あの時くれた名前~諏訪あやかし記: 神の柱と狐の器

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第5章 決戦

戦況分析~永田鉄山の視点

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 霧が稜線に這うように山を覆い、霊域の先より銃声が響く。

 私は地図を手にして双眼鏡を覗き込んだ。霧の合間にかすかに見える集落には、武装した兵が我が物顔で歩き回っている。私の読みでは、彼らは局所防衛に専念しているというよりは、場合によっては積極攻勢に転じる姿勢だと見ている。不用意な接近は、こちらにとって破滅的被害となる恐れがある。

 そして何より、時折視界の端に見える異形の姿。森の木立の間を滑るように動く、長い肢体。背中に薄黒い羽を生やした異様な影。瓦礫の隙間で蠢く、頭が三つある犬のようなもの。

 幼い頃、日常の一部でしかなかったものたち。他の地であれば、恐怖をもって迎えられるであろう存在が、この諏訪ではごく自然なものとして捉えられている。東京へ出て早十七年も経った。都会で過ごすうち、私は次第に「普通」の感覚を身に付けたと思っていた。だが今、面前にある光景を目にするにつれ、そうしたかつての感覚が蘇りつつある。あの頃の空気、あの頃の視線――あのころのあやかし達が。

 思い出す。白狐稲荷神社の境内にたたずんでいた白楼の姿を。

 陸軍の将来を担う逸材がそろう幼年学校に入ってからは、やっと親友と呼べる者たちに多く出会えたが、この地では違った。自らの能力が人と違いすぎ、どこか皆と浮いている自分がいた。そんな中でも数少ない、親友と呼べる者が二人いたのだ。妖狐白楼、そしてもう一人――。

 私は思考を軍の指揮へと戻す。

 白狐稲荷神社が瓦礫と化してから――つまりはあの白楼がやられてから一カ月が経過した。物の怪が諏訪の地を跋扈し、村口一派は民家を襲って物品・食料を強奪し、この地で事実上の軍事政権を築いている。

 本来であれば、大尉ごときが局地的なクーデターまがいの行為を行えば、即座に鎮圧されるはずだった。だが現実には、村口の下に配置された兵の規模は明らかに不相応であり、それを可能とする異常な後ろ盾があることは疑いようもない。これに関しては皇道派連中の仕業だ。

 さらに厄介なのは、あやかしの存在だ。通常の軍装備ではうまく奴らに太刀打ちできず、我々正規軍は幾度となく損耗を強いられている。かといって、この一地方の騒乱に対して陸軍の全戦力を集結させれば、それ自体が国内の動揺を招きかねないし、下手をすれば、動員された軍が独立して暴走する。大軍を動かすということはすなわち、組織が自律化して命令を下す側から勝手に独立する危険、つまりクーデターの恐れがあるということは常に念頭に置かなくてはならないからだ。クーデターを鎮圧しに行った部隊がさらなるクーデターを起こすなど、もはやこの国は破滅する。

 現時点で私が取り得る最善の策は、諏訪に至るすべての交通路を封鎖し、徹底した情報統制によってマスコミの侵入を防ぐこと。全国規模でこの異常事態が露見しないようにするのだ。

 そのうえで、大規模な戦力の動員を避けることで、国民に気づかれず、かつ自軍のさらなるクーデターを防ぎ、この地を寡兵で奪還する。それしかない。無謀に見えても、それが現実的な唯一の選択肢だった。

 取り急ぎあやかしから身を守り、軍人だけに集中して対処するための場所を確保するため、現在、我々は諏訪大社・上社前宮にいる。神社の霊域は強力で、あやかしたちは簡単には入ってこられないから、ここに我が部隊の本陣を置けば、作戦立案、補給休息には都合がいいというわけだ。

