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第3章 シスター・セシリアの語り~葛城少佐・セシリアの妹の回想
少年時代・合否~葛城少佐視点3
しおりを挟む初冬の朝の吐く息は白く、俺はというと白狐稲荷神社の庭で、問題集をめくりながら格闘していた。永田が東京に移ってから一年余り、陸軍士官学校の入試はもうすぐそこまで迫っていた。
『甲と乙が兎を狩る。甲と乙の兎を狩る効率を表す労力比は2:3とし、一日に二人合わせて五匹を狩るものとする。両者が五日間働いたとき、労力に比例して兎を分配せよ』
「坊ちゃん、遅いでやんすよ。考えればわかるかもしれやせんが、永田の言ったように、簡単な問題は速く、大量に解かないと合格しやせんぜ」
「うるさい、わかってるわ!」
必死に問題を解く俺に対し、お銀はいつもはっぱをかける。でも残念ながら、お銀の言っていることはいつも正論だから性質が悪い。
「ええと、数学ってのは、こう――獲物を数える技か?」
障子の陰から白い影がぬっと現れる。白楼だ。何百年も生きた妖狐のはずなのに、こいつの言葉はいつもずれている。
「一日に兎を五匹捕まえるんだろ?二人で五日働いたら――二人合わせて二十五匹だな。じゃあ十二匹ずつ食えばいい」
「ちげえよ!五日間の兎の合計から労力に応じて分けろって問題なんだ!仮に労力無視するとしても一匹余るだろうが!」
思わず声を荒げる。白楼は首をかしげ、狐耳をぴくりと動かした。
「いや、腹が減ってるやつが一匹分多く食えばいいんじゃないのか?」
「そんなことできるなら最初から問題にしねえよ!」
「じゃあもう一匹持ってきて十三匹ずつにすればいいんじゃないか?」
「それできるんなら答え何でもありになるだろうが!」
答案用紙を叩くと、隣に座っていた奏が俺の肩を持つように触れる。
「直輝くん、そんなに怒らなくても――白楼さん、励まそうとしてるんだから」
俺の感情とは正反対のおっとりとした声に、思わず俺はため息をつく。奏はにこりと笑って言葉を続けた。
「兎さんだって、きれいに二人分に分けられなくてもいいじゃない。お料理だって分量がちょっとくらい違っても食べられるんだから。あっそうだ、煮込み料理にすれば全部混ざっちゃうでしょ?そしたら数えなくても分けられるんだから」
「食えるかどうかの問題じゃねえんだよ!」
境内の冷たい空気が俺の緊張をより強めるかのようにきつく感じられた、その時だった。境内の端で素振りをしていたはずの詩織が、いつの間にか目の前にいる。どうしたのかと思っていると、彼女は黙って俺の答案用紙にさっと目を通した。
「この辺り、全部間違ってるわね」
「う!?」
そうだった。最近気づいたのだが、やや頭の鈍い奏と違って、詩織は剣だけでなく頭も切れるのだ。一瞬、こいつを永田の代わりにしようかと思ったくらいだったが――できない。こいつが近くにいたら、俺は気になって勉強に身が入らないから。
「でも、別にいいのよ。結果なんて」
「は?」
聞き間違いかと思った。詩織は、肩にかかった髪を指で払って続ける。
「私はね、直輝がここまで来たことのほうが、ずっと大事だと思ってるの。前のあなたは、本当にどうしようもなかったもの。勉強はしない、剣はサボるし、しょっちゅう遊女と遊ぶし。だいたい、誰かの迷惑になってた」
全く以て返す言葉がなかった。いつか言ってた母の言葉と同じように、すべてが残念な真実だったから。振り返ると、奏は顔を赤くし、白楼はわざとらしく空を見て口笛を吹いている。
「でも」
詩織は再び真顔に戻る。
「誠司さんが亡くなってからの直輝は、違った。机にかじりついて、間違えて、それでもまたやり直して。一番苦手だった勉強を死ぬ気で続けていた直輝、みんな間近で見ているの。だから――胸を張って受けてきて」
詩織の瞳は澄み切っていて、さっきまで肌を刺すように思えた冬の朝全体が美しく変わったようにすら思えた。
