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2章
35話 おしごと!
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翌朝の帝城は、まだ冷たい石造りの匂いを残していた。
回廊に差し込む光は青白く、守衛たちの交代の気配だけが静かに揺れている。
二度寝のせいで寮食を食べ損ねたリュクスは、空腹を紛らわせながら執務室へ向かった。
食べないこと自体には慣れている。
だが――朝食を逃したことだけは、妙に悔しい。
定刻、扉を開けるとユリウスの姿はなく、レオンだけが書類の山を淡々とさばいていた。
恐ろしい処理速度。その前をゆっくり横切っただけで人の怠惰が照らされるようだ。
(……またソファで寝るか)
そう思った瞬間、レオンが書簡の山越しに声をかけた。
「こちらへ。あなたの席を用意してあります」
見れば、書記官机の横に一脚だけ椅子が増えており、周囲が几帳面に整えられている。リュクスは素直に腰を下ろした。
「へい」
返事が悪かったのか、レオンの眉がわずかに跳ねる。
だが彼は何も言わず、白い封筒を山のように積んで差し出した。
「ここに宛名を一通ずつ書いてください。まずは見本を」
レオンが手本の一文字目の位置を示すと、リュクスは肩を鳴らして封筒を手に取った。
「これ書くだけ?」
手際よく封筒にさらさらと宛名を書き進めながら、リュクスはふと顔を上げた。
「なあレオン。
……こんな簡単な仕事で給金や寮にまで入れてもらっていいの?」
言い放つ声音は、悪気がないぶん刺さる。
その無邪気さは、ときに刃より容赦がない。
レオンは手を止めた。
「ここではレオン書記官とお呼びください」
「レオン書記官」
レオンは静かにペンを置き、淡々と答えた。
「簡単かどうかではなく、責務の所在です。
あなたに任されたのは“帝城の公文”です。
……軽率であってよい仕事など、ひとつもありません」
リュクスは何も言わなかった。
そしてまたペンを取るが、半刻も経たぬうちに、リュクスはふと手を止め、周囲を見回した。
やがて足元の箱を一つ拾い上げ、ためらいなく分解する。薄い段ボールを平らに伸ばし、その中から一番大きな面を抜き取った。
何をするのか、とレオンが視線だけを向ける。
リュクスは切り取った板を封筒に重ね、宛名の位置に合わせて器用に数ヶ所をくり抜いていく。
その“枠”を封筒に当てれば、書き出しの高さも左右の余白もずれなく決まる仕組みだ。
「……型紙、か」
レオンは小さく呟いた。
リュクスは意に介さず、型紙を固定し、無駄のない筆運びで宛名を量産していく。
考えるべき点を最小限にし、手間を削り、精度だけを残す。
1日分と思った仕事は昼までかからずあっという間に終わった。
レオンはその所作や宛名を確認しながら、微かな戦慄を覚えていた。
宛名の文字は、訓練された文官や貴族よりも整っている。
位置のバランスも完璧で、まさに稀に見る達筆だった。
しかも力みがない――“素の状態でこの水準”。
「リュクスはおそらく扱いが難しい。しばらくお前に任せる」
前夜の陛下の言葉が脳裏をよぎる。
(……扱いが難しい、とは。まったく、その通りだ)
「レオン書記官、他の仕事は?」
宛名の山をあっさり片づけられ、レオンは一瞬だけ目を瞬かせた。
予備の仕事など考えていなかったのだ。
「……ひとまず昼食へ行きなさい。午後は別の分を用意します」
レオンはそう促し、午後にはさらに高く積み上がった封筒の山を用意していた。
*
リュクスは軍寮へ戻り、夕食まで部屋でごろごろと横になっていた。
宛名書きは楽な仕事だが、妙に肩が凝る。
それでも、この一人部屋は清潔で静かで、寝台は柔らかく――何ひとつ不満がなかった。
