高嶺の野薔薇

紫乃

文字の大きさ
上 下
1 / 1

しおりを挟む






   "…のばらちゃん…。素敵な名前ね。"
"かわいい名前ねぇ"  
そう言われてほんの小さな頃は素直に嬉しかった。
幼稚園の先生にも、友人達の母親達にも口々に褒められるのがこそばゆいような誇らしいような。
自分の名前を呼ばれるのが大好きだった。



そんな自分の大事にしていた筈の名前とそれに自惚れていた自分のことが大嫌いになった時。

"あいつ"のことも大嫌いになった。




ーーーーーー


昼食時間前の講義が終わる。
ぼっちの自分にとっては最も苦手な時間。
皆友達同士で思い思いに食堂で食べようとか、最近できたインスタ映えするランチメニューの店だとか楽しそうな声が聞こえてくるのを聞こえないふりし、そそくさと室内から出る。

ぞろぞろと歩く人々に巻き込まれないうちに1番のりで教室を出て入り口近くのホールに来られたことにほっと息をついたその時。







「のばら!」大学の広い廊下に響く声がした。
さほど大きくも無かった筈のその声にざわざわとしていたホールが急に静かになる。
昼食時でごった返すホールの人混みが割れ、その男と自分の間を皆興味深げに視線が行ったり来たりしているのが分かる。



「よかった。のばらが見つかって!今日はどこでお昼にしようか。食堂もいいけど、どこかで買って部室ででも食べる?」
朗らかに微笑み、そう続けた男に苛立ちが湧く。
行儀悪くも舌打ちをしたいようなそんな気分だ。
私が恐れていたことになってしまった。




「田中くん。私のことは名前で呼ばないでって何度も言ってるでしょ?それにお昼は一人で食べるから」



そう告げると、聞き耳を立てていたのだろう周囲からは態度が悪いだとか、陰キャの癖にとか様々な悪態がひそひそともれ聞こえてくる。
だからこいつと関わるのは嫌なのだ。



「でものばらはのばらでしょ?それにもうずっと前からのばらって呼んでるから癖になっちゃってて。それに俺のことも田中くんじゃなくて光一て呼んでっていつも言ってるよね?
のばらは俺の言うことを聞いてくれないのに一方的に聞けっていうのも狡いよね。だから無理。」

とにこやかに続けた奴はみんなの言う優しくて完璧な王子様ではなく腹黒い悪魔だ。こいつを光一なんて名前で呼ぼうものなら嫉妬に狂った女子に何をされるか分かったものではない。あぁ、こいつの腹黒さを理解しているものはきっと私だけなのだろう。

聞こえなかったということで無視するか、穏やかに対応して穏便に断ったなら皆納得するのだと分かってはいる。分かってはいるが、幼児の頃からの付き合いの奴はのばらのばらと繰り返し、ナチュラルに私の怒りの琴線に触れるのだ。




「だから!!のばらって呼ばないでって言ってるでしょ!!」


あぁ、またやってしまった。
子供の頃からこれの繰り返し。奴に名前を呼ばれて癇癪を起こし周囲にドン引きされる。毎年春になると恒例の行事のようなものになってしまった。
我が家は歴史だけはある古い家で小金持ちであったから幼稚舎から大学まで構える私立の名門校に通っていた。名門校に通うお利口さんな子ども達の中で名前を呼ばれただけ、それも成績優秀で周囲からの覚えもめでたい奴に対し髪を振り乱して怒り狂う私はひたすらに浮いた。
友だちなんてものはずっといなかったが、それも高校までの我慢と耐えた。
大学からは外部の大学に通い、奴とは離れ普通の女子大生として青春を謳歌したい。期待に満ちて臨んだ入学式。響くはずのない奴の声に振り向くと、桜舞う中微笑みながら手を振る奴がいた。



ただの大学のホールをまるでどこぞの舞台の一場面のようにしてしまう煌びやかな男。
田中光一という自分とは逆に名前が釣り合わない。
クォーターだという彼は美人の母親譲りの蜂蜜色の髪と瞳に、日本人離れした長い手足と恵まれた体躯。
そして名家の御曹司でありながら気さくで誰からも好まれる性格。
そんな奴を取り囲むのは学生ながらに企業した秀才だとか、モデルとして活躍する美女たちだとか何か秀でたところを持つものばかり。

そんな彼が側に置き、唯一自ら構う平凡な人間。
そして彼に噛みつく身の程知らずな高嶺のばら。
そう噂されるそれこそが私の名前だ。
黒々として地味な髪は真っ直ぐ重く、悪い意味で日本人形のよう。
平凡な顔立ちと相まって高嶺の花ならぬ雑草もいいところな完全なる名前負けだ。

子どものころは良かった。名前の意味なんて考えもしないし、可愛い名前ねという言葉の裏に秘められた名前負けな子ね。可哀想にという大人の思いなんて気付かない。
だから今のように卑屈ではなかったし割と活発で気の強い女の子だった。
長女ということもあったし、記憶の始まるころにはもう側にいた光一は今のように太々しくはなくキラキラの金の髪と瞳の天使そのものだったから"ガイジン"と光一を揶揄う他の子どもから守ることが使命とばかりにお姉さんぶって光一を弟のように構っていた。




ーーーーーー


私の逆鱗とも言える自分の名前。それが嫌いになったのは小学生の頃だった。

国語の授業で習った「高嶺の花」の意味。欲しいと思っても手の届かない美しい花。自分の名前はそんな美しい花のようになって欲しいと名づけられたと母から聞いていた自分は授業で取り上げられたことが自分のことのように嬉しかった。

