ガラスの向こうのはずだった

こうやさい

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彼女の過去を知りすらしない

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「にー」
 幼馴染みの少女が元気いっぱいに僕を呼ぶ。兄ではないのに小さな頃から「おにーちゃん」の略で「にー」と呼ばれていた。
 入院していた彼女が元気になったことは喜ばしい。
 ……そのはずだ。
 けれど苦い気持ちが湧き上がる。

 彼女は事故に遭った。そして脳が死んだ。
 他の臓器ならいくらでも細胞を培養して作れるが、脳だけはそうはできない。正確には作ることは出来るが記憶が引き継げない。
 なので彼女はそのまま死ぬはずだった。

 けれど科学の進歩は目覚ましい。
 直接脳に働きかけリアルな疑似体験をもたらす装置もある。一般的には娯楽用に思われているが、制限を外せばそれを現実と混同するではなく錯覚するほど強い影響を与えるらしい。
 もちろん偽の記憶を埋め込ませないために一般常識以外は確実な記録やそれに矛盾しない当人の日記などを含めごく近しい人の証言に基づいたものしか使えない。
 ご両親はそれにかけた。
 残っていた日記や持ち物や映像やらを再構成して、それを元に記憶を造りカプセルの中で眠っている彼女に疑似体験させた。

 ところでいくら娘を撮るのが好きな親でも四六時中張り付いているわけではないし年齢が上がれば行動を把握できる量も減る、日記にすべての出来事が心情とともに書かれているわけでもないしそもそも一見矛盾がなくとも本当のこととは限らない、持ち物だって本人が欲しくて持っていたとは限らないし入手した直後や捨てる寸前など状況や思い入れもいろいろある。
 今の彼女は以前よりも幼い、ご両親の認識していた性格と、ある意味で彼らの理想と、穴だらけの感情が伴わない記録でできている。けれど人間何もかもを覚えているわけではないし、都合よく記憶を作り変えることもある。適当につじつまを合わせある程度は不自然で無くなるのだろう。ご両親はそれでも満足なようだし。

 けれど僕は彼らが知らないであろうことを覚えている。

 想いを確かめあった日の夕立の勢いを。初めてキスをした時彼女の唇が冷たかったことも。
 親にとっては彼女はまだまだ子供で、恋人がいることなんて考えはしなかったのだろう。だからそのことを言えなかったのだろう。

 体は元のままで、似たような記憶の一部を持って、けれど彼女は彼女ではない。
 いっそすべて記憶がないまま方が僕は安らげただろう。
 自分は妹じゃないと突きつけてきた存在に兄と呼ばれるくらいなら。
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