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第9章 ウイスキーの街

28 二人の話し合い

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「あゆみ、今回はしっかり話をさせてもらうぞ」

 コップに二敗目を注ぎながら黒猫君は私を見もしないで話し出す。

「昨日の事だけどな。お前、俺に痛覚隔離をかけ続けてたんだってな」
「え?」

 てっきりあのレネさんとの賭けの事を怒られると思ってた私は黒猫君の思いがけない話題に一瞬頭が空っぽになった。

「それがいい事とか悪い事とかそんなのはテリースがお前にもう説明したんだろ。しかもテリースの言うのが正しいならお前には治癒魔法も使えてる」

 私の反応などお構いなしにそう言った黒猫君が一旦そこで大きな息を吐き出して、そして顔を上げて私を見つめた。

「じゃあ、あゆみ、お前なんで自分の首を治さないんだよ……」

 そう言って。私を見る黒猫君の眦に小さく涙が滲んでた。
 怒られると思ってた私は馬鹿だ。黒猫君、これ死ぬほど心配してくれてたんだ。
 途端胸が締め付けられるほど痛くなって私は息が詰まった。そんな私の首に黒猫君の手が伸びる。

「こんなに跡んなって鎮痛剤が切れたら痛むに決まってんだろ。何でもっと自分を大切にしねえんだよ」

 文句を言いながらも黒猫君が優しく優しく私の首を撫でる。それまで痛みのなかったその首筋に、ほんのりと黒猫君の痛みが沁みてくる気がした。

「それにな。お前まだ俺に軽い痛覚隔離を掛けてるだろ」

 私を見る黒猫君の目に微かに怒りが生まれ、黒猫君が私を睨む。

「匂わねえんだよ、お前。おかしいだろ」
「だ、だって」
「いいから止めろ。大丈夫だから」
「なんで、別に私が掛け続けても──」
「馬鹿」

 私の首を撫でていた黒猫君の手に頭を小突かれた。

「痛覚隔離は一人にしかかけらんねーだろ。自分に使えって言ってるんだよ」

 あ、ああ、そっか。確かに鎮痛剤が切れたらこれ痛み出すんだった。でも。

「俺の事は気にしなくていい。どうにもならなくなったらテリースに泣きつく」

 黒猫君がちょっと情けない顔でそう言うのを聞いて仕方なく頷いた。

「じゃあテリースさんが帰ってきたらね」
「今すぐって言っただろ」

 私の言葉を追いかけるように黒猫君が私を睨む。

「だって……」
「いいから早くしろ」

 苛立ちを滲ませながら私を睨む黒猫君の視線に突き刺され、私は仕方なく今度は自分の意志で黒猫君に掛けてた痛覚隔離を止めた。途端、黒猫君の尻尾がたちあがって顔を顰める。

「うあ、やっぱりかけようか?」
「いーんだよ俺は。いいから今度は自分に掛けとけ」

 イライラと尻尾を振りながら私を睨む黒猫君に言われるままに今度は自分に痛覚隔離をかけてみる。どうやら実は少し痛みがあったみたいで、さっきっから何となく重く感じてた首の辺りが一気に軽くなった。
 確かにこれ、今からかけてなかったら後で大変だったかも。
 私の顔色を読んだらしい黒猫君が少しほっとした顔で言葉を続けた。

「言いたい事はいっぱいあるけどな。お前、頼むからもっと自分の事を大切にしてくれ」
「?」

 黒猫君の意味するところが今一つ分からなくて首を傾げると黒猫君はお酒の瓶と自分のカップを持ったままズルズルとベッドの上を移動した。そのままベッドヘッドに寄りかかりながら私に手招きをする。
 私もコップのお酒をこぼさないように気をつけて移動して黒猫君と一緒にベッドヘッドに寄りかかると黒猫君が私の肩を抱きながら静かに続けた。

「今までも何度も思ってたけどな、お前人の事ばかり気にしてるけどその前に自分の事ちゃんと大切にしないようじゃ意味ねえからな」

 ため息交じりにそういう黒猫君を振り向こうとすると黒猫君が肩を抱いた腕で私の頭を固定する。あ、これ私に自分の顔を見せないために移動したのか。

「どうにも分からないって顔してるから順番に説明してやるよ。よく聞けよ」

 そう言って手の中のコップを煽った。

「あのな、今回は事情が事情だから俺も何も言えなかったけどな。お前、本当に無防備が過ぎるだろ。知らない奴が入れたお茶なんてなんで疑いもなく飲むんだよ。しかも出された酒まで飲んだんだってな。毒でも入ってたらお前どうするつもりだったんだ?」
「え、なんか毒が入ってたの!?」