"でも、のばらさんは高嶺の花っていうかね~"
"どちらかといえば雑草だよね"と
"あ!知ってる!これって名前負けって言うんだよね"くすくす笑うクラスメイト達。先生に聞こえないようにと囁くようなクラスメイトのひそひそ声はのばらにとっては大きく響く。
誰も否定しないことこそ事実なのだと、気づいてしまった。自分に相応しいと、自慢に思っていた名前は名前負けのみっともないものなのだと。
自尊心も何もかもぽっきりと折れてしまった。
涙が溢れ瞳から溢れそうになったが、もしここで泣いて仕舞えば認めたようで。悔しさと恥ずかしさを唇を噛んで必死に堪えていると

"野バラってね。雑草とも言われるけど小さくて可愛い花が沢山咲くんだよ。どんなところでも咲く強くて綺麗な花でのばらちゃんにそっくりなんだ"
まだ幼い澄んだ鈴のような声は教室に響くと、さっきまで口々にのばらへの悪態をついていた女の子達は口を黙み、罰が悪そうに小さくなっている。


嬉しかった。けど、ずっと弟のように自分が庇護してきた光一に庇われたことが憐れみを受けたようで何よりも恥ずかしかった。

それからは名前を呼ばれるのが恥ずかしくて嫌いになった。
だから名前を呼ばれることを拒否するようにした。普通の子は一度やんわり苗字で呼んでとお願いすると次からはそうしてくれる。
しかし、光一はどんなに諫めてものばらの名前を呼ぶことは辞めなかったし、のばらちゃんと呼んでいた名前もいつしかのばらと呼び捨てするようになり、嫌がれば嫌がるほどしつこく呼び続けた。
のばらが構われる程に周囲からは孤立していく。いつしかのばらは光一のことが苦手になっていた。






ーーーーーー



ホールで光一にキレてしまった後、あれよあれよという間に流されて光一と共に近隣のサンドイッチの有名なお店でランチをテイクアウトしてサークルの部室で昼食を食べた。
ここ文芸部は最初私が入った時は各々の好きな本を持ち寄り細々と楽しむという地味ながらに心落ち着く空間だった。
しかし、光一が勝手に入会後はその取り巻き達も皆入部してしまい煌びやかな人々に恐れ慄いた部員達は気がつくと一人また一人と居なくなっていた。
自分もそっと居なくなりたいが光一に捕まると強制的に参加させられる。
まるで花壇に紛れ込んでしまった雑草か、血統書付きの猫たちの中に間違って雑種のノラ猫が迷い込んでしまったような身の置き所の無さを味わいながら、一切をもって理解のできない煌びやかな世界の住人達の会話に機械的に相槌をうち、黙々と食べる作業に集中する。




結局はいつもいいなりになってしまうのだ。
でも、こんな流されたままではいけないと思う。
光一から離れたら普通にやっていけるのだと希望を込めて進学した大学だったが、結局は環境は変わらない。周りの女子達からは身を引けと、側にいるには釣り合っていないのだと光一のいないところで釘を刺され、光一が側にいると自分には友人なんてできない。
のばらは強くなんてない。ちょっと馬鹿にされたら心は折れるし、友だち1人作れない。
光一が構ってくれなければ、自分は本当に1人ぼっちなのだと思うと強く拒否もできない。
それに、嫌いだとどんなに思っても誰よりもかっこ良くていつも側にいてくれる光一のことを心の底では嫌いにはなれなかった。


嫌いにはなれないからこそ、いつか光一が唯一の女性を見つけてしまったら?自分はどうなってしまうのだろう。泣いて縋り付いて側において欲しいと頼むのだろうか。
今はまだ子どもの頃からの習慣か、姉に構う弟のように側にいて構ってくれるが、自分はもう大学生になってしまった。
あと、1年もすれば成人し大学を卒業したら跡取り息子の光一は多忙になるだろう。その時自分にはきっと見向きもしてくれない。


そんなのは嫌だ。歳をとってもずっと幼馴染として側にいたい。だからこそ距離を取らなくては。
精神的に疲れ切ったこと、無理やり詰め込んだ昼食ではあったがお腹が満たされたからか。ちっとも理解も共感もできない話声は子守歌のようにも感じる。
のばらはつい部室のソファでうたた寝してしまった。




そこで見たのは、光一とモデルをしているだかの美人なお嫁さんが幸せそうに笑っている姿。
家族ぐるみで付き合いを続けて"いつか子ども達が仲良くなって結婚したらいいわね"なんて微笑みながら美人で光一とお似合いな奥さんと話すのだ。




そんな吐き気のするような甘くて優しい悪夢を見た。
































しおりを挟む

この作品の感想を投稿する

1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

【完結】「めでたし めでたし」から始まる物語

恋愛 / 完結 24h.ポイント:646pt お気に入り:3,034

運命の番を見つけることがわかっている婚約者に尽くした結果

恋愛 / 完結 24h.ポイント:22,409pt お気に入り:270

虐げられていた貧乏元令嬢は月の王子に娶られる

恋愛 / 完結 24h.ポイント:149pt お気に入り:23

伯爵令嬢は執事に狙われている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:2,882pt お気に入り:458

それさえも愛の楔

恋愛 / 完結 24h.ポイント:7pt お気に入り:45

わたくしは悪役令嬢ですので、どうぞお気になさらずに

恋愛 / 完結 24h.ポイント:1,270pt お気に入り:95

子供を産めない妻はいらないようです

恋愛 / 完結 24h.ポイント:11,210pt お気に入り:276

処理中です...