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3章
75話 硝子の瞳
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レオンは帝都の筆頭書記官として、常に重圧を背負っている。
二重、三重に張り巡らされたチェック機能の最後の一線を担う彼は、毎日が分刻みの激務であり、ある意味では帝よりも多忙を極めていると言っていい。
ゆえに、レオンの判断は一歩遅れた。
リュクスの異変に気づくまでに、一月あまりの時間を要したのだ。
それは決して、レオンが彼を軽んじていたからではない。
一緒に働いているここ数ヶ月、二人は共に執務室にいても私語ひとつない日が珍しくなかった。
一方が別の会議で議事録を取り、一方が決済に追われ、顔を合わせることなく一日が終わることもあった。
完璧に整えられた身なり、滞りなく処理される書類、定刻通りの食事。
リュクスが「有能な部下」としてあまりに淡々と職務をこなしていたからこそ、その裏側にある欠落に気づけなかった。
「……リュクス?」
ふとした拍子に、レオンは呼びかけた。
いつもなら、腹が減ったやら、あるいは生意気な質問が返ってくるはずだった。
だが、向けられたのは視線だけだった。
言葉が返ってこない。
もう一度名を呼ぶと、彼はわずかに瞬きをし、小鳥のように首を傾げた。
まるで――音のない、ガラス越しの世界にいるかのように。
「今日は、ここまでにしましょうか」
早上がりを促しても、リュクスは小さく頷くだけだ。
いつもなら大仰に喜ぶはずの彼が、今はただ、不自然なほどの静寂を纏っている。
胸を衝く不吉な予感に、レオンはすぐさま宮廷医を呼び寄せた。
診察を終えた医師は、深く沈痛な面持ちで口を開いた。
「肉体的な異常はありません。ただ……これは心因性の拒絶反応。重度の『自家中毒』に近い状態です」
本来は幼子に見られる、精神的負荷が身体へと噴き出す現象。
「過去に積み重なった恐怖と痛みの記憶が、処理の許容量を超えて溢れ出したのでしょう。心が壊れるのを防ぐために、彼は『感情』そのものを遮断してしまった。悲しみも、怒りも、喜びも。それらを表に出すためのエネルギーが、彼の中には一滴も残っていないのです」
レオンは奥歯を噛み締めた。
ルシアンが調べ上げたリュクスの凄惨な生い立ち。
彼がどれほどの毒を飲み込み、「大丈夫だ」と耐え続けてきたか。
その抑圧の歳月が、今、限界を迎えたのだ。
「……ですが、なぜ仕事や食事はこなせるのですか?」
「生存のための『防衛本能』が、彼をオートモードに切り替えたからでしょう」
医師は悲しげに目を伏せた。
「今の彼は、長年の習慣をなぞるだけの自動人形と同じです。食事を摂り、命じられた仕事をこなす。それは彼にとって『安全を確保するための生存プログラム』に過ぎません。そこに、彼の『心』は介在していないのです」
「……回復の兆しは」
「時間が必要です。下手に刺激せず、ただ寄り添って休ませてください。感情が戻るかどうかは……彼自身が、もう一度世界と向き合いたいと願うかどうかにかかっています」
医師が去った後、執務室には重い静寂が降りた。
リュクスは椅子に座ったまま、空になった瞳で窓の外を眺めている。
いつからだろうか。
おそらく、あの舞踏会がきっかけだろう。
あまりの重圧に心が折れたのか。
あるいは、エドワードとの密かな関係が露見すれば、即座に処分されるという恐怖に突き動かされたのか。
リュクスの心の奥底に広がる闇の正体は、誰にも分からない。
レオンは散らばった書類を静かに片付けながら、ぽつりと呟いた。
「……君は、よく耐えすぎましたね」
返事はない。
レオンは不慣れな行為に少し迷ったが、リュクスを壊れ物に触れるように、ふんわりと抱きしめた。
いや、その細い身体を腕で囲った、と言うべきか。
ーー過去を、抱えていたものを何も知らなかったとはいえ。
ーー結果的に、私という存在もまた、君をここまで追い込んだ責任の一端を担っている。
腕の中に伝わる、微かな体温。
そこに確かに「人」が存在していることだけは、疑いようのない事実のはずなのに。
リュクスの中から一切の色彩が消えた。
ただ――彼は、空(から)になった。
*
翌日の昼下がり、ルーカスが執務室に呼び出された。
そこには主君ユリウスと、筆頭書記官レオン。
二人の間に漂うのは、事実を切り分けるための、刺すような緊張感だった。
「座れ、ルーカス。……リュクスの件だ」
ユリウスの双眸が、氷の刃となってルーカスを射抜く。
「医師の見立ては心因性反応。だが――原因が特定できていない。貴公、何か知っているな」
ルーカスは応えず、静かに目を伏せた。
帝都随一と謳われた「清廉潔白な騎士」の仮面。
そんなものは、もうとうの昔にひび割れている。
名誉や忠誠など、今の彼には紙屑ほどの価値もなかった。
それよりも、彼が選び取ったのは泥の中に咲く、ひと塊の蓮の花。
その、たわわに実った禁断の果実を愛で、指先でつまみ、あろうことか口にしてしまった。
喉を焼くような、甘い毒。
それを自分だけが飲み下した瞬間の、背徳的なまでの悦び。
ルーカスはゆっくりと顔を上げ、主君の視線を真っ向から受け止めた。
その瞳の奥には、後悔など微塵もない。
愛する者を壊した一端が自分にあるというのなら、その罪こそが、永遠に自分をリュクスと繋ぎ止める鎖になるのだ。
