード団長の時と反応が違う。
手汗を、公爵家が用意してくれた黄色のワンピースで拭う。
すごく肌触りのいい上等な布地に手汗を擦り付けるのは罪悪感が半端ない。それでも、ひと拭き、ふた拭きした後、覚悟を決めてジャレッド団長の背中から出て驚いた。
目の前にハワード団長が立っていたのだ。
野性味溢れるジャレッド団長とは真逆で、近くで見れば見るほど繊細で完全無欠な容姿をしている。
そんな麗しい顔貌と見合って、じわじわと頬が熱くなった。
マリアたちの熱狂が分かるというものだ。貴族への恐怖より、目を奪われるほどの凄艶にガチガチと奥歯が鳴ってしまう。
「初めましてではないのだけど、記憶が欠けていると聞いた。だから、ここでは初めましてと言わせてくれるかな」
優しい声音に、私はがくがく頷く。
「は、は、はじ、初めまして。イイイイヴ・ゴゼットです…!おっ、お世話になりました…!」
「緊張しないでほしい。リラックスしてくれ。でないと愚弟の機嫌が悪くなる」
ふふ、と笑うハワード団長の美しさを、どうやってマリアたちに伝えようか…。
「当主はスカーレン領の件で皇帝陛下に呼ばれていてね。母と共に留守にしている。後日、ゴゼットさんに直接謝罪したいと連絡を受けているんだが…」
「断る!」
一刀両断。
こういう時のジャレッド団長は頼もしい。
「時期尚早だ。それでなくともこいつは貴族に好感情をもっていない」
「そうだね。いきなり公爵は拙いかもしれないな。では、私の妻ではどうかな?妻がお茶に呼びたいとうずうずしていてね」
「いい加減にしろッ」
ガルルル、と唸るジャレッド団長に、ハワード団長は苦笑する。
「まぁ、お茶会の件は後日に改めようか」
改めなくていいので私のことは忘れてほしい…。
「それでは本題だ。今回の件だが、公爵は加害者へ一切手心を加えることはないと断言された。裁判で吊るし上げるようだ」
天使な顔で、ぞくり、と薄ら寒くなるような嗜虐的な笑みを浮かべる。
ジャレッド団長とは違う怖さがある…。
「あの…裁判は…私も出るのでしょうか?」
「無理して出る必要はない。証言には部下と医師が立つ」
出廷なんて大事にならずに済んで良かった。
ほっと胸を撫で下ろしたところで、痺れを切らしたようにジャレッド団長が再び私の前に立った。
「挨拶は終わったな。行くぞ」
「我が弟は、どれだけ狭量なのだ」
ハワード団長のため息が聞こえた。
「あ、あの!大変ご迷惑をおかけしました」
ジャレッド団長の背中越しに頭を下げる。
「迷惑ではないよ。ゴゼットさんは被害者なのだから。私たちの目と鼻の先で、このような犯罪が起きたことは遺憾に思っている。留守を預かる身として謝罪したい」
「い、いえ!悪いのは暴力を振るった人なので…。運が悪かったで片づけていいのかは分からないですけど、本当に運が悪かったんだと思います。あんなに沢山の人がいるのに、熱狂的なファンと鉢合わせるなんて…想像にもしてませんでした」
「そうだね。極論、ジャレッドが悪い」
「あ”ぁ!?」
「だってそうだろう?後手後手じゃないか。模擬戦の一般開放は問題があった。一部の熱狂的な令嬢が、身分下の子たちに脅迫紛いのことまで仕出かしていた。早々に手を打つべきことを放置していたのはお前だろ?」
その指摘に、ジャレッド団長が「ぐぅ…」と怯んだ。
「せめて、婚約者でもいれば過激な令嬢は減っていたんだろうがね」
確かに。
公爵家令息なのに不思議。
キャトラル王国の貴族の長男次男は、早々に婚約するのだとメリンダから聞いたことがある。長男は家を継ぐから理解できるけど、次男はスペアとして待機させられるって言うから可哀想に思ったものだ。
「俺のことは放っておいてくれ。次期公爵の兄上に男児が生まれたんだ。もう俺は必要ないだろ」
「私としてはね、可愛らしい妹が欲しいんだよ。お前でもグレンでも良いんだけどね」
ハワード団長は言って、何事かをジャレッド団長に耳打ちした。
内容は全く聞こえなかったけど、楽しいことじゃないのは確かだ。ジャレッド団長が「ガルルル」と低い唸り声をあげ、私はディアンネと一緒に2歩3歩と後ろに退った。
顔は見えなくても、全身から滲み出た憤怒のオーラが怖い。
なのに、ハワード団長はからからと笑っている。
笑いながら、ひょいっと私を覗き込んだ。
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「兄上!!」
まるで雷が落ちたかのような怒声に体が跳ねた。
「元々、治癒士を招くのは公爵家の意向だったんだ。その上で、第1、第2、第3の何れかの預かりにしようと会議の末、獣人に慣れて貰うためにも、団員数の少ない第2預かりとなった経緯があるんだよ」
見えるのはジャレッド団長の背中ばかりだけど、ハワード団長は私に言っているのだろう。
色々と疑問に思うことはあったけど、腑に落ちた。
「兄上ッ」
地を這うような声に総毛立つ。
私よりも本能が勝る獣人の使用人たちは、怯えた子犬のように背を丸め、ぷるぷると震えている。かくいう私も、膝ががくがくする。
ジャレッド団長はハワード団長に唸りながらも、ディアンネが持ってくれていたリュックサックを引っ手繰った。かと思えば、すいっと私の体が宙に浮く。
急な抱っこ体が硬直してしまう。
抱っこされたことで、さらにハワード団長の美貌が近くなった。羞恥で顔を背ければ、今度はジャレッド団長の首筋が鼻先に触れる。色んな感情が爆発して、青くなればいいのか、赤くなればいいのか私の顔色は目まぐるしく変わる。
「帰る」
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絢爛豪華な4頭立ての馬車は緊張するけど、馬車がいい。
祈るような気持ちが通じたのかどうか。ジャレッド団長は険しい顔つきで歯軋りした後、しおしおと肩の力を抜いた。
「外で待つ。馬車の準備を急いでくれ」
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貴族令嬢に転生したリルは、前世の記憶に混乱しつつも今世で恵まれていない環境なことに気が付き、突発で家出してしまう。
前世の社畜生活で疲れていたため、山奥で魔法の才能を生かしスローライフを目指すことにした。しかししょっぱなから魔物に襲われ、元王宮魔法士と出会ったり、はては皇子までやってきてと、なんだかスローライフとは違う毎日で……?
異世界転生してしまった。どうせ死ぬのに。
あんど もあ
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好きな人と結婚して初めてのクリスマスに事故で亡くなった私。異世界に転生したけど、どうせ死ぬなら幸せになんてなりたくない。そう思って生きてきたのだけど……。
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