帝は傾国の元帥を寵愛する

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2章

36話 湯

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 リュクスは着替えを抱え、案内冊子を片手に自室を出た。
 礼装の上着を置いてきたので、ひとまず目立つ心配はない。

 湯殿らしき場所の前に立つと、入口は二つ。
 一方はざわつき、もう一方は妙に静かだった。
 リュクスは迷いなく後者を選び、扉を押し開けた。

 脱衣所は思ったよりも狭い。
 誰もいないのをよしとして、彼は衣服を脱ぎ捨て、隠しもしないまま洗い場へ。
 手早く身を清め、湯へ向かった瞬間──湯の中には先客がいた。

「……誰?」

 訝しげな低い声が湯気の奥から響く。

「どうも」

 リュクスは肩の力の抜けた返事をした。
 湯気が濃く、視界は曖昧だ。

 先客は湯の奥にいたため、リュクスは手前に腰を沈めた。
 湯温が肌に染み、思わず肘を縁にかけ、目を細める。

 そのとき──奥の影がゆっくりと近づいてきた。
 リュクスは気にも留めない。だが、近づいてきた男は息を呑んだ。

「……また、お前」

 その声に、リュクスは顔を上げた。

 その相手は、湯気越しでも一目で“只者ではない”と分かる身体つきだった。
 腹筋は板のように割れ、胸筋は隆起し、腕はしなやかで、筋肉の線が一つ残らず浮き彫りになっている。
 そして目前、下腹部にあるものの質量は──ただただ圧倒的だった。

「でかっ……」

「どこ見てるの」

 リュクスはようやく男の顔に視線を戻した。
 服を着ていれば気づかない。だが脱いだ途端、彼は獣じみた成熟した色気を放っている。ルーカスだった。

「なんでお前がここにいる」

「え?だめなの?」

「駄目。
ここは少将位以上の個別湯。予約制だし扉にボードがあっただろ」

「ああ、なるほど。だから誰もいなかったのか。……悪い、明日から気をつけるよ」

 素直な謝罪。

 そう言ってリュクスは縁に腰かけ、熱で火照った肩を湯気にさらした。

 その瞬間、ルーカスは凍りついた。

 リュクスの白い首筋は桃色に染まり、鎖骨の曲線が妙に艶めいている。
 だが――腕、腹、そして背中。

 服では隠されていた部分に無数の折檻の跡が、痛ましいほど刻み込まれていた。

その身体を目にした瞬間、ルーカスから微かな殺気が立ちのぼった。
 湯気越しでも隠しようのない、鋭い気配。

 リュクスは理由もわからぬまま腕を掴まれ、ぐいと湯の中へ戻される。
 次の瞬間、指先が自分の胴をなぞるのを感じた。
 
「……っ? な、何?」

 リュクスは声を裏返らせたが、振りほどかなかった。

「この傷跡は何」

 低く押し殺した声。
 明らかに怒っているのに、その対象はリュクスではない。

「ああ? べつに大したことじゃない。よくある怪我だ!」

ルーカスの視線は背中から外れていなかった。ひとつひとつの傷を見られている気がして、
リュクスは肩まで湯に浸かった。

ルーカスが口をひらく。

「そう。……なら、隣の湯には入らないで」

「は?なんで?」

「……お前は、俺の名前がある時間にここへ入ればいい」

「……へ?」

「見せたくないでしょ、誰にも」

「……いいの?」

返事の代わりに、ルーカスはリュクスの身体を優しく包み込んだ。 
その抱擁は温かいにもかかわらず、そこには一切の劣情が感じられない。

(……。)

だが、リュクスは根拠のわからない行動を、手放しで信じられるほどのんびり生きてきたわけではない。

(な、なに?そういう目的?ルーカスが俺をそういう目で見てるってこと?)

湯気の中、リュクスが盗み見たルーカスの横顔は、どこまでも真剣だった。

……それでもリュクスは、その真偽が知りたくて、確かめようとそろりと手を伸ばしてみた。
それはルーカスの腰元あたりに滑らせ、そこに隠されたものが緊張しているか否かを確かめるための行動だった。

だが、手は簡単にルーカスに捕らえられる。

「……この手は何してるの」 
「えっ!」 
「そういう趣味なの」 
「ちがう!」

ルーカスは大胆にもその手を掴んだまま、目的のものに添えさせた。

「これでいいの」 
「……」

ずっしりとしたそれは、力なく垂れたままびくともしていない。


……リュクスは頭の先まで湯に浸かりたくなった。



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