帝は傾国の元帥を寵愛する

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3章

58話 舞踏会

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大広間の重い扉が開かれた瞬間、喧騒は一息に凪ぎ、冷たい静寂が降りた。
ユリウスが歩を進める。
その半歩後ろ――影のように、しかし鮮烈な存在感を伴って、リュクスが続いた。
リュクスの歩みは、教え込まれた通り、音もなく滑らかだ。
指先には、あの巨大なダイアモンドが冷たい光を宿している。
「……誰だ、あれは」
「美麗だ…」
「ヴァルター閣下の代わりか? あまりに、若すぎる」
「まるで、意志のある宝石ではないか」
さざめきが波のように広がる。
リュクスは、そのすべてを無視した。
視界の端で、ユリウスの肩がわずかに動く。
呼吸が深い。
――退屈している。
察するのに、時間は要らなかった。

向こうから、肥満体の伯爵が卑屈な笑みを浮かべて近づいてくる。
言葉を発するより早く、リュクスは音もなく、その進路へ滑り込んだ。
「陛下、マクシミリアン卿があちらでお待ちです」
嘘ではない。
事前にレオンから渡された「優先順位」に基づいた、正当な誘導だ。
リュクスは伯爵へ向け、氷のように冷たく、それでいて拒絶を感じさせない完璧な微笑を返す。
「伯爵、のちほど改めて」
伯爵は気圧されたように足を止めた。

リュクスの首元、薄く施された白粉の下に隠された「痕」など、誰の目にも映らない。
今の彼は、帝の意志を体現する、ただの美しい障壁だった。

その舞踏会には、ルーカスも招かれていたらしい。
彼は軍属の仲間と共に会場の端にいたが、ユリウスが現れた瞬間、そこから突き刺さるような視線がリュクスの背中に刺さっていた。

だが、今のリュクスは一度も彼を見ようとしない。
ルーカスだけではない。軍寮で日々顔を合わせ、言葉を交わす仲間たちが、驚愕と戸惑いの眼差しを向けてきているのを肌で感じる。
けれど、リュクスの瞳は鏡のようにそれらを撥ね付け、何も映さなかった。
ただ、ユリウスが動く方向だけを、冷徹なまでに正確に見据え続ける。

(……ごめん、ルーカス。今は、「リュクス」じゃないんだ)

心の中で一度だけ毒づき、リュクスは主君の影に徹した。

ふいに、ユリウスが足を止めた。
扇を弄ぶ公爵夫人との会話が、わずかに長引く。
リュクスは背後に立ち、静かに、その袖を引いた。
指先のダイアモンドが、公爵夫人の視界を奪うように閃く。

「……陛下。お時間のようです」
その声は甘く、しかし決定的な断絶を含んでいた。
ユリウスは、わずかに口角を上げる。
振り返ることなく、その指先が作った「間」を楽しむように、優雅に夫人から身を引いた。

「……どうしてだろうな?お前は勘がいいようだ」
独り言のような低い声。
それは、確かにリュクスにだけ向けられていた。

「陛下。ご要望があればおっしゃってください」
リュクスは微笑む。
そこに「リュクス」という個人の感情は、もはや一片も残っていない。

だが――
次にすれ違った貴族と、ユリウスが視線を交わした瞬間。
リュクスの指先が、わずかに震えた。
――その先にいたのは。
北方の有力貴族、エドワード伯爵。
柔和な笑みを浮かべ、忠実な臣下を装いながら、その瞳の奥には底知れない濁りを宿している。
一瞬だけ。
リュクスの心臓が、鐘のように高く鳴った。

「陛下、本日の宴、まことに壮麗でございますな」
恭しく頭を下げた後、エドワードの視線は、主君の影に控えるリュクスへと移る。
親愛を装った、支配的な視線。

レオンの言葉が脳裏をよぎる。
――「あなたの目線は、帝の目線と見なされます」
ここで動揺すれば、疑念を招く。
無視しすぎれば、かえって執着を露呈する。
リュクスは、本当に一瞬だけ、視線を受け流すように微笑んだ。
それはレオンが教えた、「切り上げるべき相手」に向ける、機械的な拒絶の微笑。

「……陛下。新しいシャンパンを」
言葉を遮るように、至近距離で耳元に囁く。
会話を終わらせるための潤滑油であり、同時に壁。
それでもエドワードは、恍惚とした表情を崩さなかった。
礼をとって去ろうとした、その瞬間。
彼はリュクスの横をすり抜け、礼装のスラックスのポケットへ――何かを忍ばせた。

ユリウスは、ふっと鼻で笑う。  
嘲りとも、怒りともつかぬ、短い呼気。
彼はグラスを回しながら、場を一瞥する。

誰が見て、
誰が欲を滲ませ、
誰がそれを隠しているか。
すべて、把握した上で。
リュクスの背に回した手に、わずかに力を込める。

そしてユリウスは、
視線の端に捉えていた人物のもとへ歩み寄った。

「ルーカス少将。楽しんでいるか?」
「お招きいただき、感謝します」
ルーカスは即座に、深い最敬礼で応じる。
「先の災害支援では、随分と働いたそうだな。隣国からも、名指しで礼状が届いている」
その言葉と同時に、ユリウスはリュクスの腰へ手を回した。
衆目の中で誇示される、あからさまな独占。

「そうだ、リュクス。紹介しよう。
帝国軍の若きエース、ルーカス少将だ。武道会で見かけただろう。挨拶を」
リュクスは、初対面のような表情で一礼する。
「ルーカス少将、リュクス・エリオットがご挨拶します。以後、お見知り置きを」
「……ルーカス・スローンズです。こちらこそ」

形式だけをなぞるような敬礼。
そこに、彼の感情は現れていない。
挨拶が終わってもユリウスは去らず、
リュクスの指にはめられた大きなダイアモンドを撫でてみせる。
まるで、それが寵愛の証であるかのように。

「ああ、せっかくだ。
リュクスと一曲踊ってもらえないか、ルーカス。
このような場は、リュクスは初めてでな」
リュクスは押さえつけられるがままユリウスの胸元に身を寄せ、冷徹に思考する。

――陛下は、何をしようとしてるんだ?

額を一筋の冷たい汗が伝った。
帽子を直す仕草で目線を隠し、誰にも見えない角度で、そっとルーカスを伺う。
彼の手は強く握り締められ、関節が白く浮き上がっていた。
どう振る舞うべきか、リュクスは周囲にレオンの姿を探したが、先ほどまで側にいたはずの姿はどこにもない。

夜は、まだ始まったばかりだった。  







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