166 / 276
第四部
16 王太子妃殿下付き筆頭侍女候補リリアンナの回想【サイドストーリー】
しおりを挟む
リリアンナは混乱していた。
(手紙をいただいたことがない? どういうこと?)
すぐにでも夫であり王太子殿下の補佐官であるランスに事実を問い詰めたいところだったが、まだ隣国イスファーン王国の大使館設立についての会談が長引いているようで王城に戻っていない。
健気な少女が泣くのを耐え、気丈に笑う姿を思い出すだけで胸が苦しくなる。
リリアンナは自分の記憶をさかのぼった。
***
──去年の晩秋。
「冗談じゃないわ」
苛立った様子を隠さないリリアンナの雑言を夫であるランスは気にすることなくにやけていた。
「毒にも薬にもならない家のご令嬢との婚約を勝手に決めてきた裏切り者のシリルが、わたしに何をさせようっていうのよ」
リリアンナが腹を立てるのには理由があった。
一千年の時を一つの王朝が治めるヴァーデン王国。
大陸内にその名を轟かせる大国も、表面上は平和を保っているものの常に不穏な影がちらつく。
国境近くの深淵の森には侵略の機を窺う北方の隣国の間諜が潜む。
創世神と十二柱の神のためにあるはずの教会では聖女信仰を推す派閥が急進し、軍部はいま将軍である王弟公爵を旗印に以前西方の隣国で起こったクーデターを起こそうと画策している。
領主たちで構成される貴族院は自分たちの都合に良い議案ばかり通し、いまだ力のある王太后は義理の息子である国王を玉座から引きずり落とそうとしているなどと噂されていた。
自分の主人であるシリルがいくら王太子だといえど、いつ寝首をかかれてもおかしくない。
代々使用人として王室に仕える宮廷貴族の娘であるリリアンナにとって、仕える主人は簡単に変えられるものではない。
とはいえ兄のようにシリルと心中するまでの覚悟をリリアンナは持てなかった。
(前は「王族の婚姻などというものは外交や内政安定の切り札でしかない。国家安寧のためにも地盤を固めるに足る相手を娶り、謀反を企てる輩を排除せねばならない」なんて偉そうなこと言ってたくせに)
その言葉を信じたリリアンナは貴族院を牛耳るシーワード公爵の娘が輿入れし地盤固めを始めるに違いないと考えた。
リリアンナは、計算高い男が国家安寧を旗印に治世の世に謀反を企てた者たちを一斉粛清することに賭けをし、そしてその賭けに負けた。
シーワード公爵家のご令嬢が婚約者候補から辞退してからというもの風向きは悪くなる一方であった。
公爵家における家督争いが原因で辞退したはずが、王太子の能力に見切りをつけ公爵令嬢が辞退したことになっていた。
王太子の人望が失われていくのは姦計を謀ろうとするもの達には都合が良いのだろう。周りは皆その噂を焚き付けるばかりで火消しもしない。
市井ではシリルのよくない噂がはびこり、愚かな王太子の烙印が押されていた。
その『見た目ばかりで中身は無能で不能な王太子』が選んだ婚約者もかっこうの噂話の餌食になった。
幼い頃からシリルに仕えることが決まっていたリリアンナやランスは、シリルの幼馴染であるエリオットとも親しくしており、エレナと親交はなくとも、トワイン家の内情はよく知っていた
トワイン家は侯爵家といえども二十年ほど前まで没落の危機に瀕していたため発言力もなく、権力争いの中でなんの後ろ盾にもならないような家だ。
どの派閥も自分の都合の良い婚約者に挿げ替えようと色めき立つ。
エレナがまだ「社交界に出ていないだけ」だったはずが「社交界に出せない」にいつのまにかすり替わり「小太りで醜女のわがままな癇癪持ちの侯爵令嬢」と噂されるまでに時間はかからなかった。
みなこの機会をものにしようと謀ってばかりだ。
王太子殿下付きなんて名誉もいまやいつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣でしかない。
崩れる前に逃げ出したいのに、兄も夫も仕える主人を変えるつもりはないらしい。
ランスはシリルからの頼まれごとだと、封がされていない手紙をリリアンナに渡した。
「何なのこれ」
「シリルが添削してくれだってさ」
取り出した便箋に視線を落とす。
リリアンナは手が震えそうになるのを必死に耐える。
「何なのこれ」
「シリルからエレナ様へ送る手紙だ」
「そんなの読めばわかるわよ。中身よ中身」
鏡はなくとも、リリアンナは自分が目の前の夫と同じ表情になっていることは想像がついた。
「あの子ったら浮かれすぎてて、気味が悪いわ」
普段他人に対して興味がないシリルが書いたと思えない叙情詩のような手紙は、幼い頃からシリルを知るリリアンナとランスからすれば気味が悪くも懐かしい奇妙な感覚に襲われるものだった。
(手紙をいただいたことがない? どういうこと?)