夕食の時間、食堂に入る。
だが唯一の知り合いであるルーカスの姿はどこにもない。
代わりに、視線だけが妙に刺さってくる。
今日は特に話し声が多く、ちらちらとこちらを見やる兵が目についた。
とりあえず一番端の席で食べ始める。
すると、椅子の音とともに、影がひとつ隣に落ちた。
見上げれば――
先日、ルーカスとともに歩いていた“でかい”兵が腰を下ろしていた。
「やあ」
低い声が短く落ちる。
圧のある体格に似合わず、その挨拶はどこか素朴で不器用だった。
「リュクスっていうんだってね」
「そーだよ」
リュクスが返事をすると、兵はじっとこちらを観察してくる。
「……この間と雰囲気がまったく違うね。その礼装、すごく素敵だ。似合ってるし……」
「あぁ、今日は勤務だったから」
そこでようやく、注目の理由に合点がいった。
軍の中で、ヴァルター閣下さながらの華美な“軍服風の礼装”を着て歩いていれば、そりゃ目立つ。
(寮で着る服も用意しないとな……)
そう思いながら、リュクスはひき肉たっぷりのボロネーゼを山盛り平らげ、スープ類をトレーに全種類載せていた。
今日は遠慮する気がまったくない。野菜は一つも取らなかった。
「野菜も食べないとダメだろ?」
隣の兵が妙に真顔で言ってくる。
「うるさい」
リュクスが睨むと、なぜか兵は「はははっ」と嬉しそうに笑った。
(……奇妙な奴)
すると、今日のデザートのぶどう――小皿に盛られたそれを、後ろの席にいた“腕の太い”兵が小皿ごと差し出してきた。
「……あんがと!」
にこ、と笑って受け取ると、兵は照れくさそうに頭をかいた。
(なんだ? ここでは何しても喜ばれるのか?
外界から遮断されてるから、新しい刺激が嬉しいのかもしれない)
結局、ぶどうの小皿を辺りから三皿もらい、すっかり満腹になってから食器を下げた。
昨日は簡単に水浴び場で済ませたが、しっかり疲れをとるため、今日は湯殿へ行くつもりだ!
回廊に差し込む光は青白く、守衛たちの交代の気配だけが静かに揺れている。
二度寝のせいで寮食を食べ損ねたリュクスは、空腹を紛らわせながら執務室へ向かった。
食べないこと自体には慣れている。
だが――朝食を逃したことだけは、妙に悔しい。
定刻、扉を開けるとユリウスの姿はなく、レオンだけが書類の山を淡々とさばいていた。
恐ろしい処理速度。その前をゆっくり横切っただけで人の怠惰が照らされるようだ。
(……またソファで寝るか)
そう思った瞬間、レオンが書簡の山越しに声をかけた。
「こちらへ。あなたの席を用意してあります」
見れば、書記官机の横に一脚だけ椅子が増えており、周囲が几帳面に整えられている。リュクスは素直に腰を下ろした。
「へい」
返事が悪かったのか、レオンの眉がわずかに跳ねる。
だが彼は何も言わず、白い封筒を山のように積んで差し出した。
「ここに宛名を一通ずつ書いてください。まずは見本を」
レオンが手本の一文字目の位置を示すと、リュクスは肩を鳴らして封筒を手に取った。
「これ書くだけ?」
手際よく封筒にさらさらと宛名を書き進めながら、リュクスはふと顔を上げた。
「なあレオン。
……こんな簡単な仕事で給金や寮にまで入れてもらっていいの?」
言い放つ声音は、悪気がないぶん刺さる。
その無邪気さは、ときに刃より容赦がない。
レオンは手を止めた。
「ここではレオン書記官とお呼びください」
「レオン書記官」
レオンは静かにペンを置き、淡々と答えた。
「簡単かどうかではなく、責務の所在です。
あなたに任されたのは“帝城の公文”です。
……軽率であってよい仕事など、ひとつもありません」
リュクスは何も言わなかった。
そしてまたペンを取るが、半刻も経たぬうちに、リュクスはふと手を止め、周囲を見回した。