 村口たちが諏訪大社を前もって全て破壊していた場合はかなり面倒な事態になっていたが、不幸中の幸い、それはなかった。白狐稲荷神社のような小さな神社とは事情が異なったのだ。村口が官軍を名乗りながら、国家神道の象徴たる大神社、諏訪大社を壊すことはできなかったというわけだ。信仰を破壊すれば、民心が離れることくらいは、奴も分かっていたのだろう。

 欲を言えば、さらに霊域が強力な上社本宮に陣を構えたいところではあるが、さすがに村口たちも我々の考えを読んでいたようだ。斥候の報告では、本宮に機関銃が厚く配備されている。我々が入ろうとする際に皆殺しにする罠を張っているつもりなのだろう。

 一般に「諏訪大社」と言えば、多くの者は上社本宮を思い浮かべるはずだ。しかし実際にはさらにそのほか、上社前宮、下社春宮・秋宮という三つの社も存在しており、上社・下社は諏訪湖を挟んで南北に位置している。下社は上社と同格で霊域も強いが、下諏訪に位置しているため、東京から私の部隊を引き連れて行くに際して、村口たちが本拠地を置く白狐稲荷神社を通過する必要がある。そのため、本陣を設営するには不適格だ。仮に松本方面の北西から軍を進めるとなれば逆に下社の方が地理的に近いが、そうなると諏訪湖の北側に本拠地を置くことになり、南側にある白狐稲荷神社への攻撃には距離がありすぎる。したがって我々が本拠地を置くとすれば上社本宮が適切、これは私、そして村口の共通認識というわけだ。

 一方で、宮川村にある上社前宮は、確かに本宮ほどの厳めしさもなければ、社殿の規模も小さい。だが、諏訪の人間ではない奴は見落としていた――いや、知っていても過小評価したのかもしれない。

 かつて私がこの地にいたころ、本宮でなくて前宮に足を運ぶことが多かった。理由は二つある。一つは、ここが私の通った大同義塾のすぐ近くにあったこと。そしてもう一つは、この社に漂う空気の中に、少年ながら言いようのない歴史の重みを感じたからだった。後に文献を読んで、私が感じたその感覚は正しいと確信した――この地にあるすべての諏訪大社、そして諏訪信仰そのものの原点は、この前宮にあったという事実を。諏訪の歴史は、この前宮から始まったのだということを。

 ふと目を移すと、巨大なモミの柱が、この地を貫くように力強く佇んでいる。この地と無関係な人間から見れば、単なる木の柱としか認識できないであろう。しかし、我々諏訪の人間がこの柱を前にして抱く感情は、きわめて特別なものだ。七年に一度神がこの柱に降りる依代。私は、この柱の前で何度も願いを告げたものだった。

 あの日、諏訪を離れて東京へ向かう時もそうだった。私は、二つのことをこの前宮の御柱に願ったのだ。

 一つは、自らがこの御柱のように、揺るぎない柱となり、国家の安寧を支える軍人たらんこと。

 陸軍幼年学校の入試そのものに関しては、何の不安もなかった。学問も体力も、人よりはるかに勝っていると自負していたし、事実、それを裏付ける成績もあった。だが、真に私を苦しめていたのは、軍人として自らがこの国のために役立てるのだろうかという疑問だった。その不安は、まだ十やそこそこの私にとって、振り払うことのできない影のように付きまとっていた。

 そしてもう一つ――それは、葛城君の陸士合格だった。

 あの頃の私は、あまりにも不器用で、素直になれなかった。彼の努力を称える言葉を胸にしまい、無愛想な態度でしか接することができなかった。それでも、彼の真っ直ぐさは、どこまでも私の心に届いていた。

 共に机を並べ、語らい、競い合った日々。ふとした沈黙には未来への不安を分かち合った。あの時間のすべてが、私にとって何よりもかけがえのないものだった。白楼という、あの不思議な存在とはまた違う、現実の世界で確かに寄り添い合えた親友。それが葛城君だった。

