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3章
56話 控室にて
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冷たく澄んだ空気の中に、緊張感が糸のように張り詰めていた。
豪奢な鏡に映るその姿は、一分の隙もない。
帝の隣に並ぶに足る「飾り」――。
不完全であるがゆえに、かえって見る者の目を奪うその危うい美しさは、歴史の1ページに刻まれるべき完成度を誇っていた。
レオンは、その様子を傍らで見守りながら、ようやく悟った。
ユリウスが、先ほどから執拗にリュクスの不備を指摘していたのは、決して彼を責めるためではない。
ただ、史上に残すべき記録が、一瞬でも「不完全」であることを許せなかったのだ。
つまり――リュクスは、完全に「選ばれて」しまった。
及第点とは、すなわち死か生か、そのどちらか。
運命の針は今、リュクスの命運を辛うじて「生」のほうへ指し示している。
それを理解した瞬間、レオンの背筋に冷たい汗が伝った。
(……この子は、陛下に気に入られているのではない。使われているのだ)
そのためなら、ユリウスは金も労力も厭わない。
最高の素材を、最高の形で飾り立てる。そして本人は、その地雷原を裸足で走るような危うさを理解した上で、ただ静かに微笑んでいる。
「……あと少しだな」
ユリウスは手元の時計に視線を落とすと、一度だけリュクスに冷徹な眼差しを向けた。
それは感想ではなく、機械の進捗を確認するような響きだった。
「レオン。指導しておけ」
「ええ、ただいま」
レオンは一歩前に出る。その声には私情を排し、平坦な響きを保たせた。
「リュクス。本日の舞踏会において、あなたは帝の随行です。立場としては、皇后の代わり――そして、これまでヴァルター閣下が担っていた位置に相当します」
そこで一度、言葉を切る。
若すぎる青年の瞳を真っ直ぐに見据え、突き放すように告げた。
「まず理解してください。その時間、あなたは私人ではありません」
はっきりと、区切る。
「公人です。正確に言えば――機械です」
淡々と、容赦のない説明が続く。
「陛下の視線、間、呼吸の変化から意図を汲み取ること。会話が長引けば、自然に割って入り、袖を引く。次に相応しい人物を即座に選別し、道を作る。飲み物に気を配り、時間を把握し、微笑むべき相手と、切り上げるべき相手を即座に判断する」
「……」
「重要な会話が始まれば、あなたは離れます。その場に“入らない方がよい者”を引き受けるためです。
レオンの鋭い視線が、リュクスのまとう宝石のような装束をなぞった。
「……そのための、この華美な礼装です」
「あなたは、場の潤滑油であり、同時に視線の防波堤です。
誰もがあなたの姿から目を離せず、その一挙手一投足に意識を割かれなければならない。
ですが、同時に――あなたが決して越えられない壁であることを、その場にいる全員に分からせる必要があります」
一拍置き、さらに声を低くして命じる。
「憧憬を抱かせなさい。ですが、親愛は抱かせるな。
あなたがそこに微笑んで立っているだけで、凡俗な貴族どもに自分などが話しかけていい相手ではないと、本能で理解させるのです」
「……」
「感情は不要です。判断は即座に。迷いは見せない。 ――できますね」
それは問いではなかった。絶対の命令だ。
だが、リュクスは一瞬の躊躇もなく、柔らかく微笑んだ。
「承知いたしました」
その声はどこまでも滑らかで、震えひとつない。
レオンは内心で、思わず息を詰めた。
(――本当に、この子は)
理解している。それも、教えられる前からすべてを。
ユリウスはその返答を確認すると、すでに興味を次の事項へと移していた。
「ただし――ひとつ問題があります」
レオンはわずかに声を落とした。これは運用上の、実務的な警告だ。
「あなたは貴族たちの顔をまだ把握しきれていない。ですから、判断に迷う場合は――必ず、私に目線をください。私が判断します。誰で、どの派閥で、どこまで許容できる相手か」
そして、一際厳格な表情で念を押した。
「……もう一点。ここが最重要です。軍寮で出来た知り合いと、目配せひとつ交わすことも許されません。
挨拶も、頷きも、視線も、です」
「……」
「その場において、あなたの目線は――帝の目線と見なされます。
それはすなわち、政治の目線です。贔屓している、特定の派閥と繋がっている……そう受け取られれば、誰にも得はありません。そこだけは、本当に頼みますよ」
珍しく強い語気に、リュクスが素直に問い返す。
「……では、ユリウス陛下やレオン書記官には話してよろしいのですか?」
その問いに、レオンは思わず絶句した。
「私に?! ……いえ、陛下に対してもです!」
思わず跳ね上がった声を、レオンは必死に整える。
「私に話す必要はありませんし、陛下に対しても同様です! 用があればこちらから告げます。あなたは頷くか、必要なら耳元で一言だけ伝えてください。あなたが口を開くのは、“帝の代弁者として必要なとき”だけです」
「……理解しました」
そのあまりに即座で、一切の気負いがない承諾。
それがかえって、レオンの胸に拭いきれない不安を植え付けた。
そのとき――背後から「ははは」と、乾いた笑い声が鼓膜を打った。