「そうだよ直輝。俺は数学はおろか、人間たちが受ける『試験』なんてものそれ自体、全く意味が分からないけどさ」
白楼が付け加えるように口を開いた。
「お前がどんなに未熟でも、ここにいる皆に慕われてきたことは知っている。過去のちゃらんぽらんも、今の努力も、全部ひっくるめてお前という人間なんだよ。その生き方を貫けばいい。試験なんていうのは、その先にある通り道にすぎないのさ」
そして、最後にお銀も、ゆっくりと俺に語り掛けてくれた。
「坊ちゃん。ここにいるみんなが、坊ちゃんのことが大好きなんですぜ。あっしは結果を信じてやすけど、それでもだめなら――またここに帰ってくればいいでやんすよ」
**
年が明けた明治三十年、一月。
しんしんと降りしきる雪の中、俺は郵便配達人の姿を待ち望んでいた。寒さもあるが、それ以上に緊張で手が思わず大きく震えてしまう。結局胸のどきどきは抑えられず、それを鎮める意味も込めてあえて寒空の下、降り積もる雪を踏みしめながら立っているのだ。
合格発表。帝国軍人の精鋭が集う、陸軍士官学校の門に立てるかどうかが決まる日。
俺は、葛城家の前にある郵便受けを凝視していた。すると――郵便配達人が俺を怪訝な顔で見ながら、郵便受けに封筒を入れる。
ついに来た――その時、脳内に映像が流れた。
「お前なんかに受かるはずがない」と言う母。ただ沈黙続ける父。そして、「坊ちゃんはやるときはやる人でやんす」と言いながら、一人だけ、いや、一匹だけ、どこまでも信じた顔で茶をすすっていた、お銀。
俺は乱暴に封を切った。相変わらず指の震えは止まらない。息が詰まる。心臓が止まりそうになる感覚を覚える。紙を切る音がやけに大きく聞こえる。
「士官候補生合格、葛城直輝」
全身の力が抜け、思わず厚い雪が覆う地面に膝をつく。
母は合わす顔がなさそうにさっさと母屋に戻ってしまい、父は相変わらず沈黙していたがどちらかというと言葉を失っていたようだった。でも、お銀だけは大喜びし、俺に抱き着いて頬ずりをしてくれた。
「おめでとう!」
白狐稲荷神社に顔を見せた瞬間、奏がぱあっと笑って飛びついてきた。詩織も続いて勢いのまま抱きついてくる。昔は取っ組み合いで終わってた距離感なのに、今は変に意識してしまう自分がいる――特に詩織に関して。
「でも、軍隊って大変なんでしょ?」
奏が目を輝かせる。
「新木さん所の次男さん、二等兵のころすごく絞られたって言ってたから。でもいいなあ、最初はきつくても船で世界中回れるんでしょ?それに、あの冬は紺で夏は白の軍服!セーラー服って格好いいよねえ」
どっから突っ込んでいいのかもはやわからない。それ全部海軍の話だよ。
「でも三年くらいで戻ってくるんでしょ?頑張ってね、直輝君!」
もはや訂正するタイミングを失った俺は頭を抱えた。しかし、そこに詩織が口をはさむ。
「お姉ちゃん、直輝は陸軍士官学校に行くの。卒業したら少尉。二等兵にはならないよ。船にも乗らないし、その制服は海軍」
「え?」
「それに、徴兵じゃなくて職業軍人。三年やそこらじゃなくて、五十過ぎるまで、直輝はずっと軍にいるのよ」
奏の笑顔が消えた。広げていた両腕は力なく垂れ、膝に落ちる。
「そんなの――さみしいよ」
いつもの奏の優しい声は、かえって今、とても悲しく聞こえる。詩織は奏の背中に手を置くと、奏の涙をぬぐった。俺は拳を思わず握ってしまう。
だがそんな中、一つの姿が動いた。白楼だった。
「奏」
いつもの飄々とした声は、今では穏やかに、子供を寝かしつける声のように聞こえる。
「すべての生き物は旅をする。動物も、あやかしも、そして人も。かつては俺もそうだった。今はそれが直輝の番ってことだな」
奏が、涙のにじんだ目で見上げる。
「いつかみんなそうなるなら、ここで笑って見送ってあげた方が、直輝のためじゃないかな。だいいち、離れていても、俺たちの絆は決して切れることはない、そうだろ?」