 驚いて声を上げて黒猫君を振り向こうとする私の頭を黒猫君の腕がガッチリと押さえ込む。

「いやお茶に入ってたのは興奮剤だとよ。お前が激高しやすくしてたんだよアイツ」

 ああ、だからあんなに簡単に乗せられちゃったのか。でもちょっと待った。

「それって危なくないの?」
「……まあチョコレート以上の危険は無さそうだな」

 私の問いかけに黒猫君がフッとため息を付きながら答えてくれるけどなにそれ、チョコレートって。

「私チョコレート食べたくらいで興奮しないけど?」

 そう言った私に黒猫君が根気よく説明を続けてくれた。

「なああゆみ、お前日本にいた頃お茶とかコーヒーよく飲んでたか?」
「え? 何を突然」
「いいから答えろ」
「んー、普通に毎日飲んでたよ。コーヒーはお砂糖入れるからそんな量は飲んでないけどお茶は家出る前と学校と帰ってきてからよく飲んでたかな」
「チョコレートも食べてたろ」
「もちろん」

 そこで黒猫君がやっぱりなっと頭を掻く。

「俺達はあっちの世界で散々カフェインのキツイもん日常的に取ってたんだよ。だからチョコレート一つ食べたからって別に何ともなかった。ところがここに来てほぼ全くカフェイン抜きの生活になってたろ。テリースたちが入れてるあのお茶だってカフェインは殆どない上に薄まり過ぎて効果ない。そんな生活を数ヶ月も暮らしてりゃチョコレート一つ分で充分興奮剤の効果はあるんだよ」

 そ、そうなのか。

「元々チョコレートは媚薬としてもてはやされたくらいだ、娼館で使われていてもなんの不思議もない」
「え? 興奮剤って媚薬にもなるの?」
「まあ使い方次第ではな」

 チロリと横目に見ると黒猫君の顔がちょっと朱に染まってる。あ、黒猫君は使い方わかってるのか。

「ちょっと待ってじゃあ私媚薬を盛られてたの?」
「いや、お前の茶に混ぜてた程度ならそんなに効果はないそうだ」

 あれ? 黒猫君の顔が余計赤くなった。

「話を戻すけどなあゆみ」

 小さく咳払いをした黒猫君が顔を引き締めてこちらを睨んだ。

「あゆみ、お前なんか言う事はないのか?」

 黒猫君の声がほんの少しだけ震えてる気がする。

「例え興奮剤を飲まされたんだとしてもあんな簡単に客取るとか言いやがって」

 とうとう来たか。返す言葉もない。

「幾ら薬の効果とか生理のせいとかあったとしてもじゃあ結婚したのに我慢してる俺はなんなんだよ? お前どうやったら俺以外にそんな事許そうなんて考えられたんだ? っていうか本当にちょっとでも考えてたか? 当たり前だけど俺だってスゲー頭にきてんだからな」

 堰を切ったように黒猫君の口からこぼれ出た言葉はグッサリ私の胸に刺さった。
 謝りたい。黒猫君に許してもらえるように、黒猫君を傷つけちゃった自分の非を何とか許してもらえるように。ただ、私はどういっていいのか分からなくて、言葉を探して俯いた。
 私がまだ言葉を見つけられなくて考えあぐねてる間に黒猫君が勝手に先を続けてしまう。

「悪い、こんな事の為に話してんじゃねえんだった。そうじゃなくてな。俺の為とか俺が辛いとかじゃなくてお前、出来ねえんだろ。だったら何で最初に自分の身体の事考えねえんだよ」

 え、ちょっと待って、私謝りたかったのに黒猫君に話題を変えられちゃった!

「初めてじゃないとかそんなんじゃなくてお前には出来ねえ理由があるのは分かったつもりだけどな。なんで監査式とか乗せられたとかそんなくだらない理由で自分が嫌な事をしようとするんだ」

 ズグンっと。胸に刺さった。くだらない、んだよね。多分。監査式とか子供じゃないとかそんなのは。黒猫君の言おうとしてるのは監査とか怒りよりも私にもっと自分自身のことを大切にしろって、そういうことだとは思う。分かろうとは思うし黒猫君の心配は本当に申し訳なさすぎるレベルで感じてる。ただ言われてる意味は理解できても、こればっかりはそんな簡単に頭が切り替わらない。だって私自身は自分をないがしろにしてるつもりはないのだから。

「ついでに言うとな、それを見てる俺がどんなに辛いか分かるか? 裏切られるとかってのも辛いけどな、お前が自分を大切にしてくれねーのが一番つらいんだよ」

 黒猫君の言葉があまりにも真っすぐ私の心を揺さぶるから、私はまたも何も言えない。言葉が出てこない。
 すると黒猫君が私の頭を押さえつけた腕を緩めて私を見つめた。意地でも涙を流さないつもりらしく、真っ赤になった黒猫君の目がジッとこっちを見てる。

「お前が喋んないのは肯定してんだって分かるけどな、今回は待っててやるからお前が何であの時レネの言葉に乗っちまったのかよく考えてちゃんと説明してみろ」

 妥協も何もない、逃げる場所を一つも残さない方法で黒猫君が私を追い込んだ。真っすぐに見つめられて押し付けられた黒猫君のガチの問いかけに涙が勝手に滲んで来た。
 そして私は……情けない事にとうとうヒスを起こした。お酒の勢いもあると思う。

「しょ、しょうがないじゃん、私、知らない人と言い争いしたのなんて初めてだったんだから!」

 違う、謝りたい、ただ謝りたいのに言葉が勝手にあふれてきた。

「い、今まで人にあんなに頭にきたことなかったんだよ私。黒猫君の前であんな事言われて。黒猫君に勝手に触るし、凄くやだし」

 うわ、何私、凄く恥ずかしい事言ってる!

