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4章
97話 勤勉な皇帝陛下
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ルーカスは姿勢を正し、記憶の海へと深く潜る。
それは数日前、帝都の喧騒から遠く離れた辺境で、彼がヴァルターと対峙した際の一幕だった。
鮮明でありながら、今となってはどこか白昼夢のような非現実を帯びた情景だ。
◇◇◇
廃れた村の路地裏。
舞い上がる砂塵の中で、二人の軍人が対峙していた。
ルーカスは、正面からその男を見据える。
汚れにまみれてなお、見る者の心を狂わせる傾国の美貌を崩さない男――ヴァルターを。
「閣下。ヴァルトハイム家の当主が、軍に依頼し閣下の行方を捜索しておられます」
「……カーチャ様が、だと?」
ヴァルターの声が微かに震えた。ルーカスはその刹那の揺らぎを、冷徹な観察眼で逃さず捉える。
「ええ。ご子息が無事に誕生されたのです。ゆえに、叔父である閣下に一目、その顔を見せたいと」
言葉を選びながら、ルーカスは順に話した。
義姉カーチャが彼の身を案じていることも、半年前に出産を終えたことも、動かしようのない事実。そして赤子を見せたいという情動的な誘いも、表向きは真実だ。
「閣下、月の末日。ソル国とセレスティアの境にあるシャムシール神殿にお越しいただけませんか。軍の遠征任務は二週間で完了します。私が帰還し、貴方様との合意を取り付けたとお伝えします」
「……そんな大役を、お前に頼んでもいいのか?」
肉親への情という綻びから、ヴァルターの強固な警戒心が崩壊していく。
「構いません。ヴァルトハイム家からの軍への支援は過分なものでした。凍らせた牛の尾が袋二つ分、干し肉も酒も、二週間の野営には勿体ないほどの品々でした」
「……そうか。それほどまでに、彼女に気を使わせて……心配させてしまったのか」
自嘲気味に、だがその眼差しに穏やかな光を宿してヴァルターは目を伏せた。
「いいだろう。末の日だ。シャムシールへ向かおう」
闇の中で、ルーカスの瞳が静かに光った。
計算通り。
本来の任務は、単なる意向の伝達までに過ぎなかった。
だがルーカスは、ヴァルターという男の唯一の急所である情を突き崩し、その身を特定の場所へと誘い出すことに成功した。
この危うい約束を成立させたのは、ひとえにルーカスという個人の資質に他ならない。
ヴァルターが軍時代から見知っていた顔であること、若くして少将という高位にありながら、その本質が愚直なまでに真面目であること。
その「嘘をつけない男」という盤石な信頼性が、百戦錬磨のヴァルターに、肉親の情という綻びを許させたのである。
「だが。そこへ軍属が雪崩れ込み、私を処刑台へ送るような真似はしないだろうな?」
ヴァルターは試すように、愉しげに笑った。
「そのような命令が出ていれば、この路地は既に包囲されています」
「ククッ、違いない。……まさか、俺を探す道理もないだろう」
「? いえ、カーチャ様は閣下をお探しです」
「……こちらの話だ」
◇◇◇
「ふむ……。つまり、末の日にシャムシールでの接触を約束させた。それが今回の『取引』の成果か」
帝都、執務室。
ユリウスは指先で机の端を規則的に叩き、思考の糸を紡いでいた。
「確かな手柄だ。奴のことだ、お前が嘘をつくとは思わないだろうし、そもそもお前に嘘を吐く理由がないことも計算に入れているはずだ。カーチャ様との再会という大義名分があれば、疑いようもなく姿を現すに決まっている。ヴァルトハイム家への報告は私から行っておく」
そこで言葉を切り、ユリウスは射抜くような鋭い視線をルーカスへと戻した。
「その場に、お前は必要ないのだな?」
「はい。伝達のみです。現場への同行は不要かと」
「……他には? 何か、奴が口にしていたことはないか?」
ユリウスの問いから、先ほどまでの峻烈さが消えていた。代わりに宿ったのは、個人的な何かを渇望するような、奇妙に歪んだ熱量だ。ルーカスは記憶の引き出しを片端から開いていく。
「牛の……」
「牛の、何だ?」
ユリウスが、あからさまに身を乗り出した。
