帝は傾国の元帥を寵愛する

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2章

51話 ルーカスの光

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リュクスは、胸が苦しくなるほど息を詰めていた。

待ちすぎた。考えすぎた。
不安を煮詰めすぎて、もう疲れていた。

扉が開き、靴音が止まる。

「いい子にしてたか」

ルーカスの声が落ちてきた瞬間、胸の奥に張りつめていた何かが、音もなくほどけた。

それでも、リュクスは布団に潜ったままでいた。

ルーカスはためらいなく布団を剥ぐ。

「どうしたの」

「……べつに」

外套に残った冷気が、伏せたままのリュクスの肌に触れる。ルーカスは静かに髪を撫でた。

「顔見せて」

リュクスはゆっくりと起き上がる。視線は合わない。
だが、考える暇もなく指先が触れ、気づけば互いを抱き寄せていた。

ルーカスの唇が、額に、頬に、首筋に落ちてくる。灯りの落ちた室内で、近いのは互いの呼吸だけだった。

全身を、確かめるように。

――リュクスはその温もりで限界に達した。 
心から安堵してこんなに嬉しいのに、同時に死ぬほど怖い。
いつか他の誰かに奪われるくらいなら、失うくらいなら、初めからないほうがいい。
リュクスは、逃げ道のない一番重い要求まじないを心に浮かべる。

「……ルーカス」

名を呼び、リュクスは一度、深く息を吸った。喉が少し、ひりつく。

「あのさ……」
「どうしたの」

声音は、驚くほど柔らかい。軍人のそれではなく、ただの男の声だった。

「俺、お前と結婚したい」

室内の空気が、一瞬、止まった。

「お前が死んだ時、一番に連絡が欲しい。お前に関わる権利を、全部、俺が持ちたい」

窓の外で、風が鳴った。

「……お前は、俺を自分のものにしたくない?」

ルーカスは、確かに驚いていた。だが、笑って誤魔化すつもりはないらしい。

「したい」

即答だった。

「じゃあ、何とかして」

言葉は、逃げ場を与えなかった。

沈黙。
キスは止み、ルーカスはただ、リュクスを見下ろしている。
影が顔に落ちて、その表情は読みづらい。

「……できないなら」

声が、わずかに震えた。

「もう、俺に構わないで。ルーカス……自分の部屋に帰って、考えてよ」

突き放すような言葉に、ルーカスは一瞬、面食らった顔をした。だがすぐにその表情は静まる。彼は何も言わず、荷物を手に取った。

扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。

(……これでいい。俺は、そんなに人に深入りするべきじゃないんだ)

リュクスは、もう一度布団を頭から被った。
外の音も、時間も、何も考えないために。

眠れるはずがないことは、わかっている。
それでも目を閉じ、呼吸だけを数えた。
思考が動き出す前に、無理やり押し殺すように。

考えたら、終わってしまう。
あの背中も、あの声も、あの温度も。

布団の中は息苦しく、胸が痛む。
それでも、起き上がることだけはしなかった。
夜が過ぎるのを、ただ待っていた。
どのくらい時間が経ったかわからない。

――そのとき。

扉が、静かに開いた。
リュクスは反射的に飛び起きる。

水浴びをしたのか、髪はまだ少し濡れている。身なりを整え、何事もなかったかのように、ルーカスは戻ってきた。

いつも通り、当然のように隣に座り、腕を回す。

「……俺の話、聞いてた?」
「うん」
「じゃあ、くっつかないで」
「どうして」
「俺は――」

遮るように、ルーカスが告げる。

「何も問題ない」
「……は? 俺は真面目に言ってるんだ。離れろ」
「駄目」
「なんでだよ! 大きい声出すぞ!」
「暴れるな」

低く、揺れない声。軍令のようでもあり、すべてを抱きとめる声でもあった。

「俺は、お前と結婚するから」
「……は?」
「だから問題ない」
「は???」

リュクスはルーカスの顔を覗き込む。

「俺、男だぞ?」
「知ってる」
「お前、貴族だろ」
「そうだけど」
「……認められないだろ」
「なら家を出る」

迷いのない即答だった。

「どこでだって稼ぐ自信はある。お前が何もしなくても、毎日飯を食わせる。体も、一緒にいれる日は毎日ちゃんと綺麗にしてやる」

腕に力がこもる。背中に回された手が、逃げ道を消す。

「俺はお前といたい」

言い切ったその声に、淀みはなかった。リュクスは言葉を失い、ただ瞬きをする。

――面食らった。本当に、それだけだった。

こんな重い選択を、こんな静かな顔で、即答されるとは思っていなかった。飼い主ぶっているこの男は、自分の首輪の綱を、何の迷いもなく差し出してきたのだ。

「愛してる。結婚しよう」

囁きが、胸の奥に落ちる。リュクスは、じわりと頬を染めた。

「……うん」

ルーカスの涼しげな瞳の奥に、確かな情熱が灯っているのが見えた。

ぎゅっと抱きしめあって、ルーカスの温もりが身体中の全てを包み込んだ時、やっと自分が何を言って、受け入れられたのかを理解した。

そうするとふつふつと、また不安が湧き出る。

「で、でも……俺たち、知り合ったばかりだろ……」
「何がいけないの」

リュクスが返事を言い淀むと、立て続けに言葉が続く。

「お前は俺の」
「……違う!お前が俺のだ」
「それでもいい」
「……」
「可愛い」

リュクスはもう、何も言えない。
ルーカスのその眼差しには、迷いも、躊躇も、逃げもなかった。

夜は深く、長い。

ルーカスはリュクスを寝台に横たえ、額に、頬に、静かな口づけを落とした。その優しさに、リュクスは心が溶かされてしまう。

だが、今夜は優しいだけでは終わらない。

髪を撫でられ、耳朶に触れられ、首筋へと唇が降りてくる。指先が胸元へ下り、衣が解かれていくたび、リュクスの呼吸は浅くなる。

露わになった肌。
そこに刻まれた傷痕を見つけるたび、ルーカスは一つずつ、丁寧に口づけを落としていく……。





あの日、遠方任務の夜。焚き火の爆ぜる音が、闇を裂いていた。

ルーカスが炎の向こうに見つめていたのは、まさにリュクスのことだった。

誰かに依存しなければ保てないほど、ルーカスの精神は脆くはない。一人で生きる術なら、いくらでもある。

それでも。

――早く帰りたい、と思った。
あの細い背中を、抱きしめたい。

それは彼が人生で初めて下した、最も強欲な選択だった。

リュクスのいない世界でも生きてはいける。けれど、リュクスのいる世界の方が、ずっといい。

リュクスという光。
ルーカスは既に、それを選び取る覚悟をしていたのだ。


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