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最終章 戦のあと
朽ちて、また新たに
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黒い靄のようなものが白楼の体から上がっていくと同時に、彼の体がゆっくりと透けていく。その中で、きらりと光るもの。そうだあれは――初めて白楼に会った時に庭できらめいていたもの。魂。あの色と同じだった。きっとそれは、白楼がもう少し力を抜けば、その輝きは肉眼では捉えられないほどの速さで駆け抜けていく。奈落の底まで。
すぐにわかった。あやかしの契り。古い文献を読んだときにちらりと見た内容。
白楼に語った『ファウスト』。習った時、私はその古い文献との共通点を感じると共に、直感でこうも感じた。これは単なるたとえ話でも、フィクションでもないと。遠く離れた島国であるこの地と同じく、世界のありとあらゆるところであやかしは契りを結ぶのだ。人間世界の契約よりもずっと生々しくて、強くて、そして――取り返しがつかないもの。白楼と、蛇目の妖狐、二人はきっと、強い愛によって結ばれていたのだろう。
だから今。蛇目の妖狐は死に絶え、白楼は契りに反してしまった。彼女の魂だけが奈落の底へ堕ちていくのを、契約は許さないのだ。契りの効力により、白楼の魂も蛇目の妖狐とともに、奈落へと突き進むほかはない。
白楼の目が私に向く。そこには、驚きも、拒絶も、悲しみも、一切なかった。もう彼は、自分の運命について受け入れているのが明らかだった。
でも、私は彼の魂がそのまま奈落に行くなんて、どうしても受け入れられなかった。だってそんなの、彼にふさわしいものではなかったから。奏さんも、詩織さんも、そしてお銀もここに倒れている葛城少佐も、みんな白楼のことが好きだったのだから。そして当然、私も。結局、白楼が悩める人たち魂を抜いてしまうこと、それに対しての答えは出なかった。けれど、これだけはわかる。白楼が命に対して真摯に向き合っていたこと、そしてどんな生き物に対しても優しかったこと。人々の魂を抜くことだって、生の呪縛から自由にした方が彼らにとって幸せであるという白楼なりの考え方。なら少なくとも言えるのは――彼が咎人のように報いを受けて奈落に落ちるのなんて、絶対ふさわしくなんてない。
ファウストは、悪魔メフィストとの賭けに負けて、魂を地獄に引きずり込まれそうになった。それでも最後に、彼は天へと引き上げられる。裏切られ、死ぬことになったのに、それでもなお、彼を想い続けたグレートヒェンの愛が、彼の魂を救い上げたから。なら――私が彼のグレートヒェンになればいい。
私はもう、一人の人を絶望の果てに死に追いやっている。しかも、ただ自死を選んだだけではなく、白楼に魂を解放してもらうことにより。彼を追い込んだ私の罪。そして、きっと心の中で彼を生かすべきかどうか葛藤したのちに、苦しみの果てに彼の魂を抜くことを決断させてしまった、白楼に対する罪。むしろ咎人は私なのだ。なら、私が命を散らして、せめて白楼を助ける。これこそがその罪に対する報いになるのではないか。
思い立ったらもう止められない。私は袖をまくる。腕には血がまだ流れていた。さっきの戦いで負った傷だ。その傷を負った時は激しい痛みがあった気はするけれど、今はそんなものすら遠のいていく。
蛇目の妖狐に使うはずだった奥義。でも、彼女はもういない――だから私は、白楼のために使う。邪悪なあやかしを封印することが目的ではないけれど。代わりに、彼の魂が奈落の底に堕ちないよう、何かに縫い付けてしまうことを目的として、結果的に白楼をここに封印するのだ。私はきっと死ぬだろう。それでも構わない。それが私への正当な罰になるなら、それでいい。
その刹那。ふとある記憶が蘇った。母の言葉だ。魂を縫い付けるための器は何でもいいと。
私は瓦礫の中を探す。見つけた――お銀の剥製。
この子は、私をずっと見てくれていた。小さなころから、強情で未熟なくせに前に進みたがる私を。罪なき人を絶望の淵に追い込んでしまった私を。そして、白狐稲荷神社が壊れて白楼がいなくなり、お銀が逝きそうになって絶望に打ちひしがれる私を。
私にとって恩人である、このお銀の剥製を器にして、もう一人の恩人であり、愛した妖狐である白楼の魂を結びつけること。この二匹が同じ狐であり、私と深く関係していた――これはもはや、運命だったのだ。
私は御幣を掲げた。空気がぴんと張り詰め、音がゆっくりと消え、大地がわずかに震え、空の色が鈍く濁る。心臓が強く動く。静寂が訪れる。さあ、天地は私を見守っている、今だ――
「君が死ぬことはないよ」
私はその声に思わず振り向いた。そこには、蛇目の妖狐に体を貫かれ、倒れている葛城少佐がいた。息はもう浅く、声はかすれていたけれど、彼のまなざしはまっすぐで、揺るぎのない意思が灯っていた。
