帝は傾国の元帥を寵愛する

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3章

73話 ルシアン・メルキオール

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冷え冷えとした石造りの回廊に、場違いなほど軽やかな靴音が響いた。
「遅いですよ、ルシアン殿」
筆頭書記官レオンは手にした書類から視線を外さずに言った。
その眉間には、消えることのない深い皺が刻まれている。
対して、現れた男――帝国外交官ルシアン・メルキオールは、南方の太陽を吸い込んだような小麦色の肌を優雅に揺らし、艶然と微笑んだ。
「おや、手厳しい。これでも休暇を切り上げて飛んできたんだ。南の島はよかったよ。君のような『仕事の鬼』には毒だろうがね」
「……仕事です。エドワード伯爵の身柄、地下の未決監へ移送済みです」
レオンは無愛想に革張りのファイルを押し付ける。
ルシアンはそれを指先で摘まむように受け取ると、パラパラと中身を流し読み、ふっと鼻を鳴らした。
「ふうん……あの伯爵か。以前からなんだか臭うと思っていたんだ。
休暇明けのデザートにしては、いささか脂っこくて胃にもたれそうだ」
「贅沢を言わないでください。陛下のご機嫌を損ねた不敬な輩です。骨までしゃぶって、全てを吐かせろとの仰せです」
淡々と告げるレオンを、ルシアンは細められた瞳でじっと見つめた。
その視線は、外交官の愛想笑いではなく、獲物の急所を探る「詰問官」のそれだ。
「……了解だよ、レオン書記官。しかし君は、まだ筆頭書記官なんて地位に甘んじているのかい?」
ルシアンが一歩、足を踏み出す。
たった一歩。それだけで、レオンの背筋に冷たいものが走る。
「君こそ帝国の頭脳だ。法務と実務、政務の全てを理解し、完璧に回している。帝都でも数人しか持たぬ一級法務官のバッヂが泣いているよ?」
「……はいはい、何度も言いますが」
レオンは表情を鉄面皮に固定し、一歩も引かずに応じた。
「私は生涯、陛下の側近でいたいので。余計な出世は邪魔なんです」
「素晴らしい"愛"だ」
ルシアンがくすりと笑う。その甘い声が、レオンの鼓膜を撫でるように侵食する。
「その報われない"愛"には感服するよ。まるでヘテロが夢想する『肉体なき婚姻(マリアージュ)』だね。清らかすぎて、僕なら窒息してしまう」
「……ッ、さっさと仕事してください! エドワード伯爵がお待ちですよ!」
たまらず声を荒げると、ルシアンは満足げに肩をすくめた。
その瞳から、瞬時に「日常」の色が消え失せ、冷酷な「仕事」の光が宿る。
「フ、わかったよ。……またね、働き者の子猫ちゃん」
ひらりと手を振り、ルシアンは踵を返した。
だが、重厚な扉に手をかける直前、ふと思い出したように足を止める。
彼は小脇に抱えた銀色のアタッシュケースを持ち上げ、その硬質な表面を愛おしげに指先で叩いた。
「ああ、そうそう。レオン書記官」
振り返ったその顔は、聖職者のように穏やかで――だからこそ、おぞましかった。
「二日……いや、三日だ。地下は人払いを頼むよ、それからーーー僕がしゃぶるのは骨じゃない、と陛下に伝えてくれ」
ルシアンは楽しげに、まるで休暇の延長を申請するような軽さで告げた。
「フ、彼と深く語り合うには、それくらい必要だろうからね」
その言葉の意味を理解し、レオンの喉がひくりと鳴る。
三日。
この男は、あのケースの中身を使って、エドワードという人間を「三日かけて」解体カウンセリングするつもりなのだ。
「……承知、しました」
「感謝するよ」
重い扉が開き、ルシアンの背中が闇の奥へと消えていく。
閉ざされた扉の向こうから、甘い南国の花の香りと、微かな――血のような鉄の匂いが漂ってくる気がした。
(ふざけた男だ……だが)
レオンは知っている。
あの男は、敵に回すにはあまりに恐ろしすぎる。
もし彼が「敵」として対峙し、その「問い」を向けられたなら。
レオンは、半径一メートル以内に近づかれただけで、その身にまとう捕食者の香りを嗅いだだけで――きっと、赤子のように泣き出してしまうだろう。
それは感情ではない。
圧倒的な強者の前で、生物としての本能が警鐘を鳴らし、生存を諦める涙だ。
「……味方でよかったですよ、本当に」
誰にともなく呟き、レオンは再び分厚い書類の山へと視線を落とした。
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