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第三十一話 ウィルソン侯爵との取引

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 しばらく待っていると、執事が戻って来た。
 彼は私に向かって軽く頭を下げると、侯爵からの返事を口にする。

「ぜひ面会したいと。旦那様と奥様がお待ちでございます」

「そうですか。では案内をお願いしますね」

 もちろんウィルソン侯爵の執務室がどこにあるかは覚えているが、よそ者が勝手に行くわけにもいかない。
 私は執事に案内され、執務室へと向かった。


◆◇◆◇◆◇◆◇◆


 最後の記憶である十年前からたっぷり歳を取ってしまったウィルソン侯爵は、四十代とは思えないほど顔が皺くちゃで髪が白かった。この十年間でどれほどの疲労を溜めていたかが伺える。その上、戦争なんてことが起こってしまったから心労は大きいのだろう。
 それでも侯爵としての威厳を損なっていないのは、さすが名門貴族と言えた。

 その隣にいる侯爵夫人はまだ若々しい。
 アルトと同じ金髪に翡翠色の瞳だが、キツイ顔のせいであまり息子には似ていない。いかにもな貴婦人の彼女は私の記憶の中の彼女とほぼ変わっていないように思える。
 ただ違うのは、気まずげな顔をしているところか。

「お久しぶりでございます。突然の訪問、誠に失礼いたしました。お忙しい中こうして執務室へお招きいただき感謝します。
 改めまして私はエメリィ・アロッタでございます。本日はウィルソン侯爵様と夫人にお話ししたいことがあり、やって参りましたの」

 夫人は無言で視線を逸らし、侯爵が深くため息を吐く。
 あまり歓迎されている様子ではなかった。まあ、当然か。社交界で有名な悪女が来て喜ぶような人間はいないだろう。しかも私と彼らは初対面ではないわけだし。
 ほんの少し悲しくなった本音は、淑女の笑みの中に隠し込んだ。

「私と話、ですか。かつてアロッタ未亡人――いや、エメリィ嬢を裏切った私どもに復讐をしに来たのですかな?」

 どうやらこの侯爵様、裏切った自覚はあるらしい。
 彼は、ジルたちに虐げられる私の状況をアルトから知らされていながら何も動かなかった。信じなかった。フォンスト伯爵家と真っ向から対峙し、家督乗っ取りを指摘すれば良かった話なのに、見て見ぬふりをしたのだ。
 私を娘のように可愛がっていたくせに、薄情な話だ。確かに恨んでいないと言えば嘘になる。でも――。

「復讐などはいたしません。侯爵様としても当時はお立場があったでしょうし、ね。
 それで過去のことを水に流す代わりとし、頼みたいことがあるのです」

「何です。うちの私兵団を寄越せとでも? それはできかますな」

「そんなつまらないことではありません。私の望みはたった一つです。――ウィルソン侯爵令息との婚約の許可を」

 夫人の目が見開かれ、息を呑む音が聞こえた。
 ウィルソン侯爵は黙ってはいるものの、アルトを会わせた時点で察しはついていたのだろう。深く深く、ため息を吐いていた。

「エメリィ嬢。貴女は夫を亡くされたばかりでしょう。なのにうちの息子を欲しいとおっしゃるのか」

「直ちに、という話ではありません。きちんと彼を口説き落としてからのつもりですから。ただ、その時にあなた方に反対されては困るでしょう? だから今のうちに、話をつけておこうと思いまして。
 こんな悪女がお嫁に来るのはやはりお嫌ですか、ウィルソン侯爵ご夫妻?」

 私がこてんと首を傾げると、しばらく沈黙が落ちた。
 しかしそれはすぐに、ウィルソン夫人の声で破られたのだけれど。

「……エメリィ。本当に貴女は、エメリィなのね」

「はい。もちろん私はエメリィですよ。本物の」

「ごめんなさい。貴女に謝りたいと思っていたの……。貴女との婚約を解消させてから、ずっと。
 きちんとあの子の、アルトの言い分を聞いておけば良かった。貴女のことを疑って、勝手なことをして。
 アルトを悲しませた。それに何より貴女を不幸にしてしまったことを、何年も悔やんでいて。
 今更、謝罪をしたところで遅いとは思うけれど、あたくしは、貴女がたの結婚に反対は、しません。それが息子と貴女の幸せであるなら……」

 途切れ途切れながらそう語った夫人は、堰を切ったように泣き始めてしまった。
 本当にどこまでも身勝手な話だと思う。一番苦しかったのは私なのに。そんな風に言うなら、もっと早くに助けてくれれば良かったのに。泣きたいのはこちらなのに。
 でも私は、許すことにした。アルトと結婚さえできればそれでいいのだから。

「ありがとうございます。では次は、侯爵様のご意見が聞きたいですね」

「息子には、当主を継がせようと思っています。婚姻を結べばアロッタ公爵家の籍からは抜け、権力が落ちてしまいますが、それでも貴女は構わないのでしょうな」

「確かに不便ではあるでしょうね。でもそれでこそ、彼と一緒に侯爵家を盛り立てていく甲斐があるというもの。アロッタ公爵家の方はすでに養女のジェシーに任せてありますので問題ありません」

「エメリィ嬢は、自信家らしい。私に断られるということは考えていらっしゃらないのですか?」

「全然」私はニヤリと笑う。「だって私、悪女なんですもの」

 返されるのはため息か苦笑と予想していたのだが、意外にも侯爵は私に対抗するかのように笑みを浮かべた。
 そして、言う。

「それなら、そんな貴女に愚息との婚約を認めるべく取引の条件を一つ提示させていただいても?」

「あら、私が過去のことを水に流すというだけは足りないのですね。ええどうぞ、条件にもよりますけれど」

「お言葉に甘えて。
 フロー公爵令嬢の闇を暴き、開戦させたのは貴女でしょう、エメリィ・アロッタ。
 その責任を取り、どうか貴女自身でこの戦争を収めてほしい。それができたならば、息子をやりましょう」

(……見抜かれていましたか)

 私は少し驚きつつも、動揺を見せずに静かに頷いた。
 ああ、面白い。それくらいやってこそこの恋は盛り上がるかも知れない。
 稀代の悪女が戦争を終わらせた英雄になる。悪くない筋書きだ。乗ってやるとしよう――。

「その程度のことならお受けしましょう。では、契約書を」
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