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一章 女神と花冠の乙女

閑話 暗闇に紛れる

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暗く一筋の光さえも届かぬ、深海よりもまだ深い底があった。
目を閉じても開けても変わらぬ、己の身体すら視えぬ暗き底。
声も出せず眠る事すら無いこの場所で、許されるのは思考する事だけだ。
ーーー永遠の牢獄。
だが、五感を奪われ、身体の境界線もあやふやになり、意識が暗闇に同化しようとした時に、色鮮やかな景色を思い出した。
それからは自由に思うままに、思い出の中を巡った。
やがて、見知らぬ場所、物、不可思議に捩れる空間が次々と己の意識に触れ、他人の思考が聞こえた時、これは夢に触れているのだと悟った。
愉快だった。眠ことのない自身が、夢から夢へと渡り歩き、時折干渉しては壊れた魂達を喰らう。
そんな遊びにも飽きてきた頃、己に似た何かに触れた。
欲望に満ちた執着。凄まじい妄執が心地よい。女神の泉に招かれず、煉獄を彷徨った挙句にここで己に捕まるとは。
そして既に自我の無い、蠢くだけのソレをスルリと取り込む。

これはーーー面白い。

異物を取り込んだ故の思わぬ拾い物と、我ながらの思い付きに神を嗤う。


あの娘は中々使えそうだった。欲望に忠実で、愚かだ。
全ての空間に対して曖昧な境界線を持つ夢を渡る。
流された甘い夢が、毒だとも知らずに踊るは滑稽だった。

餌は既に投げ込まれているーーーーー釣られた魚はさぞ活き良く跳ねてくれるに違いない。









ふと見上げた夜空に月は無く、そういえば新月だったか?と神獣は首を傾げる。
雲も厚く、輝く星々も今夜は疎らだ。
夜目は効くが、小さな手足のなんと走り辛い事か。今少し星明りがあれば力を借りようものを。
あるいは陽の光。だが今は細い、月の女神の爪痕すら残らぬ夜闇の空。

未だ力が戻らぬ身。
記憶とて己が神獣であった事を思い出しただけだ。
夜露に濡れた毛並をフルッと震わせてひた走る。
先程迄見ていた光景に違う意味で、身の毛がよだつ。

もしやーーー力が使えない方が良かったのかも知れないと思い直す。
得体の知れない違和感。
脳裏に閃く直感を信じれば、やはりこの場を去る事が先決だった。

ーーー見つかる前に早く。まずいと。本能が囁く。

魔導ランプの揺れる光に浮かぶ娘の寝顔は安らかそのものだった。
だがーーーーーーその娘に張り付く無数の蟲影が、今神獣の短い手足を必死に動かしている。

漸く目当ての部屋が見えて来た時、安堵と共に疲労がどっと押し寄せてくる。

大まかに、王宮は政務を司り、後宮は王族の居住区とされている。大昔は後宮は男子禁制のハーレム要素が強かったが、二百年前に大改革がなされ、王族、后、妃達のプライベートなスペースの度合いが高い。
王宮の左右、西にあるのが西宮殿、賓客が利用する東宮殿。
これら全てが王城と呼ばれる。
神獣が疾く、駆けたのは、舞姫たちの居る西宮殿から後宮の奥、神官の私室だ。

ただの鼠ではないとはいえ、疲労はさもあろう。
息も整わぬままに、小さな小豆を頬袋から取り出す。
窓に二度、三度叩きつけ、招き入れられた瞬間、神獣はその場に突っ伏した。

「遅かったな•・・随分と収穫があったようだが」

すっと差し出されたのは淡い緑色の茶だ。心地よい香りに倦怠感が和らぐ。
少し温めの茶は喉の通りが良い。潤った頃には頭の芯も幾分解れた。

「ランジよ、怪異を貸せ。今の我はーーー蟲は喰えん。運びたい妖精もおる」

「フムーーー件の娘か、やはり」

ランジは、しれっと自分を呼び捨てにしてきた神獣をチラと見たが、数日前よりも違う気配に、なる程と思う。

「ここ数日は、群舞の練習が午後に必ずあった。個々の練習時には妖精達の動きに問題点は見当たらなんだ。だが、報告した通り、集団での練習時にはーーー」

一旦そこで言葉を切ると、神獣はこの先をどう伝えるべきか、数瞬迷った。

が、ランジが言を引き取った。

「集団時の方が一度に妖精達を手に入れやすい、か。他の舞姫に引き寄せられた妖精を奪えばいいのだからな。効率の問題か、の問題かは分からんが」

多くの妖精を集め、酔わせる。最初は気持ち良くなる程度だ。妖精達も舞が終われば在るべき所へ戻る。または帰る。
しかしーーーそれが続けば中毒になり、離れられなくなる。
健全さを失えばやがては変質し、堕ちる。