やがて足元の箱を一つ拾い上げ、ためらいなく分解する。薄い段ボールを平らに伸ばし、その中から一番大きな面を抜き取った。
何をするのか、とレオンが視線だけを向ける。
リュクスは切り取った板を封筒に重ね、宛名の位置に合わせて器用に数ヶ所をくり抜いていく。
その“枠”を封筒に当てれば、書き出しの高さも左右の余白もずれなく決まる仕組みだ。
「……型紙、か」
レオンは小さく呟いた。
リュクスは意に介さず、型紙を固定し、無駄のない筆運びで宛名を量産していく。
考えるべき点を最小限にし、手間を削り、精度だけを残す。
1日分と思った仕事は昼までかからずあっという間に終わった。
レオンはその所作や宛名を確認しながら、微かな戦慄を覚えていた。
宛名の文字は、訓練された文官や貴族よりも整っている。
位置のバランスも完璧で、まさに稀に見る達筆だった。
しかも力みがない――“素の状態でこの水準”。
「リュクスはおそらく扱いが難しい。しばらくお前に任せる」
前夜の陛下の言葉が脳裏をよぎる。
(……扱いが難しい、とは。まったく、その通りだ)
「レオン書記官、他の仕事は?」
宛名の山をあっさり片づけられ、レオンは一瞬だけ目を瞬かせた。
予備の仕事など考えていなかったのだ。
「……ひとまず昼食へ行きなさい。午後は別の分を用意します」
レオンはそう促し、午後にはさらに高く積み上がった封筒の山を用意していた。
*
リュクスは軍寮へ戻り、夕食まで部屋でごろごろと横になっていた。
宛名書きは楽な仕事だが、妙に肩が凝る。
それでも、この一人部屋は清潔で静かで、寝台は柔らかく――何ひとつ不満がなかった。
夕食の時間、食堂に入る。
だが唯一の知り合いであるルーカスの姿はどこにもない。
代わりに、視線だけが妙に刺さってくる。
今日は特に話し声が多く、ちらちらとこちらを見やる兵が目についた。
とりあえず一番端の席で食べ始める。
すると、椅子の音とともに、影がひとつ隣に落ちた。
見上げれば――
先日、ルーカスとともに歩いていた“でかい”兵が腰を下ろしていた。
「やあ」
低い声が短く落ちる。
圧のある体格に似合わず、その挨拶はどこか素朴で不器用だった。
「リュクスっていうんだってね」
「そーだよ」
リュクスが返事をすると、兵はじっとこちらを観察してくる。
「……この間と雰囲気がまったく違うね。その礼装、すごく素敵だ。似合ってるし……」
「あぁ、今日は勤務だったから」
そこでようやく、注目の理由に合点がいった。
軍の中で、ヴァルター閣下さながらの華美な“軍服風の礼装”を着て歩いていれば、そりゃ目立つ。
(寮で着る服も用意しないとな……)
そう思いながら、リュクスはひき肉たっぷりのボロネーゼを山盛り平らげ、スープ類をトレーに全種類載せていた。
今日は遠慮する気がまったくない。野菜は一つも取らなかった。
「野菜も食べないとダメだろ?」
隣の兵が妙に真顔で言ってくる。
「うるさい」
リュクスが睨むと、なぜか兵は「はははっ」と嬉しそうに笑った。
(……奇妙な奴)
すると、今日のデザートのぶどう――小皿に盛られたそれを、後ろの席にいた“腕の太い”兵が小皿ごと差し出してきた。
「……あんがと!」
にこ、と笑って受け取ると、兵は照れくさそうに頭をかいた。
(なんだ? ここでは何しても喜ばれるのか?
外界から遮断されてるから、新しい刺激が嬉しいのかもしれない)
結局、ぶどうの小皿を辺りから三皿もらい、すっかり満腹になってから食器を下げた。
昨日は簡単に水浴び場で済ませたが、しっかり疲れをとるため、今日は湯殿へ行くつもりだ!
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