帝は傾国の元帥を寵愛する

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4章

95話 帝との取引

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蹄の音が、自身の鼓動と重なる。
ルーカスは北境の冷気を切り裂き、ただ南へと馬を飛ばした。
まる二日――それは、人智を超えた速度だった。
軍馬の限界を冷徹に見極め、泡を吹く直前で中継所の馬に乗り換える。己は馬上で乾パンを齧り、数時間の仮眠を数回挟むのみ。
泥を撥ね、風を突き破り、ただひたすらに、愛する者との距離を殺し続けた。

視界の端で景色が溶け、意識が混濁しかけても、手綱を握る拳に力はこもったままだ。

セレスティア帝都の重厚な城門がその姿を現した頃、ルーカスの全身は砂塵と泥にまみれ、眼光だけが獲物を狙う獣のような鋭さを放っていた。
そのままの足で登城しようとして、ルーカスはふと、己の姿を省みる。

(……この姿は、相応しくない)

これから対峙するのは、言葉一つですべてを支配する男だ。
疲弊した敗残兵のような姿で現れれば、交渉のテーブルに着く前に足元を見られる。相手の欲望を囮にするには、こちらも相応の武装が必要だった。

一度、寮へ戻り、泥に汚れた革鎧を脱ぎ捨てる。
冷たい水で顔を洗うと、鏡の中の男は幾分か生気を取り戻したように見えた。
糊のきいた新しい軍服に袖を通し、勲章の歪みを整える。
少将という肩書きを、実利を勝ち取るための鎧として纏い直した。

この頃、ユリウスは事務的な執務の多くを私邸でこなしていた。
週に数度登城し、会議や謁見、レオンとの調整をまとめて済ませる。幸いにも、その日ユリウスは登城しており、丁度、執務室には帝が一人きりだった。
運はルーカスに味方したのだ。

近衛兵二人に守られた重い扉が開かれ、ルーカスは執務室に足を踏み入れる。
窓から差し込む西日が、卓上の書類を橙色に照らしていた。
椅子に深く腰掛けたユリウスの瞳は、凪いだ湖のように静かで、同時に底知れない闇を孕んでいる。

ルーカスは床に膝をつき、最敬礼を捧げた。

この距離、この空間。
自分なら、一瞬でその喉元を締め上げ、ねじ伏せることができるだろう。
物理的な強さだけで言えば、自分の方が上だ。
しかし、この場を支配しているのは、圧倒的な階級という名の、目に見えない巨大な壁だった。

軍人としての礼節を保ちながら、ルーカスはゆっくりと顔を上げた。
最奥に座るユリウスの姿は逆光の中に溶け、その表情を容易に読み取らせない。

「……ルーカス少将、お前は遠征任務中のはずだろう。なぜ、ここにいる」

低く、静かな声が部屋を支配した。
任務放棄とも取られかねない越境。ユリウスの瞳には、冷徹な追及の色があった。

「急ぎ、お伝えすべきことがあると判断いたしました」
「急ぎだと? あの国境の小競り合いにおいて、私に直接まみえるほどの事態など――」

「ヴァルトハイム侯爵家からのご依頼……。その報告を差し上げます」

一瞬、部屋から一切の音が消えた。
ユリウスが動かしていたペンが、わずかに止まる。

「……っ」

漏れ出たのは、微かな嘆息か、あるいは歓喜を押し殺した吐息か。
次の瞬間、ユリウスの瞳の色が、熱を帯びた色へと鮮烈に塗り替えられた。

ルーカスは直立不動のまま、私情を排して事実のみを並べた。

「国境付近を荒らしていたのは、ベルカに雇われた寄せ集めの傭兵隊でした。しかし、彼ら一隊だけが明らかに異質。規律、戦果、そのすべてが正規軍を凌駕していた。その中心に……ヴァルター閣下がいらしたのです」

ルーカスは言葉を慎重に選び、情報の断片をユリウスの前に並べていく。

「彼ら傭兵隊の一ヶ月に及ぶ任務の最終日。全員が北の村に現れ給金を受け取っていました。私はそれを尾行。その後、閣下はベルカの要人らしき人物から、元帥として迎えると勧誘されていました。私は、ヴァルトハイム侯爵家の用件をお伝えすべく、路地裏にて接触を試み、成功した次第です」

そこまで語り、ルーカスはユリウスを真っ直ぐに見据えた。
帝王の仮面がわずかに歪み、その奥に潜む人間であるユリウスの飢餓感が顔を覗かせる。

「……それは、ご苦労だった。カーチャ様も安心なさるだろう。お前の手柄だ」  

ユリウスは平静を装っている。だが、ルーカスは見逃さなかった。
机の上で組まれたその指が、わずかに震えたのを。  

「……ここまでが、セレスティアの軍人として、私が陛下に報告する義務のある部分です」

その先にあるのは、軍規でも義務でもない。  
ルーカスは一歩、前へ踏み出した。騎士としての礼節をギリギリのところで保ちながら、その瞳にはかつてないほどの鋭い光が宿る。

「……今日、私が不敬を承知で馬を飛ばしたのは、陛下と取引をするためです」

「……取引だと?」

ユリウスの眉がぴくりと動いた。一介の将官が帝に対し、対等な条件を切り出すなど、通常であれば不敬罪で即刻処刑に値する暴挙だ。
だが、ルーカスの表情に浮かぶのは、全財産を賭けて博打に打って出る男の、危うい確信だった。

「……それで。お前は何と何を、天秤に載せるつもりだ?」

「私が持つ閣下の情報と、リュクスを。
帝都に帰還した暁には、リュクスを……私の元へ戻していただきたいのです」

「…………」

ユリウスの顔から、一切の温度が消えた。
彼はゆっくりと立ち上がり、圧倒的な威圧感を持ってルーカスを見下ろした。
執務室に漂う空気が、窒息しそうなほどに重く、鋭く尖る。

「ルーカス。私と公平に取引ができるなどと思うな」

ユリウスの声は、地を這う猛獣の唸りに似ていた。

「今ここでお前の首を刎ねると脅せば済むことだ。あるいは、拷問官にお前がすべてを吐くまで相手をさせることもできる。私の権力を、お前の浅はかな性欲ごときが揺るがせると思っているのか?」

対するルーカスは、微動だにしなかった。  

「……そうしたければ、おやりになってください。ですが、私の口を割らせる前に、あのお方が再び雲隠れしないという保証はありません」

挑発とも取れるその言葉に、ユリウスは鼻を鳴らした。

「……はっ」

切り捨てるように吐き出された、短い嘲笑。ユリウスの瞳には、苛立ちと冷ややかな侮蔑が入り混じっている。

「リュクスを、返していただきたい」

光を求める少将と、影を追う皇帝。
二人の男の譲れない執着が、静かな王宮の一室で激しく火花を散らした。  



ルーカスの瞳には、燃え盛るような執念と、割り切れぬ愛が渦巻いていた。
その熱量に触れれば、こちらまで火傷を負ってしまいそうなほど、厄介な激情を孕んでいる。
若者の持つ純粋な熱というのは、時として何よりも恐ろしい凶器になり得るのだ。

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