「……テールスープを飲めるよう、ヴァルトハイム家が野営へ直接物資を送ってくれたのですが。それを話すと『美味そうだ、久しぶりに飲みたい』と、そう零しておられました」
口にした直後、ルーカスは自嘲した。これは報告に値しない。軍事的価値も政治的意味も皆無の、ただの雑談の残滓に過ぎない。
だが、ユリウスの反応は、ルーカスの予想を大きく裏切るものだった。
「……ほう。あのような野生味の強い食べ物は、奴の嗜好には合わなかったはずだが」
ユリウスは、まるで国家機密の暗号を解読するかのような真剣な面持ちで、その些細な情報を咀嚼し始めた。
「栄養状態はどうだった。欠乏は? 筋肉の衰えや、顔色の悪さはなかったか」
「……剣筋は鋭く、身のこなしも機敏。健康状態は良好と判断します」
「あとは? 他に何か言っていなかったか。どんな些細なことでもいい、思い出せ」
本来ならば、なぜそこまで細部を追及するのかと、誰もが困惑する場面だろう。
だが、ルーカスは他者の心の機微には決定的に無頓着な男だった。
彼はただ、主君の命令に従い、記憶にある情報を「必要・不必要」で選別することなく、ありのままに差し出した。
「エールを飲んだことがあるかと聞かれ……『凄まじく不味いな』と吐き捨てておられました。周囲には言えなかったが、と」
ルーカスは笑わず、ユリウスもまた笑わなかった。
それどころか皇帝は、帝国全土を揺るがす軍事機密を聴取する時よりも峻烈な眼差しで、その「不味いエール」という断片を聞き入っている。
その異様な光景を見て、ルーカスは確信を深める。
(これは、取るに足らない雑談ではない。おそらく極めて重要な、外交的な情報なのだ)
ベルカにおけるエールの味、その流通経路や醸造法が、国家間の取引などに直結しているのかもしれない。
皇帝ユリウスが、手元の筆記具を握りしめ、一言半句を漏らさず記憶しようとするほどの熱量を見せているのだから。
ただユリウスにとって、ヴァルターという男の日常を構成する些細な欠片こそが、今この世で最も渇望する情報であったこと。
ルーカスはその事実を今はまだ知る由もなく、主君の飽くなき勤勉さに、ただ深く感嘆するのだった。
それは数日前、帝都の喧騒から遠く離れた辺境で、彼がヴァルターと対峙した際の一幕だった。
鮮明でありながら、今となってはどこか白昼夢のような非現実を帯びた情景だ。
◇◇◇
廃れた村の路地裏。
舞い上がる砂塵の中で、二人の軍人が対峙していた。
ルーカスは、正面からその男を見据える。
汚れにまみれてなお、見る者の心を狂わせる傾国の美貌を崩さない男――ヴァルターを。
「閣下。ヴァルトハイム家の当主が、軍に依頼し閣下の行方を捜索しておられます」
「……カーチャ様が、だと?」
ヴァルターの声が微かに震えた。ルーカスはその刹那の揺らぎを、冷徹な観察眼で逃さず捉える。
「ええ。ご子息が無事に誕生されたのです。ゆえに、叔父である閣下に一目、その顔を見せたいと」
言葉を選びながら、ルーカスは順に話した。
義姉カーチャが彼の身を案じていることも、半年前に出産を終えたことも、動かしようのない事実。そして赤子を見せたいという情動的な誘いも、表向きは真実だ。
「閣下、月の末日。ソル国とセレスティアの境にあるシャムシール神殿にお越しいただけませんか。軍の遠征任務は二週間で完了します。私が帰還し、貴方様との合意を取り付けたとお伝えします」
「……そんな大役を、お前に頼んでもいいのか?」
肉親への情という綻びから、ヴァルターの強固な警戒心が崩壊していく。
「構いません。ヴァルトハイム家からの軍への支援は過分なものでした。凍らせた牛の尾が袋二つ分、干し肉も酒も、二週間の野営には勿体ないほどの品々でした」
「……そうか。それほどまでに、彼女に気を使わせて……心配させてしまったのか」
自嘲気味に、だがその眼差しに穏やかな光を宿してヴァルターは目を伏せた。
「いいだろう。末の日だ。シャムシールへ向かおう」
闇の中で、ルーカスの瞳が静かに光った。
計算通り。
本来の任務は、単なる意向の伝達までに過ぎなかった。
だがルーカスは、ヴァルターという男の唯一の急所である情を突き崩し、その身を特定の場所へと誘い出すことに成功した。