すぐにでも夫であり王太子殿下の補佐官であるランスに事実を問い詰めたいところだったが、まだ隣国イスファーン王国の大使館設立についての会談が長引いているようで王城に戻っていない。
健気な少女が泣くのを耐え、気丈に笑う姿を思い出すだけで胸が苦しくなる。
リリアンナは自分の記憶をさかのぼった。
***
──去年の晩秋。
「冗談じゃないわ」
苛立った様子を隠さないリリアンナの雑言を夫であるランスは気にすることなくにやけていた。
「毒にも薬にもならない家のご令嬢との婚約を勝手に決めてきた裏切り者のシリルが、わたしに何をさせようっていうのよ」
リリアンナが腹を立てるのには理由があった。
一千年の時を一つの王朝が治めるヴァーデン王国。
大陸内にその名を轟かせる大国も、表面上は平和を保っているものの常に不穏な影がちらつく。
国境近くの深淵の森には侵略の機を窺う北方の隣国の間諜が潜む。
創世神と十二柱の神のためにあるはずの教会では聖女信仰を推す派閥が急進し、軍部はいま将軍である王弟公爵を旗印に以前西方の隣国で起こったクーデターを起こそうと画策している。
領主たちで構成される貴族院は自分たちの都合に良い議案ばかり通し、いまだ力のある王太后は義理の息子である国王を玉座から引きずり落とそうとしているなどと噂されていた。
自分の主人であるシリルがいくら王太子だといえど、いつ寝首をかかれてもおかしくない。
代々使用人として王室に仕える宮廷貴族の娘であるリリアンナにとって、仕える主人は簡単に変えられるものではない。
とはいえ兄のようにシリルと心中するまでの覚悟をリリアンナは持てなかった。
(前は「王族の婚姻などというものは外交や内政安定の切り札でしかない。国家安寧のためにも地盤を固めるに足る相手を娶り、謀反を企てる輩を排除せねばならない」なんて偉そうなこと言ってたくせに)
その言葉を信じたリリアンナは貴族院を牛耳るシーワード公爵の娘が輿入れし地盤固めを始めるに違いないと考えた。
リリアンナは、計算高い男が国家安寧を旗印に治世の世に謀反を企てた者たちを一斉粛清することに賭けをし、そしてその賭けに負けた。
シーワード公爵家のご令嬢が婚約者候補から辞退してからというもの風向きは悪くなる一方であった。
公爵家における家督争いが原因で辞退したはずが、王太子の能力に見切りをつけ公爵令嬢が辞退したことになっていた。
王太子の人望が失われていくのは姦計を謀ろうとするもの達には都合が良いのだろう。周りは皆その噂を焚き付けるばかりで火消しもしない。
市井ではシリルのよくない噂がはびこり、愚かな王太子の烙印が押されていた。
その『見た目ばかりで中身は無能で不能な王太子』が選んだ婚約者もかっこうの噂話の餌食になった。
幼い頃からシリルに仕えることが決まっていたリリアンナやランスは、シリルの幼馴染であるエリオットとも親しくしており、エレナと親交はなくとも、トワイン家の内情はよく知っていた
トワイン家は侯爵家といえども二十年ほど前まで没落の危機に瀕していたため発言力もなく、権力争いの中でなんの後ろ盾にもならないような家だ。
どの派閥も自分の都合の良い婚約者に挿げ替えようと色めき立つ。
エレナがまだ「社交界に出ていないだけ」だったはずが「社交界に出せない」にいつのまにかすり替わり「小太りで醜女のわがままな癇癪持ちの侯爵令嬢」と噂されるまでに時間はかからなかった。
みなこの機会をものにしようと謀ってばかりだ。
王太子殿下付きなんて名誉もいまやいつ崩れてもおかしくない砂上の楼閣でしかない。
崩れる前に逃げ出したいのに、兄も夫も仕える主人を変えるつもりはないらしい。
ランスはシリルからの頼まれごとだと、封がされていない手紙をリリアンナに渡した。
「何なのこれ」
「シリルが添削してくれだってさ」
取り出した便箋に視線を落とす。
リリアンナは手が震えそうになるのを必死に耐える。
「何なのこれ」
「シリルからエレナ様へ送る手紙だ」
「そんなの読めばわかるわよ。中身よ中身」
鏡はなくとも、リリアンナは自分が目の前の夫と同じ表情になっていることは想像がついた。
「あの子ったら浮かれすぎてて、気味が悪いわ」
普段他人に対して興味がないシリルが書いたと思えない叙情詩のような手紙は、幼い頃からシリルを知るリリアンナとランスからすれば気味が悪くも懐かしい奇妙な感覚に襲われるものだった。
7
あなたにおすすめの小説
[完結]7回も人生やってたら無双になるって
紅月
恋愛
「またですか」
アリッサは望まないのに7回目の人生の巻き戻りにため息を吐いた。
