帝は傾国の元帥を寵愛する

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3章

69話 胆力

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執務室の空気は、肺の奥まで重く沈み込ませるような圧迫感に満ちていた。
冷や汗を流しているのは、当事者のリュクスだけではない。
レオンもまた、喉元までせり上がる不安を飲み込み続けていた。

なぜなら、ユリウスが質問を投じる時、それはすでに裏付けが取れている時だからだ。
もし、ここでしらを切ってしまったら。 
おそらくリュクスがその後どんな弁解を並べようと、二度と許されることはない。
この執務室へ足を踏み入れることさえ叶わなくなるはずだ。

レオンは下唇を噛んで見守る。
祈りにも似たその数秒間で、胃に穴が開きそうなほどの重圧を感じていた。

「……はい」  
リュクスの声は、驚くほど静かに響いた。
彼の胆力は相当なものだった。
酒を持つ手は微塵も震えず、シャンパングラスの酒面は凪いだままだ。
あまつさえ、答えた後で再び口をつける度胸すらあった。

リュクスは今、辺り一面に広がる地雷原を、勘だけを頼りに裸足で駆け抜けたのだ。

しかし、無情にも時間は過ぎる。
 「……すみません、私はここで失礼します!」 
レオンが声を上げた。
 「リュクス、宿の手配は済んでいます。後ほど侍女の案内を受けてくださいね」
レオンはリュクスの頭を撫でてやりたい衝動に駆られたが、後ろ髪を引かれる思いで執務室を後にした。
彼には、成すべき仕事がある。 
書記官には不釣り合いな二名の近衛を伴い、馬車に乗り込んで向かった先。

そこは、”リュミエール” という名の、うらぶれた安酒場だった。



「『知っている』、か」

ユリウスは、崩さない微笑の奥でリュクスをじっと見据えていた。

「ははは! お前は本当に勘がいい。……何より、生きる術をよく知っている」

愉快そうに目を細め、ユリウスは言葉を続ける。

「今日はご苦労だったな。この件については、また追って連絡することにしよう」

リュクスは今の一瞬、たった一言によって――明確に自分の立ち位置を変えた。 
エドワードを捨て、ユリウスの懐に飛び込む意志を示したのだ。
だが、本人には全くその野心も意図もない。
ただ真っ直ぐに真実を告げただけだった。

その後、リュクスは侍女の案内に従い、馬車に揺られて宿へと向かった。
用意されていたのは、帝都でも指折りの最高級宿。
到着を告げられ、蓄積した疲労を逃がすようにあくびをひとつ落としたリュクスは、ゆっくりと馬車を降りた。  
  
その直後だった。 リュクスの乗った馬車のすぐ後ろへ、物々しい護衛に固められた重厚な黒塗りの馬車が滑り込んだのは。  
先行する護衛の馬車から、護衛には不釣り合いなほど豪奢な礼装を纏った若い騎士が降り立った。 
その騎士は、鋭い眼光で辺りを一瞥し、危険がないか確認を取る。その動きに淀みはない。  
だが、宿の前で一人立ち尽くす若者の背中が視界に入った瞬間、騎士の眉がわずかに動いた。  
その時、自らが守護する馬車の扉が開いた。
現れたのは、この帝国の支配者、ユリウス・フォン・エーレンベルク。

「すまないな、ルーカス。急な配置変えで護衛の手が足りず、お前にまで声がかかってしまった」
「……問題ありません」

感情を殺した声で応じたものの、ルーカスの指先は剣の柄を割りそうなほど強く握りしめられていた。
 先ほど宿の中へ消えていったのは、間違いなく、彼のリュクスだ。
リュクスがこの宿に案内されたのは、ユリウスの指示に違いない。
だが、問題はその「先」だ。 
ユリウスは、リュクスが消えていったのと全く同じ足取りで、迷いなく宿の入り口へと向かう。

「……陛下。御着到先は、こちらで間違いありませんか」

側を歩きながら、たまらずルーカスが問いかけると、ユリウスは足を止めず背中越しに愉快そうな声を投げた。

「ああ。ご苦労だった」

その言葉に、ルーカスの脳裏に最悪の推測が奔った。 
まさか、同じ部屋に?そんなわけがない……。  
この絶対的な支配者は、舞踏会で見せびらかし独占するだけでは飽き足らず、夜の静寂までをも、リュクスと過ごそうというのか。

リュクスの姿は、もう見えない。

そして今、自分たちの主君でありルーカスにとって「捕食者」にしか見えないこの男が、その愛しい背中を追って同じ屋根の下へ、同じ密室の圏内へと踏み込んでいく。

ルーカスは、帝の背後で激しい動悸を抑えつけた。 
護衛として、自分は陛下の寝所の扉の外までしか行けない。
その扉の向こう側で、リュクスがどのような目に遭うのか――。

「……っ」

主君を見送るその瞳には、忠誠心とは似て非なる焼けるような独占欲と、最愛の男を奪われかねないという剥き出しの危機感が渦巻いていた。

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