天国か地獄

田原摩耶

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√α:ep.5 『最後まで一緒に』

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 阿佐美と付き合う。それが何を意味しているのか理解していた。
 していた、つもりだった。
 阿佐美が用意していたナイフで手首を拘束していた縄を切ってもらえば、久方ぶりに自由を手に入れることが出来た。ずっとタイルの上にいたせいか体温は下がっていたため、阿佐美の手が酷く熱く感じたのだけは覚えている。

「服……今これしかないんだけどいい?後でちゃんとしたの用意するから少しの間だけ我慢してほしいんだけど」

 ばつが悪そうに差し出された服一式に、俺は自分の格好を思い出す。
 服を着ることすら許されていなかった今、見窄らしい自分の格好に顔から火が噴きそうだったがそれは阿佐美も同じのようで。

「ありがとう……助かったよ」

 ずっと縛られていた体は上手く動かなかったが、なんとか服を着替えることは出来た。
 浴室を出、阿佐美に支えられるように出たそこはマンションの一室のようだった。
 長い廊下を歩いていけば、広いリビングに繋がる。
 閉め切られたカーテン。
 ソファーとテーブルだけが置かれたそこはまるで生活感がなく、俺は先ほどの阿佐美の言葉を思い出す。
 阿賀松の遊び場、というよりは寝泊まりするだけの部屋にも思えた。

「ゆうき君、ここに座って」

 不意に、阿佐美に呼び止められる。
 少しだけ強張ったような声にどうしたのだろうかと思いながらも、腰を下ろせば部屋の奥から何かを持ってきた阿佐美はそれをテーブルの上に乗せた。
 そして、視線を合わせるように俺の目の前に屈んだ。

「詩織?それ……」
「手当、遅くなったからね……消毒だけでもさせてもらっていいかな」

 そっと頬に掛かった髪を払われ、小さな痛みが走り全身が緊張する。
 顔を顰める俺に、阿佐美は悲痛な表情を浮かべた。

「ごめんね、遅くなって」

 さっきから、阿佐美はずっと謝ってばっかりだ。
 申し訳なさそうに、まるで自分が痛め付けられたかのような顔をして謝るのだ。こっちまで萎縮してしまう。

「そんな、来てくれただけでも助かったよ。……けど、どうしてここが?」
「なかなか居場所が掴めなかったから伊織を見張ってたんだ。そしたらさっき、動きがあったから……」

 さっき、食事を届けに来てくれていた阿賀松のことを思い出す。
 どれくらい時間が経っているか分からないが、それでもそんなには経っていないはずだ。
「痛かったら言ってね」と、消毒液を浸した脱脂綿でゆっくりと傷口付近に拭う阿佐美に俺は歯を噛み締める。
 変な顔になってるだろうが、そうでもしないと声を上げてしまいそうだったのだ。

「っ、で、でも……それじゃあ、先輩は詩織がここにいること……」
「知らないと思うよ。言ってないからね」
「え……っ」
「でもまあ、すぐに気付くと思うよ。あいつは浴室にカメラを仕掛けて自分の部屋から君を監視してたんだから」

「そして、ゆうき君が俺に連れ出されたのを見てここへ戻ってくる。学園からここまでの時間は結構あるから多分、後十分くらいは大丈夫だよ」なんでもないように言う阿佐美に鼓動が加速する。
 阿賀松が戻ってくる。
 どちらにせよ、逃げられない相手とは分かっているけど、それでもその事実を鮮明に突きつけられると身構えずには居られない。
 緊張する俺に、阿佐美はハッとした。

「あ、ご……ごめんね、余計不安にさせたかな……」
「いや、大丈夫……そうだよね、逃げられるはずがないんだ……」
「……」

 俺も、覚悟を決めないといけない。
 今度は一人ではない、阿佐美がいるんだ。
 そう思うけど、正直、全面的に阿佐美を信用していいのか未だ決め兼ねている自分がいた。
 それは恐らく、『阿佐美を信用するな』という志摩の言葉もあるからだろう。
 そんな俺を悟ったのか、困ったように俯いていた阿佐美だったが不意に、手を握られる。
 驚いて顔を上げれば、目が合った。