レオンはぎょっとして振り返る。 それは冗談を笑う声ではない。ユリウスが極上の玩具を見つけたとき、あるいは予期せぬ獲物が罠にかかったときに見せる、残酷なまでの好奇心の色だった。
豪奢な鏡に映るその姿は、一分の隙もない。
帝の隣に並ぶに足る「飾り」――。
不完全であるがゆえに、かえって見る者の目を奪うその危うい美しさは、歴史の1ページに刻まれるべき完成度を誇っていた。
レオンは、その様子を傍らで見守りながら、ようやく悟った。
ユリウスが、先ほどから執拗にリュクスの不備を指摘していたのは、決して彼を責めるためではない。
ただ、史上に残すべき記録が、一瞬でも「不完全」であることを許せなかったのだ。
つまり――リュクスは、完全に「選ばれて」しまった。
及第点とは、すなわち死か生か、そのどちらか。
運命の針は今、リュクスの命運を辛うじて「生」のほうへ指し示している。
それを理解した瞬間、レオンの背筋に冷たい汗が伝った。
(……この子は、陛下に気に入られているのではない。使われているのだ)
そのためなら、ユリウスは金も労力も厭わない。
最高の素材を、最高の形で飾り立てる。そして本人は、その地雷原を裸足で走るような危うさを理解した上で、ただ静かに微笑んでいる。
「……あと少しだな」
ユリウスは手元の時計に視線を落とすと、一度だけリュクスに冷徹な眼差しを向けた。
それは感想ではなく、機械の進捗を確認するような響きだった。
「レオン。指導しておけ」
「ええ、ただいま」
レオンは一歩前に出る。その声には私情を排し、平坦な響きを保たせた。
「リュクス。本日の舞踏会において、あなたは帝の随行です。立場としては、皇后の代わり――そして、これまでヴァルター閣下が担っていた位置に相当します」
そこで一度、言葉を切る。
若すぎる青年の瞳を真っ直ぐに見据え、突き放すように告げた。
「まず理解してください。その時間、あなたは私人ではありません」
はっきりと、区切る。
「公人です。正確に言えば――機械です」
淡々と、容赦のない説明が続く。
「陛下の視線、間、呼吸の変化から意図を汲み取ること。会話が長引けば、自然に割って入り、袖を引く。次に相応しい人物を即座に選別し、道を作る。飲み物に気を配り、時間を把握し、微笑むべき相手と、切り上げるべき相手を即座に判断する」
「……」
「重要な会話が始まれば、あなたは離れます。その場に“入らない方がよい者”を引き受けるためです。
レオンの鋭い視線が、リュクスのまとう宝石のような装束をなぞった。
「……そのための、この華美な礼装です」
「あなたは、場の潤滑油であり、同時に視線の防波堤です。
誰もがあなたの姿から目を離せず、その一挙手一投足に意識を割かれなければならない。
ですが、同時に――あなたが決して越えられない壁であることを、その場にいる全員に分からせる必要があります」
一拍置き、さらに声を低くして命じる。
「憧憬を抱かせなさい。ですが、親愛は抱かせるな。
あなたがそこに微笑んで立っているだけで、凡俗な貴族どもに自分などが話しかけていい相手ではないと、本能で理解させるのです」
「……」
「感情は不要です。判断は即座に。迷いは見せない。 ――できますね」
それは問いではなかった。絶対の命令だ。
だが、リュクスは一瞬の躊躇もなく、柔らかく微笑んだ。
「承知いたしました」
その声はどこまでも滑らかで、震えひとつない。
レオンは内心で、思わず息を詰めた。
(――本当に、この子は)
理解している。それも、教えられる前からすべてを。
ユリウスはその返答を確認すると、すでに興味を次の事項へと移していた。
「ただし――ひとつ問題があります」
レオンはわずかに声を落とした。これは運用上の、実務的な警告だ。
「あなたは貴族たちの顔をまだ把握しきれていない。ですから、判断に迷う場合は――必ず、私に目線をください。私が判断します。誰で、どの派閥で、どこまで許容できる相手か」
そして、一際厳格な表情で念を押した。
「……もう一点。ここが最重要です。軍寮で出来た知り合いと、目配せひとつ交わすことも許されません。
挨拶も、頷きも、視線も、です」
「……」
「その場において、あなたの目線は――帝の目線と見なされます。
それはすなわち、政治の目線です。贔屓している、特定の派閥と繋がっている……そう受け取られれば、誰にも得はありません。そこだけは、本当に頼みますよ」
珍しく強い語気に、リュクスが素直に問い返す。
「……では、ユリウス陛下やレオン書記官には話してよろしいのですか?」
その問いに、レオンは思わず絶句した。
「私に?! ……いえ、陛下に対してもです!」
思わず跳ね上がった声を、レオンは必死に整える。
「私に話す必要はありませんし、陛下に対しても同様です! 用があればこちらから告げます。あなたは頷くか、必要なら耳元で一言だけ伝えてください。あなたが口を開くのは、“帝の代弁者として必要なとき”だけです」
「……理解しました」
そのあまりに即座で、一切の気負いがない承諾。
それがかえって、レオンの胸に拭いきれない不安を植え付けた。
そのとき――背後から「ははは」と、乾いた笑い声が鼓膜を打った。
レオンはぎょっとして振り返る。 それは冗談を笑う声ではない。ユリウスが極上の玩具を見つけたとき、あるいは予期せぬ獲物が罠にかかったときに見せる、残酷なまでの好奇心の色だった。
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