驚く事に今までの人生で身に付けた技術、知識はそのままだから有能だけど、いつ巻き戻るか分からないから結婚とかはすっかり諦めていた。
だけど今回は違う。
強力な仲間が居る。
アリッサは今度こそ自分の人生をまっとうしようと前を向く事にした。
【完結】【35万pt感謝】転生したらお飾りにもならない王妃のようなので自由にやらせていただきます
宇水涼麻
恋愛
王妃レイジーナは出産を期に入れ替わった。現世の知識と前世の記憶を持ったレイジーナは王子を産む道具である現状の脱却に奮闘する。
さらには息子に殺される運命から逃れられるのか。
中世ヨーロッパ風異世界転生。
【完結】転生地味悪役令嬢は婚約者と男好きヒロイン諸共無視しまくる。
なーさ
恋愛
アイドルオタクの地味女子 水上羽月はある日推しが轢かれそうになるのを助けて死んでしまう。そのことを不憫に思った女神が「あなた、可哀想だから転生!」「え?」なんの因果か異世界に転生してしまう!転生したのは地味な公爵令嬢レフカ・エミリーだった。目が覚めると私の周りを大人が囲っていた。婚約者の第一王子も男好きヒロインも無視します!今世はうーん小説にでも生きようかな〜と思ったらあれ?あの人は前世の推しでは!?地味令嬢のエミリーが知らず知らずのうちに戦ったり溺愛されたりするお話。
本当に駄文です。そんなものでも読んでお気に入り登録していただけたら嬉しいです!
【完結】悪役令嬢は何故か婚約破棄されない
miniko
恋愛
平凡な女子高生が乙女ゲームの悪役令嬢に転生してしまった。
断罪されて平民に落ちても困らない様に、しっかり手に職つけたり、自立の準備を進める。
家族の為を思うと、出来れば円満に婚約解消をしたいと考え、王子に度々提案するが、王子の反応は思っていたのと違って・・・。
いつの間にやら、王子と悪役令嬢の仲は深まっているみたい。
「僕の心は君だけの物だ」
あれ? どうしてこうなった!?
※物語が本格的に動き出すのは、乙女ゲーム開始後です。
※ご都合主義の展開があるかもです。
※感想欄はネタバレ有り/無しの振り分けをしておりません。本編未読の方はご注意下さい。
お言葉を返すようですが、私それ程暇人ではありませんので
結城芙由奈@コミカライズ3巻7/30発売
恋愛
<あなた方を相手にするだけ、時間の無駄です>
【私に濡れ衣を着せるなんて、皆さん本当に暇人ですね】
今日も私は許婚に身に覚えの無い嫌がらせを彼の幼馴染に働いたと言われて叱責される。そして彼の腕の中には怯えたふりをする彼女の姿。しかも2人を取り巻く人々までもがこぞって私を悪者よばわりしてくる有様。私がいつどこで嫌がらせを?あなた方が思う程、私暇人ではありませんけど?
【完結】引きこもりが異世界でお飾りの妻になったら「愛する事はない」と言った夫が溺愛してきて鬱陶しい。
千紫万紅
恋愛
男爵令嬢アイリスは15歳の若さで冷徹公爵と噂される男のお飾りの妻になり公爵家の領地に軟禁同然の生活を強いられる事になった。
だがその3年後、冷徹公爵ラファエルに突然王都に呼び出されたアイリスは「女性として愛するつもりは無いと」言っていた冷徹公爵に、「君とはこれから愛し合う夫婦になりたいと」宣言されて。
いやでも、貴方……美人な平民の恋人いませんでしたっけ……?
と、お飾りの妻生活を謳歌していた 引きこもり はとても嫌そうな顔をした。
悪役令嬢?いま忙しいので後でやります
みおな
恋愛
転生したその世界は、かつて自分がゲームクリエーターとして作成した乙女ゲームの世界だった!
しかも、すべての愛を詰め込んだヒロインではなく、悪役令嬢?
私はヒロイン推しなんです。悪役令嬢?忙しいので、後にしてください。
自業自得じゃないですか?~前世の記憶持ち少女、キレる~
浅海 景
恋愛
前世の記憶があるジーナ。特に目立つこともなく平民として普通の生活を送るものの、本がない生活に不満を抱く。本を買うため前世知識を利用したことから、とある貴族の目に留まり貴族学園に通うことに。
本に釣られて入学したものの王子や侯爵令息に興味を持たれ、婚約者の座を狙う令嬢たちを敵に回す。本以外に興味のないジーナは、平穏な読書タイムを確保するために距離を取るが、とある事件をきっかけに最も大切なものを奪われることになり、キレたジーナは報復することを決めた。
※2024.8.5 番外編を2話追加しました!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる