帝は傾国の元帥を寵愛する

tii

文字の大きさ
63 / 104
3章

60話 エール?

しおりを挟む
まったく、陛下は人使いが荒い。
だが――可愛い教え子のためと思えば、致し方ないか。
レオンは一人執務室に戻ると、抱えていた分厚い資料を、机に置いた。
どさり、と鈍い音が響く。
さて、と彼が作業に取りかかろうとした矢先。
「失礼します」
一人の侍女が控えめに入室してきた。
差し出された小さなメモを受け取り、目を走らせると、レオンは小さく頷いた。
「はいはい、これですね」
その内容を私物の手帳に書き留め、メモはファイルにきっちりと挟み込む。
(残業どころか、徹夜になるか。さすがにそれは回避しなければな……)
レオンは机脇の置き時計へと視線をやった。
(上手くやれていると良いのですが)
口には出さず、胸の内でだけリュクスの身を案じる。
「あ、すみません。宿の手配と、それから……」
侍女に手早く追加の指示を出すと、レオンは再び分厚い資料へと手を伸ばした。





どれほど集中していたのか、本人にもわからなかった。
控えめなノックの音が、まるで遠くから響いたかのように感じられた。
顔を上げた瞬間、レオンははっとする。
すでに二時間ほど経過していた。舞踏会が終わる頃合いだ。
そこへ、リュクスがほとんど足を引きずるようにして入室し、ソファへ身を投げ出した。顔色は紙のように白く、肩で息をしている。
「リュクス、大丈夫ですか?」
侍女が慌てて駆け寄り、水差しを置いて、美しい礼装のジャケットを脱がせる。
布が擦れる音にさえ、リュクスはかすかに眉を寄せた。
「……つかれた……」
その声は、言葉というよりは漏れ出た吐息のようだった。
少し遅れて、ユリウスが戻ってくる。
冷たい外気を纏ったその気配が、室内の空気を一瞬で引き締めた。
「お疲れ様です、陛下」
「お疲れ……様です……」
リュクスは残った理性と気力を振り絞り、どうにか形ばかりの挨拶を返す。
「はは、もうへばっているのか。少し歩いただけだろう」
からかうような声に対し、リュクスにはもう取り繕う余力もなかった。
力なく「はは……」と笑うのが精一杯だ。
侍女がユリウスにも水を差し出す。
「リュクス。お前は、なかなかだな」
「……それは、ありがとうございます」
「及第点だ」
その一言で、レオンは即座に悟った。
ユリウスの目に浮かんでいるのは、純粋な評価と、わずかな愉悦。
「体力もない、身長も低い。見た目も前任者には劣るが――」
リュクスは噛み付く気力すら失い、なんとでも言ってくれとばかりに項垂れている。
だが、ユリウスは続けた。
「帝都を探しても、お前と同じ歳でここまでやれる者はいないだろうな」
リュクスは顔を上げ、わずかに目を見開いた。
褒められている。しかも、飾り気のない本音で。
「そうなんですよ、陛下!リュクスはできる子なんです」
レオンの言葉に、ユリウスは低く笑った。
リュクスは急に恥ずかしくなり、誤魔化すように水を手に取った。
だが、今の気分は水ではない。
もっと喉にガツンとくる、エールのようなものを流し込みたい気分だった。
そう思った、その瞬間。
「……エール飲みたい……」
驚くほどはっきりと、本音が口から漏れていた。
「ん? エールか?」
それを拾ったのは、妙に機嫌の良いユリウスだった。
楽しげに片眉を上げ、侍女へ顎で合図する。
侍女はすぐに察して頷くと、壁際のセラーへと向かった。
扉の奥から取り出された一本の瓶。そのラベルを見たレオンは、内心で息を呑んだ。
用意されたのは、繊細なシャンパングラスが二脚。
リュクスはソファに沈んだまま、不思議そうにそれを眺めていた。
(エール、ではない気がするけど……)
「リュクス、こっちへ来い」
ユリウスに呼ばれ、覚束ない足取りで立ち上がる。
示された椅子に、素直に腰を下ろした。
「注げ」
侍女から瓶を渡され、リュクスはそれを両手で受け取った。
ユリウスの前にあるグラスに、黄金色の液体が静かに満ちていく。
泡立ちは極めて細かく、音すら立てない。
一脚をユリウスから手渡される。
ユリウスは軽くグラスを掲げると、そのまま一息に飲み干した。
リュクスも恐る恐る、口をつける。
――瞬間、世界が変わった。
鼻腔を抜ける芳醇な香り、舌の上で弾けるきめ細やかな泡。
喉を通るまで、一切の雑味がない。
「……うまっ!!!」
思考より先に、叫びが漏れた。
リュクスは目を見開き、勢いよくユリウスを見る。
その瞳は、先ほどまでの疲労が嘘のように輝いていた。
(若者というのは、実に現金なものだ)
レオンがそう苦笑する傍らで、リュクスは興奮を隠せない。
「これは……!」
「知らないのか。ドン・ペリニヨンだ」
「おいしすぎる……!」
帝の前であることも忘れ、淑やかな演技もどこかへ消え失せていた。
あまりに素直な反応だ。
ユリウスはその様子を好ましげに眺めていたが、その瞳はふと、今ここではない遠くを映した。
ついこの間まで――この味を分かち合う者がいた。
喜びを共有し、共に歩んでいたはずの者。
そして、自らの手で遠ざけ、傷つけた存在。
その記憶が、一瞬だけ脳裏をかすめる。
この酒は、その者が好んでいたもの。
だからこそ、この庫に蓄え、そして――開けられずにいた。
ユリウスは何事もなかったかのように、再びグラスを口に運んだ。
リュクスはそんな事情など知る由もなく、満足げに飲み進める。
「気に入ったか」
リュクスは満面の笑みを向けた。
「ええ!」
「……だが。こうして共に働き酒を交わす者どうしならば、隠し事はない方がいいだろう」
ユリウスの視線が、静かに動く。
「なあ、レオン?」
「……それは、もちろん」
リュクスは突然のその発言に固まった。
この場の空気が天国なのか地獄なのか、判断がつかない。
目の前の二人は、自分より十は年上だ。勘の鋭さや立ち回りだけで太刀打ちできる相手ではない。
帝国を支える至高の知略と、その右腕。
二人の間に立たされているという事実が、急激に重くのしかかる。

「リュクス。お前はエドワードという者を知っているな。……そうだろう?」

静寂の中、リュクスの心臓の音は、きっと二人にも聞こえている……。




しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

氷の檻に閉じ込められた月~兄上のすべては、私のもの~

春野ふぶき
BL
『兄上は私のものだ。魂も、肉体も。永遠に―—』 アーヴェント侯爵家の長男ライカは、妾腹として正妻に虐げられ続けてきた。 唯一の救いは、次期当主を目される異母弟カイエンの存在。 美しく聡明で、氷の騎士と呼ばれる彼だけは、常にライカの味方だった。 だが、その愛情は兄を守るものではなく、深く歪んだ執着だった。 母を排除し、兄を囲い込み、逃げれば鎖で捕らえる。 そしてついに、ライカの心身は限界に追い詰められていく。 ——カイエンが下す「最後の選択」とは。 ふたりが辿る結末は、幸福か、それとも狂気の果てか。

まおうさまは勇者が怖くて仕方がない

黒弧 追兎
BL
百年前に現れた魔王によって侵攻が行われたアルキドセ王国。 国土の半分を魔物の支配下とされてしまったアルキドセ王国の国王はやむなく、国土を分断した。 ------------- 百年後、魔王の座は孫へと譲られていた。 「あー、だる……座り心地悪すぎだろ、」 しかし、譲られた孫であるセーレに魔王の素質はなく、百年間城にも攻めに来ない勇者に驕りきっていた。 ------------- その日、魔王城に戦慄が走った。 勇者が魔王城まで攻め入ったのだ。 「ひ、ひっ……!、よ、よくきたなぁ、っゆうしゃ!」 血の滴る剣を持ち、近づく勇者に恐怖で震えるセーレに与えられたのは痛みではなく、獣の皮の温かな感触だった。 「っかわいい……俺のものにする、っ」 「ぁ、ぇひ!やだやだやだっ、ひ、ぃい……」 理解できない勇者の言葉は死に怯えるセーレを混乱させ、失神させた。 ___________________ 魔王に一目惚れで掻っ攫う溺愛勇者       × 言動が理解できない勇者が怖い卑屈な名ばかり魔王 愛をまっすぐ伝える勇者に怯える魔王のすれ違い、らぶらぶストーリー。

運命の番ってそんなに溺愛するもんなのぉーーー

白井由紀
BL
【BL作品】(20時30分毎日投稿) 金持ち‪社長・溺愛&執着 α‬ × 貧乏・平凡&不細工だと思い込んでいる、美形Ω 幼い頃から運命の番に憧れてきたΩのゆき。自覚はしていないが小柄で美形。 ある日、ゆきは夜の街を歩いていたら、ヤンキーに絡まれてしまう。だが、偶然通りかかった運命の番、怜央が助ける。 発情期中の怜央の優しさと溺愛で恋に落ちてしまうが、自己肯定感の低いゆきには、例え、運命の番でも身分差が大きすぎると離れてしまう 離れたあと、ゆきも怜央もお互いを思う気持ちは止められない……。 すれ違っていく2人は結ばれることができるのか…… 思い込みが激しいΩとΩを自分に依存させたいα‬の溺愛、身分差ストーリー ★ハッピーエンド作品です ※この作品は、BL作品です。苦手な方はそっと回れ右してください🙏 ※これは創作物です、都合がいいように解釈させていただくことがありますのでご了承くださいm(_ _)m ※フィクション作品です ※誤字脱字は見つけ次第訂正しますが、脳内変換、受け流してくれると幸いです

[BL]憧れだった初恋相手と偶然再会したら、速攻で抱かれてしまった

ざびえる
BL
エリートリーマン×平凡リーマン モデル事務所で メンズモデルのマネージャーをしている牧野 亮(まきの りょう) 25才 中学時代の初恋相手 高瀬 優璃 (たかせ ゆうり)が 突然現れ、再会した初日に強引に抱かれてしまう。 昔、優璃に嫌われていたとばかり思っていた亮は優璃の本当の気持ちに気付いていき… 夏にピッタリな青春ラブストーリー💕

病み墜ちした騎士を救う方法

無月陸兎
BL
目が覚めたら、友人が作ったゲームの“ハズレ神子”になっていた。 死亡フラグを回避しようと動くも、思うようにいかず、最終的には原作ルートから離脱。 死んだことにして田舎でのんびりスローライフを送っていた俺のもとに、ある噂が届く。 どうやら、かつてのバディだった騎士の様子が、どうもおかしいとか……? ※欠損表現有。本編が始まるのは実質中盤頃です

のろまの矜持 恋人に蔑ろにされすぎて逃げた男の子のお話

月夜の晩に
BL
イケメンエリートの恋人からは、雑な扱いばかり。良い加減嫌気がさして逃げた受けくん。ようやくやばいと青ざめた攻めくん。間に立ち塞がる恋のライバルたち。そんな男の子たちの嫉妬にまみれた4角関係物語です。

うちの魔王様が過保護すぎる

秋山龍央
BL
主人公・折本修司(オリモトシュウジ)は転生恩恵女神様ガチャにはずれて異世界に転生して早々、つんでいた。 「異世界で言葉が分かるようにしてくれ」と頼んだところ、相手の言葉は分かるが自分は異世界の言葉は喋れない状態となり、 「平和な国に転生したい」と頼んだところ、平和で治安のいい国に転生をすることはできたものの、そこは人間のいない魔族だけの国だったのである。 困っていた主人公の元に、異世界の"魔王"である紅の髪と角を持つ男があらわれて―― 「まさか――そっくりだとは思ってたけれど、お前、本当にシュウなのか?」 異世界転生魔王様×異世界転生主人公 幼馴染年下攻めだけど年上攻めです

強制悪役劣等生、レベル99の超人達の激重愛に逃げられない

砂糖犬
BL
悪名高い乙女ゲームの悪役令息に生まれ変わった主人公。 自分の未来は自分で変えると強制力に抗う事に。 ただ平穏に暮らしたい、それだけだった。 とあるきっかけフラグのせいで、友情ルートは崩れ去っていく。 恋愛ルートを認めない弱々キャラにわからせ愛を仕掛ける攻略キャラクター達。 ヒロインは?悪役令嬢は?それどころではない。 落第が掛かっている大事な時に、主人公は及第点を取れるのか!? 最強の力を内に憑依する時、その力は目覚める。 12人の攻略キャラクター×強制力に苦しむ悪役劣等生

処理中です...