僕を好きになった人

ユカ子

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僕を好きになった人

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 まだ起きなくてもいい。出勤時間にしては早い。もう少し眠っていたい。
 でも、僕の腰に回った手がそれを許してくれそうになかった。
「…まっ…まて…んはっ…」
 むき出しの肌は昨晩の行為の所為で敏感で、少しいじられただけですぐに火がついてしまう。感じやすいとは言われるけれど、こうして触れられると声も抑えきれない有様では、あまり嬉しくも無い。
 これが少し前までキスもろくに知らないヴァージンだったなんて、誰も信じてくれないだろう。ヴァージンなんて恥ずかしい単語は、僕から全てを奪っていったこの男が僕に言った言葉だ。
「哲平っ!もう…やめろって…!」
「昨晩は遅かったろ。フレックス使えよ…お前は仕事し過ぎてる」
 フレックスタイムは皆が好きに使っていたけれど、僕は朝は爽やかに出勤したいから、遅れて出勤した事がなかった。それを知ってる癖に、哲平は僕を甘やかせようとばかりしてくる。
「でも…部長に頼まれた…プレゼンの用意が……」
「あんなん急ぎでもねぇよ。先方との会議の予定がまだ決まってねぇんだからな」
 社内事情に僕より詳しい哲平は、次々と僕の言い訳を打破していく。
「ダメだっ…はっ…。僕は良くても…お前が…」
「俺は今日は取引先に直接向かうって連絡入れといたから、もう二戦は出来る余裕はあるよ」
 聞かなきゃよかった。つまり、哲平は後二回もやるつもりだと言うわけだ。朝っぱらからこんな破廉恥な事をと思わなくもないけれど、哲平とこんな関係になってからは、度々ある事だった。
 結局僕は負けてしまい、哲平と三度抱き合った。
 三度なんて!哲平の嘘つき!
 僕はフレックスタイムを取ってゆっくり腰を休めてから、昼過ぎに出勤する羽目になったのだった。

 僕らは付き合っているのだろうか、とは哲平に怖くて聞けなかった。会社ではろくに顔を合わせない。彼は中途採用のやり手の営業マンで、口八丁で次々と小さな会社を吊り上げてくる。僕らの会社は中小企業相手の、戦略マーケティングを得意とするコンサルティングだけでなく、
個人経営のリフォーム会社やレストラン等の小さなコンサルティング業務も請け負っている。 
 哲平が釣って来た客をまずはセミナーで口説き落として、その後で僕らの会社が顧問コンサルティングに収まると言った寸法だ。
 まずまずの打率で、哲平は他社にも受けが良かった。
 セミナーや営業部が使用しているパンフレットの作成が主に僕の仕事だから、時には哲平が僕の部署に来る事はあったけれど、あの夜みたいな大胆な真似はしてこない。手を振って、爽やかに自分を演出するぐらいだ。カミングアウトをしている癖に、僕の課の女子は皆哲平のファンになっちゃって、それまで首位を独走していたチーフは悔しそうだった。
 目立つような行為は避けているから、僕らが濃厚な裸の付き合いだなんて、誰も知らない。
 哲平が僕の家に来るのは、週に二、三度。社会人カップルにしては少し多めぐらいで、大きな喧嘩もなくて、平和だった。
 ただ、その平和は沈黙の上で成り立っている。会社では関係をおくびにも出さないし、二人きりの時だって、「愛している」なんて僕らは言わない。もっとも、そんな恥ずかしい言葉は日本人だったら滅多に口にしないだろうけど。
 それに僕は、まだ哲平をアイツと重ねて見てしまっていた。