「どうせ俺はもう長くねえ。なら君の代わりに――俺を使ってくれ」
「少佐は後ですぐ手当します。何を言って――」
「蛇目の妖狐を殺せば、契りで白楼も消える。それをわかってて俺はこいつを刺した。なぜだかわかるか?君をあてにしていたからだよ」
まだ反論しようとした私を、少佐は力ない笑みで制した。
「冷静に考えろ。これから長く生きる君は死ぬな。短い命の俺を代わりに使え。未来への生き証人は、君だ」
彼は私の後ろを遠くに眺めるような目をした。
「白楼を斬れなかった。諏訪忠誠公も、詩織も、そして俺も。だけど、人間に憎悪を向けるこの蛇目の妖狐には、俺は躊躇しなかった。諏訪公と詩織、二人の意思――強大な力を持つ悪しき物の怪を斬らなければならない宿命は、俺が受け継ぎ、果たした」
彼の手が、ゆっくりと短刀を差し出す。柄には、赤黒く染まった血がまだ熱を残していた。
「でも、白楼が消えるのも、俺が望む終わりじゃない。だったら、ここで俺の命を使えば、すべて丸く収まる。みっともなくて、何の役にも立たなかった俺が、最後にあの二人の意思を繋いで、白楼まで救えるんだから。これが俺の、成熟した姿。胸を張ってお銀に見せられる姿として」
私はまだ迷いを残しながらも、しっかりと頷いた。もちろんこの奥義に他人の命を使いたくなんかなかったけれど――でもそれ以上に、揺るぎない少佐の覚悟を、私は無駄にしたくなかったから。
彼はさっきよりも大きく笑った。血に濡れた歯ではあったけれど、どこか、事を成し遂げた達成感でほっとしているような表情だった。
「なあ、俺、成長できたかな?あいつに顔向けできるかな?」
血に濡れた手をゆっくりと動かし、空を掴むように、彼は言った。
「ええ、きっとあの子も――あなたの成長を喜んでいますよ」
私は心の底からそう答えた。
私は再び深く息を吸い、御幣を掲げた。白楼の魂が、剥製へと縫い留められるための術式を結ぶ。今にも奈落に飛び出しそうになっていた白楼の魂はこちらの方向へ向きを変え、美しい輝きの光がお銀の剥製へと降り立つ。そして――葛城少佐は目を閉じ、身体の力が抜けた。
私は彼に一礼する。もうじき白楼の魂が剥製と一体化して封印されるだろう。
それがわかったその時だった。白楼が言葉を放つ。
「そうか、今年は――御柱の年だったね」
白楼の言葉が私の頭を電流のように駆け巡る。
御柱。神を迎えるために、七年ごとに山から切り出され、川を越え、社の四隅に立てられる柱。私がこの地に着いた時、それは単なる楽しいお祭りという記憶しかなかったのだけれど。あの老女から教えられたこの神事の意味が改めて頭によぎる。
人々は太いもみの木を引き、命を吹き込む大声を張り上げて山を下る。そして柱が立てられるとき、諏訪大社に神が新たに迎えられると人々は言う。七年の間に朽ちた柱は新たな依り代として生命を帯び、社が再生されるのだ。そして、新たな七年間という時が、また巡る。
今、ここで私が行っているのも、まさにそれなのだ。かつて自由なあやかしであった妖狐が白狐稲荷神社の神となった。でも、社は破壊され、白楼の魂は今や奈落に引きずり込まれようとしている。けれど私は、奥義によって、彼の魂をこの剥製の中に縫い留める。それはあたかも、かつて白狐稲荷神社の神であった彼が朽ち果てたのち、再生を果たして再びこの地に迎え入れられ、新たな依代の中で目覚める。いつか再建されるであろう社とともに、再生を果たすのだ。この剥製は、御柱と同じ。命が、新たな時の巡りを与えるのだ。
白楼は、まるで私の思考のすべてを見通しているかのように、微笑む。
そして、彼は、最期にこう言った。
「俺が、昔助けた娘。そして、俺が惹かれていった娘。彼女の名前は――織葉だったんだよ」
「――え?」
私は咄嗟に声をかけようとした。けれどその瞬間、白楼の魂は剥製の中に吸い込まれ、ついに封印の儀が終わった。
――私の、名前?
冷たい風が頬を撫でる。私は止まらない体の震えを感じながら胸に手を置いた。聞こえるのは鼓動だけ。
ふと気が付くと、夜明けの光が空全体に広がろうとしていた。淡い光が漆黒の闇を洗い流していくように広がっていく中、私は見た――輝く一筋の天の川を。やがてそれは朝焼けの空に交じり、消えていった。
ほんの一瞬だった。でも間違いなく感じた。そこに、彼らの魂の残滓を。彼らの思いを。私は目を閉じた。
永田大尉の足音が遠くから聞こえる。彼は何も言うことはない。静かに帽子を取る音が聞こえる。きっと彼らに向かって一礼しているのだろう。
――どうか、この剥製に宿る魂が、人々の信仰によりやがてもとに戻りますように。
――どうか、逝ったすべての魂が安らかな場所へ行けますように。
封印された白狐の伝説が、人々の信仰を通して新たな物語となり、この狐は誰かの夏をまた見守ることになるのだろう。
その時、声が聞こえた。
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