この危うい約束を成立させたのは、ひとえにルーカスという個人の資質に他ならない。
ヴァルターが軍時代から見知っていた顔であること、若くして少将という高位にありながら、その本質が愚直なまでに真面目であること。
その「嘘をつけない男」という盤石な信頼性が、百戦錬磨のヴァルターに、肉親の情という綻びを許させたのである。
「だが。そこへ軍属が雪崩れ込み、私を処刑台へ送るような真似はしないだろうな?」
ヴァルターは試すように、愉しげに笑った。
「そのような命令が出ていれば、この路地は既に包囲されています」
「ククッ、違いない。……まさか、俺を探す道理もないだろう」
「? いえ、カーチャ様は閣下をお探しです」
「……こちらの話だ」
◇◇◇
「ふむ……。つまり、末の日にシャムシールでの接触を約束させた。それが今回の『取引』の成果か」
帝都、執務室。
ユリウスは指先で机の端を規則的に叩き、思考の糸を紡いでいた。
「確かな手柄だ。奴のことだ、お前が嘘をつくとは思わないだろうし、そもそもお前に嘘を吐く理由がないことも計算に入れているはずだ。カーチャ様との再会という大義名分があれば、疑いようもなく姿を現すに決まっている。ヴァルトハイム家への報告は私から行っておく」
そこで言葉を切り、ユリウスは射抜くような鋭い視線をルーカスへと戻した。
「その場に、お前は必要ないのだな?」
「はい。伝達のみです。現場への同行は不要かと」
「……他には? 何か、奴が口にしていたことはないか?」
ユリウスの問いから、先ほどまでの峻烈さが消えていた。代わりに宿ったのは、個人的な何かを渇望するような、奇妙に歪んだ熱量だ。ルーカスは記憶の引き出しを片端から開いていく。
「牛の……」
「牛の、何だ?」
ユリウスが、あからさまに身を乗り出した。
「……テールスープを飲めるよう、ヴァルトハイム家が野営へ直接物資を送ってくれたのですが。それを話すと『美味そうだ、久しぶりに飲みたい』と、そう零しておられました」
口にした直後、ルーカスは自嘲した。これは報告に値しない。軍事的価値も政治的意味も皆無の、ただの雑談の残滓に過ぎない。
だが、ユリウスの反応は、ルーカスの予想を大きく裏切るものだった。
「……ほう。あのような野生味の強い食べ物は、奴の嗜好には合わなかったはずだが」
ユリウスは、まるで国家機密の暗号を解読するかのような真剣な面持ちで、その些細な情報を咀嚼し始めた。
「栄養状態はどうだった。欠乏は? 筋肉の衰えや、顔色の悪さはなかったか」
「……剣筋は鋭く、身のこなしも機敏。健康状態は良好と判断します」
「あとは? 他に何か言っていなかったか。どんな些細なことでもいい、思い出せ」
本来ならば、なぜそこまで細部を追及するのかと、誰もが困惑する場面だろう。
だが、ルーカスは他者の心の機微には決定的に無頓着な男だった。
彼はただ、主君の命令に従い、記憶にある情報を「必要・不必要」で選別することなく、ありのままに差し出した。
「エールを飲んだことがあるかと聞かれ……『凄まじく不味いな』と吐き捨てておられました。周囲には言えなかったが、と」
ルーカスは笑わず、ユリウスもまた笑わなかった。
それどころか皇帝は、帝国全土を揺るがす軍事機密を聴取する時よりも峻烈な眼差しで、その「不味いエール」という断片を聞き入っている。
その異様な光景を見て、ルーカスは確信を深める。
(これは、取るに足らない雑談ではない。おそらく極めて重要な、外交的な情報なのだ)
ベルカにおけるエールの味、その流通経路や醸造法が、国家間の取引などに直結しているのかもしれない。
皇帝ユリウスが、手元の筆記具を握りしめ、一言半句を漏らさず記憶しようとするほどの熱量を見せているのだから。
ただユリウスにとって、ヴァルターという男の日常を構成する些細な欠片こそが、今この世で最も渇望する情報であったこと。
ルーカスはその事実を今はまだ知る由もなく、主君の飽くなき勤勉さに、ただ深く感嘆するのだった。
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