 現実に彼は陸士に合格できた。その意味で私の願いはかなったのかもしれない。だが、正直言えば、もう一つ御柱の前で願っておくべきだったとも思っている。どうか彼が、己の力を信じ、大志を抱いて飛び立てますように、と。あの後の詩織さんとの悲劇を前にして彼が今、どんな心境で、どんな行動をしているのか――特に彼が憲兵少佐に昇進してからというもの、何かしらの単独行動をしているという報告しか上がってこず、陸軍内でも彼の実態がつかめていない。

 実際に私が立派な軍人となれているのか。葛城君は今どうしているのか。御柱はあの時と同じで何も語ることはない。だが、その中でも、力強くその場を圧倒する存在感、それは変わらずにそこにあり続けているのだった。

 天幕の内に控えていた副官が報告する。

「永田大尉、前衛が接触しました。敵兵、三個小隊。奥に重機関銃を展開しています」

「迎撃部隊を回せ。第三小隊は左翼に展開、残りはここ霊域との境を守らせろ。突撃は許可するが、決して深追いするな。重機関銃とあやかしにやられる可能性があるからな」

 私は軍刀を手に取り、自ら先頭に立った。

 先ほど交戦している部隊は少数の精鋭部隊だが囮だ。本軍のこちらは機関銃を避けて別方向を取り、すぐさま囮部隊も合流する手筈だ。進軍は順調だった。銃撃と砲撃の指示は的確に出し、部下たちも指示通り円滑に動く。前進する速度も動きも、悪くない。

 だが、それからすぐ、異変が起きた。こちら本体前衛から悲鳴が起こったのだ。

 部下が叫ぶように報告する。

「敵、あやかしが前方に出現!い、いえ、後方にも出現!人影に似た異形の存在が、こちらへ接近中!銃撃を受けても怯みません!」

 どういうことだ?このルートは斥候によればあやかしが散漫であるという報告を受けていたはずだ。仮に遭遇しても、この程度の少数ならば銃火器でぎりぎり対応できるとの見立てであったはず。

 私は双眼鏡を覗くと、そこには予想外の光景が浮かぶ。あやかしたちが群れをなし、何者かの統一された命令に従うかのように一斉に動いているのだ。

 人間の軍隊のように一糸乱れぬ練度とまではいかないまでも、散発的なものとは到底思えない統制ぶりである。我々は今まで、あやかしどもが無差別に暴れていると考えていた。しかし現状を鑑みるに、奴らは我々だけを選んで狙っている。これは――

「皇道派と結託しているとでも言うのか」

 もはやそう断言するしかない。

 村口たちの背後の存在について勘づいてはいた。特に東京にいる皇道派の中枢たち。だがよくよく考えれば、それだけでこれほど戦線を拡大できるのは腑に落ちないところはある。どのようにして奴らはこの状況をつくった?あやかしと意思を通わせたというのか?その上まさか――取引まで?

 もしこの見立てが正しい場合、状況が不利だ。あやかしと対峙する神職たちの損耗が激しいからだ。この部隊にも神職はいるはずであったが、負傷して戦線を離れ、現在舞台にいるのは軍人のみ。仮にここを切り抜けたとしても、神職抜きで真の敵に対抗することはできない。

 ならば――仕方がない。我々はこの地を守るために来た。なにも戦争に勝つのが目的ではないのだ。

「一旦前宮に退くぞ。急げ!命を温存しろ!真なる敵を打倒するまで!」

 悪いことに私の声は崩れかかった前線には届かない。将校となってこの方、ここまで指揮に手こずったことは初めてだ。思わず指揮刀を握る手に汗がにじむ。

 だがその時、一筋の青白い光が空気を裂いた。同時に聞こえるのは、御幣の紙がはためく音。

「永田大尉!下がってください!」

 焼かれたように消えゆくあやかしの奥から現れたのは、若い女――そうだあの舞踏会の時、村口を圧倒していた――九条織葉だった。
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