「仕事だって大切なことだから一生懸命やってるのに全然上手くいかないし、レネさんも私の説明馬鹿にするし」

 あれ、涙が勝手にあふれてきた。

「私だって、私だって今出来ることいっぱいっぱいでしてるのに。監査式だってちゃんと、ちゃんと必要な事だから、レネさんに分かってもらいたかったのに。説明だって黒猫君よりもっとちゃんと出来るし、計算だって、黒猫君じゃ出来ない事出来るし」
「ああそうだな」

 ボロボロに泣き始めた私を黒猫君が優しく抱きしめてくれる。

「でもあんな事するつもりじゃなかったの。あんな、の、出来ないから。黒猫君じゃなきゃ出来ないの」
「ああ、分かった」
「ごめんなさい。あんな事考えなしに引き受けちゃって。いっぱい心配かけて……」
「ああ」
「いつも黒猫君に頼っちゃって。どうしていいのか分からなくなる度に黒猫君に助けてもらってるんだって分かったの。黒猫君に、助けに来てほしかったの」
「遅くなって悪かった」
「黒猫君に、いて欲しくて、怖くて、苦しくて、悲しくて、辛くて」
「分かったからもういい」

 途中から自分でも何言ってるのか分からなくなっちゃった。喚くように責める様にだけど一生懸命言わなきゃいけない事、言いたい事を探したら、途中から探すまでもなく言葉がどんどん溢れてた。黒猫君はただただ私の頭を撫でながら私の言葉を聞いて相槌を打ってくれる。黒猫君は全然悪くないのに謝ってくれた。ただただ私を許してくれる黒猫君の腕の中で私は声を上げて泣いてしまった。

 それからしばらくしてやっと私が泣き止むと黒猫君が手ぬぐいを持ってきて顔を拭いてくれる。水魔法で濡らした手ぬぐいが腫れあがった目に冷たくて気持ちよかった。

「少し落ち着いたら今度は俺の話も少し聞いてくれ」

 そう言って、黒猫君がまたも私の肩を抱き寄せながらボツリと話し始めた。

「俺はお前が辛そうなのは嫌だ。お前が苦しそうなのも嫌だ。お前が他の奴に奪われるなんて考えたくねえ。そんな俺はな、お前がまず自分を大切にする事を覚えてくれねえと苦しすぎるんだよ」

 黒猫君は私に諭すようにゆっくりと話す。

「今の見てたら分かるよ。お前本当に色々経験足りないのな。だから頼むからもう少し俺に頼ってくれ」

 黒猫君はまるっきり怒ってない。ただ本当に苦しそうに私を時々見ながらそう続けた。

「ついでにな、お前魅力的すぎるからもう少し周りに愛想振りまくのも止めてくれ」
「まって、それはないでしょ」
「……お前、レネに襲われてただろ」
「え、だってあれは結局お芝居だったんでしょ?」
「馬鹿。あの状態のお前を見て襲いたくならない奴なんているかよ」
「え?」

 黒猫君が今度は赤くなりながら私を見る。

「どうせお前の事だから無意識にあいつ刺激するような可愛い事でも言っちまったんだろ。あの格好でそんな事されたらまず誰だって押し倒す」
「それは黒猫君の勘違いだよ、だってレネさん女性だよ」
「あいつは両方いけるの。お前危機感がほんとになさすぎ」

 そう言ってる黒猫君の目が、あれ、なんか妖しい。

「今も俺と一緒にベッドにいるのにこのまま何もされねーと思ってんのか?」
「え、だって黒猫君……」
「俺だってずっと我慢してんだよ。少しは理解しろ」

 ちょっと苦しそうにそう言って。
 黒猫君がほんのりと金色に光る瞳で真っすぐ私を見つながら、静かに優しく私をベッドに押し倒した。

 私と黒猫君はそれからしばらく二人っきりの時間を過ごした。
 もっといっぱい話もしたし、人様には言えないような事もあれこれしました。
 うん、言えない。言えないから言わない。
 言わないけどもうちょっとだけ黒猫君と今まで以上に仲良くなれた。

 そして数時間後。
 同じベットの上で一緒に夕食を食べてる最中、黒猫君がとんでもないニュースをぶちまけた。

「そう言えばレネがお前に盛った興奮剤な。こっちではカフの粉って言われてるらしい。要はカフェインを含む薬なんだと思う。テリースから聞き出した精製方法とそれが南国から来たって話を合わせるともしかしたらコーヒーかカカオの実が取れてるのかもしれねえ」
「ええ!? そ、それって、もしかして……」
「いつかチョコレート食えるかもな」

 その日黒猫君とそのままベッドで夕食を取った私は最後の嬉しいニュースのおかげで少しだけ明るい気持ちで眠りにつくことができた。
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