「まるで禁忌の邪香のようだな」

「当にそれよ。不審に思い、一日張り付いてみれば、娘の部屋には蟲に堕ちた妖精がおった。戻れなくなった契約妖精も、じゃ。」

「それで怪異共を使役するか。縄掛けの結界から出して、言う事を聞けば良いが、頭が痛いな。真面目に毛生え薬を考えなくてはならんな」

「ドワーフの髭は禿げぬ。気にするな。怪異共にはフィアに脅して貰えば良い。何故かフィアには揶揄いはしても逆らわぬ」

神獣はやや遠い目をして、先日の事件にそっと思いを馳せる。

麗らかな春先だった。
空気を入れ替える為の、分厚い壁の奥にある小窓を開き、虫除けの香を焚く。
履き清め、清涼な空間になる工程は気持ちが良い。
ーーーただ、フィアの使っていた掃除用具が。
モップの先に本来なら在るべき筈の雑巾はなく、そこには怪異がぶら下がっていたのだ。

綺麗になっていく床と、ウゴウゴ、ギャーと叫ぶ怪異達。
水の入ったバケツに怪異を容赦なくジャブジャブとぶち込み、足元の踏み板を踏みつつ麺棒が二つ重なった感じに挟まれ、ギュウギュウに絞られる怪異達。
物凄くいい笑顔のフィア。

神獣は思い出しただけで、ブワッと毛が膨らみブルブルと震えた。

「あああぁ。そうさな。真夜中過ぎに動いてもらう事になるがな•••仕方が無い、数日は泊まり込みしてもらうとしよう」

魔力が無い娘。ならばアレらも悪さは出来まいと、宝物庫付にしてもらったが、中々どうして。

「見掛けは、ぱっとしない地味な娘だが、一応、儂も付いて行くしな」

ランジが不埒者には手を出させんよ、と続こうとした所で、抗議の声が上がった。

「『はぁぁ!?』」

神獣と、何処に居たのかランジが契約している琥珀の妖精だ。
妖精はランジが首から下げている琥珀のペンダントの中にいたらしく、上半身をニュッと出して抗議している。

「あ、いや、整った顔立ちではあると思うが•••コラ、スイラン、出て来てはならんと言っただろうに。今はちょいと物騒だからーーー」

「信じられん!あれ程の美貌を地味と言うか!」

『そうよ!アタシ、あんな綺麗な子見た事無いわよ?花の神にだって引けを取らない位よ?』

「なんの為に我が張り付いて居たと!?有象無象に不埒な真似をさせぬ為でもあったのだぞ!」

下級女官が立入りを禁じられている廊下やスペースがあるのは、身分も理由だが、その身分を理由に無体を働こうとする輩に出会うのを、避ける側面もあるのだ。

側仕えや部屋付きと呼ばれる侍女や上級女官ならば位や身分も高い者が多く、又、そうではなくとも、お部屋様ーーー后や妃などの後ろ盾があるので、そうそう悪さは出来ないが。

ーーーフィアは下級女官だ。
あの美貌、本人は全く気にしていないが、同室の女官は何かと気を配っているのを知っている。

ーーーなのに、この神官ときたら。

「そ、そうか?まぁ、お前達には見えているのかーーー物好き、ああ、いや、そうだな、うら若き乙女だ。ちゃんと気を付けよう」

「フン、我もおるしのう」

『アタシだって!』

「「お前は隠れておれ!」」

力無き自称神獣は尻尾をーーー短いがーーーを巻いて逃げて来ただろうに、とはランジは口にしなかった。

代わりに深い溜め息をついた。
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