「俺のこと信じてっていうには頼りないかもしれないけど……約束はちゃんと守るよ、だから、そんな顔しないで」

 自分の兄弟を裏切る阿佐美の方がよっぽど辛いはずなのに、そんな阿佐美に気を遣わせるなんて。
 けれど、そんな阿佐美の言葉だからだろうか。
 不思議と緊張が解けるのが分かった。

「……ありがとう、詩織」

 そう、その手を握り返そうとした時だった。
 乱暴に扉が開かれる音が聞こえてきた。

「時間切れ、みたいだね」

 阿佐美は笑い、立ち上がる。
 と同時に、段々近付いてくる大きな足音、それが止んだと思った瞬間吹き飛ぶ勢いでリビングの扉が開かれた。

「詩織ちゃん、お前、いつからお兄ちゃんに逆らうようになったんだ?」

 案の定、そこには阿賀松がいた。
 俺を庇うように立つ阿佐美からはいつの間にか表情が抜け落ちていた。

「悪いけどそれはこっちのセリフだよ、言ったよね、これ以上ゆうき君に手を出すのは許さないって」

 静まり返った室内。
 向かい合うように並ぶ二人に俺は息をすることすら躊躇われた。
 見れば見るほどその横顔は瓜二つで。
 息苦しさに堪えられず、座り直した時、阿賀松の眼が俺の方に向けられた。

「テメェが詩織ちゃんを誑かしたのか」

 底冷えするような冷たい声に背筋が凍り付く。
 刺すような鋭い視線にその場から動けなくなる。
 そんな俺との間に立ち入った阿佐美は「伊織ッ」と阿賀松の肩を掴んだ。

「お前もお前だよ、詩織。……きったねえブタを手懐けて王子様気取りか?随分と安い野郎になったな」
「そんなブタに執心してるのはどこのどいつだよ、お前もいい加減ゆうき君に八つ当たりをするのを止めろ。こんなことしてる自体が時間の無駄だってどうして分からないんだよ」
「八つ当たりだって?……よくそんなこと言えるよな、こいつが何したかお前が一番知ってんだろうが」
「……ッ」

 次第に熱を増す言い争い。けれど、阿賀松の言葉の意味が分からなかった。
 阿佐美がよく知っている?
 ……何を?

「あと少しであいつを辞めさせることが出来たんだ……それなのに、こいつは……ッ」

 今にも掴み掛かってきそうな気配すらある阿賀松に、俺は何も言えなくなる。
 阿賀松が会長の書類のことを言っているのは明白だった。
 そうか、阿賀松たちからしたら俺が芳川会長に書類を受け渡したということになっているのだった。
 ばつが悪くなって、俯いたとき大きな舌打ちが響いた。

「おい、てめぇだよユウキ君、庇われてばっかりで何か言う事あんじゃねえのかよ!なぁ!」
「伊織、やめろって言ってるだろ」
「てめえも庇ってんじゃねえよ!詩織!なんだよ、お前も俺が悪いって言うのかよ、あいつみてえに……ッ!」

 阿賀松の手が阿佐美の胸倉に伸びる。
 矛先を阿佐美に向ける阿賀松に、冷や汗が滲む。
 ヒステリックなその声に、初めて見る阿賀松に、どうしたらいいのか分からなくて、それでも、責められる阿佐美を見ているといても立ってもいられなかった。

「……止めて下さい……ッ」

 咄嗟に体が動いていた。阿佐美から引き剥がすよう、阿賀松の腕を引っ張った時、阿賀松の目が俺を見下ろす。
 瞬間、その目の色が確かに変わった。

「なぁにが……止めて下さいだぁ……?」
「ゆうき君、早く離れて……っ」
「元はと言えばテメェのせいだろうが!」

 殴られる、と目を瞑ったと同時に鈍い音が響く。
 けれど、痛みは、全然なくて。

「……ッ、本当、力だけは強くなったね……伊織」

 目の前、阿賀松の拳を掌で受け止めた阿佐美は顔を引き攣らせた。

「……お前……」

 阿佐美が俺を庇ったことに、阿賀松も驚いたようだ。それも束の間、次の瞬間にはその目は怒りが宿る。
 阿賀松に何度も殴られているから阿賀松の拳がどれ程重いのか分かっていた。痛くないはずがない。
 それでも、大丈夫か、と声を掛けることを躊躇わされる程空気は張り詰めていたのだ。

「お前……俺に歯向かうつもりか?」
「そういう話じゃない。……俺は、ただゆうき君を開放してと言っているんだ」
「嫌だ」
「伊織……ッ」
「お前、利用されてんだよ、そいつに」

 鋭い眼差しが、こちらを捉える。
 それは一瞬のことで、俺がたじろいだ時、阿賀松の目は再度目の前の阿佐美に向けられた。

「昔っからそうだよなぁ、それだから言い様に利用されて、都合が悪くなったら切り捨てられて……お前はまた同じ目に遭いたいのか?」

 事実、阿佐美を利用しようとしている俺からしてみれば返す言葉すらなかった。
 阿佐美は自分を利用していいと言った。
 それでも、俺がしていることは阿賀松や芳川会長と同じであること間違いない。
 押し黙る俺の前、阿佐美は「俺は」と口を開く。

「俺は、ゆうき君が好きなんだ」

 そして、阿佐美の口から出てきたのは告白同然の言葉だった。

「……は?」
「過去も今も関係ない、これ以上、彼が君に傷付けられるのを見るのは……耐えられない」

『彼』と阿佐美が口にした時、確かに目が合った。
 恥ずかしげもなく告げる阿佐美に、阿賀松の目が丸くなる。

「……お前マジで言ってんのか?」
「本気だよ」
「……」

 嘘を吐いている気配を感じさせないその演技に、俺まで騙されそうになってしまう。

「そんなに、俺よりもそいつが大事なのかよ」

 顎で指されて、緊張が高まる。無言で頷く阿佐美に、阿賀松の口元が歪んだ。
 背筋の凍るような笑みが、そこに浮かぶ。

「お前、嘘吐いてるだろ?」
「……言い掛かりはやめてくれないかな」

 ハッタリか、最初から何も信じていないのか、分からない。けど、なんとなく阿賀松がそういうのは分かっていた。
 阿賀松が俺のことを信用するはずがないから、余計。
 だけど、

「なら、キスしてみろよ」

 そんな言葉が阿賀松の口から出るのは、正直予想していなかった。だから、余計俺と阿佐美は狼狽える。

「な……ッ」
「出来るだろ?好きならさぁ」

 にやにやと笑う阿賀松。キスをしたくらいで信じるわけがないくせに、だからこそ余計誂われているのが悔しくて、顔が熱くなる。対する阿佐美は不快感を顕にした。

「馬鹿馬鹿しい……っ」
「なら、嘘か。どうせそいつに強請られたんだろ。協力してくれって」

「無理だよなぁ、好きでもなんでもねえ野郎とキスなんて」そう態とらしく肩を竦める阿賀松は俺を見て笑う。
 ほれ見ろ、とでもいうかのような挑発的な視線。

「……ッ」

 このままでは、阿佐美の作戦が無駄になってしまう。
 けど、阿佐美だって俺とキスするのは嫌だろう。
 それでも、もし俺のことを考えて躊躇っているのであれば。

「……詩織……」

 そっと、阿佐美の腕を掴んだ。
 俺はいいから、そう、阿佐美にアイコンタクトを送れば、先程よりも濃くなる困惑の色。

「ゆ、ゆうき……君……」

 気まずそうな、申し訳なさそうな顔。
 眉尻を下げた阿佐美は何かを言いかけ、そしてグッと口元を引き締める。
 ごめんね、そう阿佐美の目が言ったような気がした。

「……ッ」

 肩に置かれる手、掴む指先から阿佐美の緊張が伝わってきてこっちまで緊張してしまう。
 阿佐美とキスをするのは初めてではない、けれど、こんな形になってしまったからか余計自然なキスを意識することが出来なくて。
 ギュッと固く目を瞑った時、唇に何かが掠めた。それは、触れるか触れないかくらいのキスで。
 つられて目を開ければ、すぐ鼻先には阿佐美の顔があった。

「ごめ……」
「ハァ?なんだそれ。ガキかよ」

 ごめん、と阿佐美が口にするのとそれはほぼ同時だった。

「まさかそれで終わりなんて言わねえよな」
「何を言って……キスはキスだろ」
「言わねーよ。触れただけだろ」

「んなの、俺だって出来るぞ」そう、舌を出す阿賀松に阿佐美は不快そうに眉間を寄せた。

「ベロぐらい入れろよ、ヘタレか?」

 止まらない阿賀松の雑言に深くなる眉間のシワ。
 この流れは、まずい。そう思った矢先。

「……いい加減に……ッ」

 阿佐美の方が耐えられなくなったようだ、気付いたときには考えるより先に阿佐美の腕を引っ張っていた。
 ぴたりと動きを止めた阿佐美は俺を見下ろす。

「し、詩織……っ」

 ここは、大人しく言う事を聞こう。そう、視線を送れば阿佐美は益々困ったような顔をした。

「ゆうき君……」

 正直、俺としては舌を入れるだけで認めてくれるなら安いものだった。
 それでもやっぱりそれは俺の都合で、阿佐美の気持ちを考えると居た堪れなくなるがそれでも、手段を選んでる余裕は無い。

「……ッ、ごめん」

 呻くように謝罪を口にした阿佐美は再度、俺に向き直る。
 にやにやと笑う阿賀松の顔が視界の隅にちらつき、耳元が酷く熱かったがそれは阿賀松だけのせいではない。
 ガチガチに緊張した阿佐美に、こっちまで構えてしまうのだ。肩に置かれた手。覚悟を決め、ゆっくりと唇を開けば阿佐美の顔が更に引き攣った。

「詩織……」

 やるならひと思いにやってくれ、と念じた時。
 近付いた阿佐美の唇が触れる。
 柔らかい、なんてありきたりな感想すら出てこない、先程よりも長い間触れるその感触に鼓動が一気に加速する。

「っ、ぅ」

 早く、と目を閉じた時、ちろりと唇を舐められる。
 その擽ったさに身じろげば、今度は唇の隙間を滑り込み、咥内へと侵入してくる舌に全身が硬直した。

「ん……ッ、ふ、ぅ」

 阿佐美の舌が、と、思うとゾクリと背筋が震える。
 阿佐美の舌ピアスが粘膜を掠める度に息が漏れてしまう。
 荒々しくない、割れ物に触れるような優しく絡みつくようなキスに徐々に酸素を奪われる。
 口の中を丁寧に愛撫されてるみたいで余計恥ずかしくて、阿佐美の顔を見ることが出来なかった。

「っ、んッ、ぅ、うぅ……っ」

 込み上げてくる熱に、のぼせ上がりそうになる。
 不謹慎だと分かってても、一抹の心地よさを覚えずにはいられなかった。
 舌ごと舐られれば舐られるほど脊髄が蕩けそうになり、全身から力が抜け落ちそうになる。
 体力が落ちていたからか、指先を動かすことすら儘ならなくて、形、阿佐美にしがみつくようになってしまった時、小さく濡れた音を立て、阿佐美の舌が引き抜かれる。
 じんじんと痺れ、疼く咥内。いきなり引き抜かれた舌が名残惜しく、つい、阿佐美の顔を見詰めてしまう。

「ゆ、ゆうき君……?」

 困惑したような阿佐美の声に、自分の置かれた状況を思い出す。
 そうだ、発情している場合ではなかった。

「……っあ……ご、ごめ……」

 残念に思っている自分を叱咤し、咄嗟に阿佐美の腕から離れようとした時だった。

「あれ、詩織ちゃんなんで勃起してんの?」

 いつの間にかに至近距離で傍観していた阿賀松の一言に、俺と阿佐美は固まった。

「ユウキ君とのキスで興奮したのかよ、お前」
「っ、違、これは」

 そんなことを言われてしまえば無視することが出来なくて、つい、一瞥した俺は必死に隠そうとしてる阿佐美の下腹部のそれを目撃し、慌てて目を逸らした。
 阿佐美も気持ち良かったのだろうか、なんて、咄嗟に現実逃避を試みるが逃避出来ていない。

「まぁ、丁度良いかァ」

 真っ赤になる俺達を他所に、阿賀松は喉を鳴らして笑う。
 そして、

「ユウキ君、しゃぶってやれよ」

 今度こそ俺は言葉を失った。
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