汚れなき騎士の殻を脱ぎ捨て、彼はただ、一人の「男」としてそこにいた。
二重、三重に張り巡らされたチェック機能の最後の一線を担う彼は、毎日が分刻みの激務であり、ある意味では帝よりも多忙を極めていると言っていい。
ゆえに、レオンの判断は一歩遅れた。
リュクスの異変に気づくまでに、一月あまりの時間を要したのだ。
それは決して、レオンが彼を軽んじていたからではない。
一緒に働いているここ数ヶ月、二人は共に執務室にいても私語ひとつない日が珍しくなかった。
一方が別の会議で議事録を取り、一方が決済に追われ、顔を合わせることなく一日が終わることもあった。
完璧に整えられた身なり、滞りなく処理される書類、定刻通りの食事。
リュクスが「有能な部下」としてあまりに淡々と職務をこなしていたからこそ、その裏側にある欠落に気づけなかった。
「……リュクス?」
ふとした拍子に、レオンは呼びかけた。
いつもなら、腹が減ったやら、あるいは生意気な質問が返ってくるはずだった。
だが、向けられたのは視線だけだった。
言葉が返ってこない。
もう一度名を呼ぶと、彼はわずかに瞬きをし、小鳥のように首を傾げた。
まるで――音のない、ガラス越しの世界にいるかのように。
「今日は、ここまでにしましょうか」
早上がりを促しても、リュクスは小さく頷くだけだ。
いつもなら大仰に喜ぶはずの彼が、今はただ、不自然なほどの静寂を纏っている。
胸を衝く不吉な予感に、レオンはすぐさま宮廷医を呼び寄せた。
診察を終えた医師は、深く沈痛な面持ちで口を開いた。
「肉体的な異常はありません。ただ……これは心因性の拒絶反応。重度の『自家中毒』に近い状態です」
本来は幼子に見られる、精神的負荷が身体へと噴き出す現象。
「過去に積み重なった恐怖と痛みの記憶が、処理の許容量を超えて溢れ出したのでしょう。心が壊れるのを防ぐために、彼は『感情』そのものを遮断してしまった。悲しみも、怒りも、喜びも。それらを表に出すためのエネルギーが、彼の中には一滴も残っていないのです」
レオンは奥歯を噛み締めた。
ルシアンが調べ上げたリュクスの凄惨な生い立ち。
彼がどれほどの毒を飲み込み、「大丈夫だ」と耐え続けてきたか。
その抑圧の歳月が、今、限界を迎えたのだ。
「……ですが、なぜ仕事や食事はこなせるのですか?」
「生存のための『防衛本能』が、彼をオートモードに切り替えたからでしょう」
医師は悲しげに目を伏せた。
「今の彼は、長年の習慣をなぞるだけの自動人形と同じです。食事を摂り、命じられた仕事をこなす。それは彼にとって『安全を確保するための生存プログラム』に過ぎません。そこに、彼の『心』は介在していないのです」
「……回復の兆しは」
「時間が必要です。下手に刺激せず、ただ寄り添って休ませてください。感情が戻るかどうかは……彼自身が、もう一度世界と向き合いたいと願うかどうかにかかっています」
医師が去った後、執務室には重い静寂が降りた。
リュクスは椅子に座ったまま、空になった瞳で窓の外を眺めている。
いつからだろうか。
おそらく、あの舞踏会がきっかけだろう。
あまりの重圧に心が折れたのか。
あるいは、エドワードとの密かな関係が露見すれば、即座に処分されるという恐怖に突き動かされたのか。
リュクスの心の奥底に広がる闇の正体は、誰にも分からない。
レオンは散らばった書類を静かに片付けながら、ぽつりと呟いた。
「……君は、よく耐えすぎましたね」
返事はない。
レオンは不慣れな行為に少し迷ったが、リュクスを壊れ物に触れるように、ふんわりと抱きしめた。
いや、その細い身体を腕で囲った、と言うべきか。
ーー過去を、抱えていたものを何も知らなかったとはいえ。
ーー結果的に、私という存在もまた、君をここまで追い込んだ責任の一端を担っている。
腕の中に伝わる、微かな体温。
そこに確かに「人」が存在していることだけは、疑いようのない事実のはずなのに。
リュクスの中から一切の色彩が消えた。
ただ――彼は、空(から)になった。
*
翌日の昼下がり、ルーカスが執務室に呼び出された。
そこには主君ユリウスと、筆頭書記官レオン。
二人の間に漂うのは、事実を切り分けるための、刺すような緊張感だった。
「座れ、ルーカス。……リュクスの件だ」
ユリウスの双眸が、氷の刃となってルーカスを射抜く。
「医師の見立ては心因性反応。だが――原因が特定できていない。貴公、何か知っているな」
ルーカスは応えず、静かに目を伏せた。
帝都随一と謳われた「清廉潔白な騎士」の仮面。
そんなものは、もうとうの昔にひび割れている。
名誉や忠誠など、今の彼には紙屑ほどの価値もなかった。
それよりも、彼が選び取ったのは泥の中に咲く、ひと塊の蓮の花。
その、たわわに実った禁断の果実を愛で、指先でつまみ、あろうことか口にしてしまった。
喉を焼くような、甘い毒。
それを自分だけが飲み下した瞬間の、背徳的なまでの悦び。
ルーカスはゆっくりと顔を上げ、主君の視線を真っ向から受け止めた。
その瞳の奥には、後悔など微塵もない。
愛する者を壊した一端が自分にあるというのなら、その罪こそが、永遠に自分をリュクスと繋ぎ止める鎖になるのだ。
汚れなき騎士の殻を脱ぎ捨て、彼はただ、一人の「男」としてそこにいた。
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