そう言いながら、白楼はいたずらっぽく笑った。
「そして、これからお前が抱く遊女の数だけ、お前は男になるわけだな」
「やめろ!そこは感動路線で行けよ!」
思わず突っ込むと、奏がくすっと笑う。涙が一粒だけ頬を転がると、コクっと頷いた。
「さみしいってことは、それだけ大事に思ってる証拠だ。直輝、みんなのこの思い、忘れないで精進しろよ」
今まででもみんなには勇気、元気をたくさんもらっていたのは自覚していた。だが、俺は改めて、彼らが俺にとってかけがえのない存在であることを認識した。人生でこれほど人に感謝をしたことはないだろう。
俺はつい涙しそうになるのをぐっとこらえるかのように頭を下げる。
「みんな――ありがとう。必ず立派な軍人になってみせるよ」
冬の空気は冷たいはずなのに、俺は全くそれを感じないばかりか、むしろ体は暖かいくらいだったのを覚えている。
こうして白狐稲荷神社を一歩出ると、ここのみんなの他に、もう一人の顔が思い浮かぶ。
「なあ、永田。お前が見てなくても、ちゃんとここまで来たぜ」
もう幼年学校でエリートコース歩んでいるんだろうあいつに、そう声をかけた。
あっ、そう言えば。
ここのみんなに合格発表をするのに夢中で、すっかり忘れてた。お銀。いつもこいつは俺の懐や肩にいるはずなのに、いない。珍しいこともあるもんだ。
ふと見上げると、少し離れた石灯籠の上で、お銀が前足を組んで下を向いている。
俺は笑って駆け寄った。
「おいお銀。柄にもなくなにしんみりしてんだよ。さあ行くぞ、これから東京に行く準備しなきゃだからな」
「――坊ちゃん」
俺は快活に話しかけているはずなのに、お銀はどんよりとした態度を崩さない。さすがに不思議に思ってどうしたのか聞こうとしたその時、お銀の方から口を開いた。
「ここでお別れでやんす」
風の音、鳥の音、すべての音がやんだ。あるのは目の前にあるお銀とそよ風になびく彼女の銀毛だけ。
「あっし、以前にお話ししやしたかね?あっしが主人に仕える必要があるかを判断する基準。それは『赤い糸』でやんす。聞くところにゃ、西洋では愛の絆を赤い糸で表すらしいのでやんすが、それと似たような話でやんしょう」
ということは、今俺とお前は――
「そうでやんす。ご主人が陸士の合格通知をもらったすぐくらいに――突然切れやした」
言葉が出てこない。代わりに、どうでもいいことを口走っていた。
「みんなには――もう言ったのか?」
「言えやせんよ。坊ちゃんがいなくなるだけでみんなあんなに悲しがってるのに、『実はあっしも消えやす』なんて言えますかい。それに、黙ってりゃ、このままあっしも坊ちゃんと一緒に東京行くと思ってくれるでやんしょう。なら、わざわざ言う必要もねえ」
こいつと過ごした日々が一気に頭をよぎる――母の小言から逃げて納屋に隠れた夜に「未熟な坊ちゃん」と笑われたこと、遊女目当てで温泉街に行こうとして耳を噛まれたこと、道場でボロ負けしたあと胸元で黙って爪を立ててくれていたこと、熱を出して机に突っ伏したら尻尾で背中をぽすぽす叩かれたこと。
でも、ここで俺がやることはただ一つ。
「そうか、今まで本当にありがとう。お前のおかげで、俺はだいぶ人間らしくなれた気がする。だから俺も、心からお前の門出を祝うよ。次の主人のところでも、楽しくやってくれよな」
俺がそう言うとお銀は右足を顔に当てて声を上げて泣いた。
「坊ちゃんが今までの主人と違っていたのは、自らの未熟さを認識していたことでやんす。大抵の人間は、自分のダメさを認めたがらねえ。けど坊ちゃんは、そこから目をそらさなかった。あっしは、そんな坊ちゃんが大好きでやんした。本音を言えば、まだそばにいたいくらいで」
「でもなあ、本当に俺、成長なんかしたのかなあ?」
「そこに関して、ちょっと言いたいことがあるでやんす」
お銀は顔から手を放して俺をまっすぐ見据える。
