帝は傾国の元帥を寵愛する

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4章

93話 誰

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そこに立っていたのは、セレスティア帝国の一般兵を示す濃紺の軍服を纏った男だった。深く軍帽を被っている。
しかし、その長身から放たれる立ち居振る舞いの気品、そして瞳の奥に宿る、天を圧するほどの重圧――それを、ゼフェルが見間違えるはずもなかった。
「かっ……ヴァルター閣下……? どうして、ここに……」
震える声で、その名を呼ぶ。
ヴァルター・フォン・ロゼンクロイツ。
元・セレスティア帝国名誉元帥。
傾国の美貌を持ち、千の戦術を操る無敗の天才。
皇帝ユリウスが唯一、傍らに置き続けた男。
かつて全兵士の憧憬の的であり、今は歴史の闇に消えたはずの亡霊が、雑兵に身をやつして目の前に立っている。
「誰が指揮を執っているのかと思ってな。少し、顔を見に来た」
ヴァルターは事も無げに言った。
その声は、かつて教練の場で聞いた時と同じ、飄々としている。
「……剣を、下ろしていただけますか」
ゼフェルの悲痛な懇願に、ヴァルターはわずかに口角を上げた。
「ああ。お前が武器を捨てるなら、そうしよう」
ストン、と軽い音を立てて、ゼフェルの手から指揮官用の短剣が落ちた。
抵抗が無意味であることは、骨の髄まで理解していた。
「お前の剣は正確で鋭い。まともにやり合えば、こちらも怪我をするからな」
「……先日の手合わせも閣下だったのですね。……貴方様があの傭兵隊を仕切っているのですか」
「……それより、なぜ背後をやすやすと取られたのかを聞かないのか?」
ヴァルターの問いに、ゼフェルは唇を噛んだ。
「……なぜですか」
「ふっ……素直でいい。……戦場において、或いは普段でも、人間の脳は常に無意識に選択した音を聞いている」
ヴァルターは剣先をわずかに下げ、教え子を諭すように言葉を継いだ。
「軍服、歩調、呼吸……。俺がお前たちの軍の日常のノイズに同化した時、お前たちの目は俺を異物とも敵とも思わなかった。意識の死角、とでも言っておこう」
「馬鹿な…」
「これを着て桶に水を入れて歩いてるだけで、誰も俺に気付かなかった」
ゼフェルは辺りをまじまじと見る。
本幕の周りの兵たちは、峰打ちで眠らされているようだ。
「……その理論は尤もですが、周りに気付かれないまま一撃で気絶させる力量がないと不可能ですよ……」
ヴァルターはククッとおもしろそうに笑った。
「ご名答。荒技なんでな、真似はするな」
ーーこのお方は変わっていない。
それなのに。
「なぜ、閣下のようなお方が、あのような者たちと……!」
「こちらにも経緯があるんだ」
ヴァルターはゼフェルの言葉を遮り、突きつけていた剣を流麗な動作で鞘に収めた。
その視線が、一瞬だけかつての教え子の顔を柔らかく射抜く。
「セレスティアと敵対する気はなかったが……。ゼフェル、お前とやり合うのが面白くなってしまってな」
それは、死地を共にする敵への言葉とは思えないほど、穏やかなものだった。
ヴァルターは背を向け、天幕の出口へと歩き出す。その背中は、粗末な布越しでも、かつて仰ぎ見た憧れそのものだった。
「安心しろ。俺の"指導"は今日で終わりだ」
「か……閣下! 待ってください、閣下!」
ゼフェルの叫びは、皮肉にも外から響き渡る自軍の勝利の雄叫びにかき消された。
膝をつきそうになる脚を叱咤し、ゼフェルは天幕から飛び出した。冷たい風が頬を打つ。
その時、闇を切り裂くような金属音が響いた。
「――ッ!!」
火花が散り、剣と剣が激しくぶつかり合う。
ゼフェルが幕に手をかけ視線を向けると、そこには、濃紺の軍服を窮屈そうに着こなしたヴァルターと、役付きの証である濃い朱色の軍服を翻すルーカスが対峙していた。
「誰だ」
ルーカスの鋭い一撃がヴァルターを襲う。その凄まじい風圧に押され、ヴァルターが深く被っていた軍帽が舞い上がった。
雲が切れ、沈みゆく大きな赤い太陽が隠されていたプラチナブロンドの髪、そして素顔を鮮烈に照らし出す。
「ヴァルター、閣下……!?」
ルーカスが驚愕に目を見開いた。戦場にあっては致命的な、その一瞬の隙。
伝説の元帥がそれを見逃すはずもなかった。
ヴァルターは足元の砂塵を鋭く蹴り上げ、目潰しとしてルーカスの視界を奪う。
混乱の最中、彼はあらかじめ繋いでいた馬に飛び乗った。
その周囲には、軍服を奪われた兵が眠るように転がっている。
蹄の音だけを残し、亡霊のごとき元帥は夜の深淵へと去っていった。

しかし、ルーカスは止まらなかった。砂塵に灼かれた目を押さえることもせず、蹄の音だけを頼りに茜色の中へ駆け出す。その背もまた、やがて夕闇に飲まれた。

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