 フレックスタイムで遅く出勤しても、誰も嫌味を言わなかった。僕がびくびくしすぎていただけで、皆は僕がやっと会社に慣れたのだと感じていたようだ。
「後藤田。次のセミナーまで少し時間があるから、お前も一度プレゼンに参加してみないか?」
「それは制作の仕事じゃありません…。僕にはアイディアなんて無いし…」
「でも、お前の作った図柄は分かりやすいって評判がいいぞ。うちのロゴだって、お前が作ってくれたじゃないか。想像力はあると思うぞ」
「有難うございます。一度考えておきます」
 定型的な謝辞を伝え、僕は企画部の課長の誘いを断った。プレゼンテーションなんて、僕に出来るわけがない。
 デザインをするのは好きだ。頼まれたアイディアと要望を一つの絵にしていく過程は面白い。でも、ゼロから作るのは苦手だった。あんな風に課長に褒められたのは初めてで、いつもどやされてばかりだったから、思い返して後でとても嬉しくなった。
 僕ってその時はあたふたしてるんだけど、後で気付くってパターンが多いかもしれない。
 少し浮かれてデスクに戻ってくると、たまたま哲平が社内にいて、僕を見つけてくれた。ニコリと笑って、珍しく僕からアクション取る。僕ってば、現金な奴だ。
 哲平は少し目を丸くして軽く驚いてから、笑い返してくれた。心なしか顔が赤いのは、エアコンの所為だろうか。ちらりと僕を見て咳払いをして、哲平は廊下に出て行った。少し間を置いてから、僕はその後を追いかけた。
 廊下にはもう哲平はいなかった。もしや僕が哲平のサインの意味をすぐに理解しなかった所為で、もう外回りに出てしまったのだろうか。
 廊下を数歩進んだ所で、腕を引っ張られて、女子便所に押し込まれた。哲平の手は素早く『清掃中』の札をかけるのを忘れなかった。奥の個室に引っ張り込まれて、哲平は僕の体を抱き締めて、深く唇を合わせてくる。
 ここが何処か分かってるのか!
 会社だ!しかも女子便所だ!
 冷静に考えればとんでもない状態なのに、僕は哲平のキスを抗えなかった。気分が良かったせいで、哲平とのキスがやたら嬉しくてしょうがなかったんだ。
 黙ってキスを受け入れて、哲平の首に手を回していると、哲平はあろう事か、僕の下半身へと手を伸ばしてきた。
 それはさすがにダメだ!
 僕は慌てるが、部屋みたいに声を出すわけにもいかない。清掃中と札をかけたって、女子がいつ乗り込んでくるか分からないんだから。
「…哲平…っ!」
 諌めるように小声で名を呼ぶと、ほんのり赤い頬の哲平がニヤニヤ笑って僕を見ていた。
「お前だって今俺が欲しいだろ?」
「オヤジ臭いセリフだぞ…それ」
「本心だもん」
「無理だ。夜まで待てよ」
「ちょっとだけ。なぁ、いいだろ。吾郎…。あんな顔見せられたら、人前だろうと構わずキスしたくなったんだから」
 人前でも構わずキスすればいいじゃないかと、一瞬思って僕は天を仰いだ。正確には、女子便所の天井を。
 会社内で男同士でキスなんてしてみろ!
 社会的に抹殺される!
 衝動を堪えて哲平は僕を女子便所に連れ込んだのだから、彼はまだ僕より冷静な判断が出来るらしい。当たり前のことだけど。
 僕が哲平の言葉に動揺してあれこれ考えている隙に、哲平は僕の顔じゅうにキスを落としながら、忙しなく僕の体をまさぐってくる。服越しに触られると、布が擦れて、ぞくぞくする。直接触れられないから、どうにももどかしい。
「吾郎…。少しだけ…お前に触らせてくれ」
「少しで済むのかよ…」
「フフフ」
 誤魔化しやがったな!この野郎、何処まで僕の体を触る気だろう。
 僕の返事を待たずに、哲平は勝手に僕のズボンの中に手を突っ込んできた。少しどころか、これじゃあ集中攻撃じゃないか。絶対我慢出来ない。僕は泣きたくなった。それを悟られたくなくて、哲平にしがみ付く。
 哲平は僕の唇に吸い付いて、ゆっくり手を動かせていった。
「ん…ふ…」
「…んん……くくく…」
 哲平がまた喉の奥で笑っている。それが無性に悔しくて恥ずかしくて、僕は知らず哲平の唇を噛んでいた。

 女子便所からこっそり抜け出して、赤い顔をなんとか抑えようと洗面所でバシャバシャ顔を洗っていると、後ろにタバコを銜えた哲平がじっと僕を見ているのに気付いた。
「まだいたのか。もう時間だろ?」
「ん」
 生返事だ。哲平の視線は僕の右側辺りを彷徨って、何やら考え込んでいる様子だ。
「哲平。疲れてんの?」
「いや…」
 様子がおかしい。いつもヘラヘラして、人前ではカラ元気全開の哲平だ。こんな風に人前であからさまに思い悩んでいる姿は見せた事がなくて、僕は少し心配になった。彼は何か心にトラブルを抱えているのかもしれない。
 こういう時、体のパートナーだったら、何も考えられなくさせるぐらいの濃厚な夜をプレゼントするのかもしれないけど、恥ずかしい話、僕はマグロだ。ろくな性戯を知らない。
 そう考えると、二重の意味で悲しくなった。
 こんなアイディアしか思いつかない僕。
 そして、それを実践出来ない僕。
 変に男同士のセックス相手と考えるから、気の使い方を間違えるのかもしれない。気心の知れた友人と思えば、自然と僕の口が開いていた。
「今週末、暇?」
「え」
 哲平が間抜けな声を出す。
 そりゃそうだろう。暇?なんて聞いた事はなかった。時間があれば、哲平は僕の家に来ていたわけで、特別に約束をする仲じゃなかった。お互い、随分な暇人だと今更ながらに気付いて、僕は照れてしまう。
 嫌だな、本当に僕らってセックスだけの関係だったんだなぁとしみじみ思ってしまった。
「予定がなかったら、車でどっか行かないか?」
「あ、あぁ…」
「場所は僕が決めとくよ。車なら実家にあるから」
「…有難う」
 ゴホンッと咳払いしながら哲平が言うと、僕は笑って手を振った。
「それぐらい、僕だって出来るよ」
 弾んだ口調で答えて、僕は背を向けた。やけに心が軽かった。今日は調子がいい日だ。
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