「赤い糸が切れるのは、『成熟したとき』じゃなくて、『成熟する準備が整ったとき』でやんす。言うなれば、立派な人間になるための卵になった時点で、ぶつりと切れるんでさぁ」
ぽつりぽつりと、お銀は己の来歴を明かしていく。
昔のお銀は、人を化かし、だましては遊んでいる悪い妖狐だったと。ある日そこへ一人の神職が現れて退治されかかったのだが、その神職は迷いの果てにお銀を逃がしたというのだ。「これからは人間を助けろ」と言い残して。
神職は、お銀が人のために働くあやかしへと生まれ変わるため、呪いをかけた。未熟な人間一人を主人として赤い糸でつなぎ、その人間が成長しなければ赤い糸はとれない、そんな呪いを。
呪いとは言えそれは神職のかけるもの、悪しき者からの呪いとはてんで異なり、きつくあやかし縛ったりするものではない。そのため、距離的にその主人から離れようと思えばいくらでもできた。そうしてお銀は主人のもとから逃げて森の中に戻るのだが――どうにも赤い糸が気になって全く楽しく生きられない。結局、お銀は人間社会に戻り、未熟な主人を見守っていく使い魔になることを決めたのだった。
お銀は肩を苦笑しながら言う。
「もっとも、一度糸が切れちまえば、あっしは完全に自由だ。でもねえ、あっしは、どうしてもその神職のことが忘れられなかったんでさあ。命を助けてくれた相手への仁義なのか、迷いながらあっしを生かしたあいつへの同情なのか、自分でもよくわからねえんですがね。だからまた赤い糸で拘束されちまうのに、新しい主人を探しちまったんでさあ。未熟な主人に体をこすりつければ赤い糸は復活するんで、気づけば、あっしはとある若者に体をこすりつけておりましたよ」
お銀はそう説明すると、それから言いよどんでしまった。でも一方で、明らかにまだ何か言いたでもあり、それをため込んで話すのをためらっているような仕草だった。
「いいぜお銀、この際だから全部言っちゃいなよ。なんか俺によくないようなことがあるんだろ?全部言ってくれよ。でないと、お前がすっきりして新たな主人のところに行けないじゃんか」
俺が促すと、お銀は小さくため息をつき、観念したように続けた。
お銀が言うには、狐が使うの化かしの術は、時に副作用があると言う。それは、自分でさえも化かされてしまうこと、つまり頻繁に変な夢を見たり幻覚を見たりするのだ。しかもそれはたいてい現実になる「予知夢」であるらしい。特に赤い糸が切れるときははっきりと幻覚が見えるようで、今までの主人は「成熟手前の卵」だったとしても実際には明るい未来が見えたらしいのだが――
「坊ちゃんは――泣いて、怒って、傷ついて、それでも前に進んでいくような――そんな幻で」
俺はふっと笑った。
「なんだよ、それだけか。だったら心配いらねえよ」
俺は大きく息を吸って空を仰ぎながらゆっくりと吐き、お銀の頭をなでた。
「お銀、見ての通り、俺はダメな奴だ。今までだって周りに迷惑ばかり、陸士に受かるのだって、死ぬ気で勉強してやっとギリギリ。これからだって俺は泣き、わめき、悩んで生きていく。明るい未来なんて、最初から約束されちゃいないのさ。だからお銀、お前は何も心配しなくていい。俺のことなんて忘れて、次の主人に行きな。そして、俺のような未熟でどうしようもない奴を導いてやってくれ」
お銀は、それでもしばらく泣き顔のままその場から動かなかった。だが、俺がもう一度その頭に触れようとすると、気づけばお銀の姿は風に溶けるように淡くかすみ、次の瞬間には、もういなかった。
「じゃあな、お銀。お前が導いた卵がどんな姿になるのかは――次の主人のところで笑って見ててくれ」
空は美しく青かった。少し気になるのは黒い雲が早く動いていたことだけど、それでも雨になるほどではない、俺はそう願っていた。
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