ひだまり婚約録 ― 可愛い彼と現実主義令嬢

星乃和花

文字の大きさ
7 / 51

第三話 鏡台前の可愛いは、日向で増える

しおりを挟む
(イリス視点)

約束どおり、ローラン様の鏡台は、研究室の隣室——日向の小さな控え室へと移動していた。
窓辺の光が磨かれた木の天板に落ち、刷毛やコーム、ガラス瓶の列がささやかに反射する。
わたしは新しい観測用紙を広げる。

――美容ルーティン観測表・日向版
項目:
① 水分補給(杯)/② ストレッチ(肩・首)/③ スキンケア(手順数)
④ 前髪形成角度(度)/⑤ 微笑み準備(表情筋)
⑥ 香りの層(ベース・ミドル・トップ)/⑦ 仕上げ確認(ちょっと後ろ向いて)

「“ちょっと後ろ向いて”って、項目名が可愛いね」

背後から声。ローラン様が器用に鏡台の椅子を引いた。
白いシャツの袖を折り、首筋に朝の光を受けている。

「事実ですから。では、開始します。第一工程、水分補給」

「はい」

彼はグラスを持つ手首まできれいだ。指の呼吸が静かで、グラスの縁の水面がほとんど揺れない。
(※観測:手の所作の静度=安心指標に正相関)

「次、肩と首のストレッチ。回数を声に出してお願いします」

「いち、に……」

鏡越しに目が合う。彼は少し恥ずかしそうに笑い、回数が早くなる。
(※観測:恥じらい=可愛い)

「スキンケア工程。今日は?」

「化粧水、乳液、保湿セラム——三工程。乾燥しやすい日だから“蜂蜜”多め」

「蜂蜜、可愛いですね」

「語彙が最近それに支配されてない?」

「必要十分です。第四工程、前髪形成。角度を測ります」

わたしは小さな分度器を掲げる。鏡越しに彼が吹き出した。

「それ、本当に持ってきたんだ」

「はい。角度は“可愛い—可愛い—とても可愛い”の三段階評価にします」

「度数じゃないんだ」

「生活に使える指標を、がモットーです」

彼は櫛で前髪をすべらせ、指でふわりと浮かせてから、ほんの少しだけ下ろす。
(可愛い)
わたしは即座に丸をつける。

「第五工程、微笑み準備」

「準備って言われると、なんだか……」

「表情筋の緊張をほぐし、目尻の角度を整え、好感度と“安心メーター”を最適化する工程です」

「具体的だね」

彼は鏡の前で、ほんの一瞬口角を上げ、すぐに戻した。
“反則の小さな笑み”になる寸前で止めるのが、彼の上手さだ。
(※観測:反則—1°手前。可愛い)

「第六工程、香りの層。今日は?」

「ベースは白檀少し。ミドルに柑橘。トップに、君の研究室の香草と喧嘩しないように、透明な水の香り」

「可愛いですね。わたしを考慮に入れているのが、特に」

「……うん」

少し頬が染まる。
わたしは観測表に〈香り層=あなたを想う〉と殴り書きしてしまい、慌てて小さく線でくくる。研究者らしくない表現は、恥ずかしい。

「最後、仕上げ確認。“ちょっと後ろ向いて”」

彼が椅子から立ち、くるりと一回転。背中から裾までの線が日向で柔らかく整う。
わたしは指先で襟の折り目をほんの一ミリ直し、肩の皺を払う。
近い。
香りの層が、わたしの中の“測れないもの”に触れて、きゅっと縫いとめていく。

「——総評、可愛いです」

「早いね?」

「生活に使える指標を、です」

彼は笑い、鏡台に置いていた小さな布包みをそっと差し出した。
「君の分。日向のハンドミラー。持ってないだろうと思って」

糸の縁取りに、極小の星が並んでいる。
(※観測:贈り物の可愛い=縁取りの細やかさ)

「可愛いですね。……ありがとう、大切に使います」

「うん。君が日向で笑うと、僕の中の何かがほどける」

微笑み準備、完了。
わたしは観測表に“会話の温度:温”と丸をつけ、ペンが勝手に“温々”と二重丸を描いた。



庭を抜けて本邸へ向かう途中、風が少し強くなった。
前髪形成角度が、危険域に達する。

「ローラン様、風向き三時の方向。角度、維持できますか」

「やってみる。——っ、だめだ、崩れる」

「第二案。緊急ピン、投入」

わたしは袖口から小さな真鍮のヘアピンを取り出し、彼の生え際に手を伸ばした。
指が触れ、彼の呼吸が一瞬止まる。

「失礼します。ピンは見えない位置、固定は一秒」

かち、と小さな音。
前髪はふわりと生き残り、彼の目にかかる線が、また“理想”の位置に戻る。
(※観測:共同対処=可愛い)

「……助かった」

「総評、可愛いですね」

「イリス、今のは君のほうが可愛かった」

「事実のみを述べています」

思わず笑い合う。
風は弱まり、日向の温度が戻る。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

拝啓、婚約者さま

松本雀
恋愛
――静かな藤棚の令嬢ウィステリア。 婚約破棄を告げられた令嬢は、静かに「そう」と答えるだけだった。その冷静な一言が、後に彼の心を深く抉ることになるとも知らずに。

本物の夫は愛人に夢中なので、影武者とだけ愛し合います

こじまき
恋愛
幼い頃から許嫁だった王太子ヴァレリアンと結婚した公爵令嬢ディアーヌ。しかしヴァレリアンは身分の低い男爵令嬢に夢中で、初夜をすっぽかしてしまう。代わりに寝室にいたのは、彼そっくりの影武者…生まれたときに存在を消された双子の弟ルイだった。 ※「小説家になろう」にも投稿しています

冷徹団長の「ここにいろ」は、騎士団公認の“抱きしめ命令”です

星乃和花
恋愛
⭐︎完結済ー全16話+後日談5話⭐︎ 王都最硬派、規律と責任の塊――騎士団長ヴァルド・アークライトは、夜の見回り中に路地で“落とし物”を拾った。 ……いや、拾ったのは魔物の卵ではなく、道端で寝ていた少女だった。しかも目覚めた彼女は満面の笑みで「落とし物です!拾ってくださってありがとうございます!」と言い張り、団長の屋敷を“保護施設”だと勘違いして、掃除・料理・当番表作りに騎士の悩み相談まで勝手に開始。 追い出せば泣く、士気は落ちる、そして何より――ヴァルド自身の休息が、彼女の存在に依存し始めていく。 無表情のまま「危ないから、ここにいろ」と命令し続ける団長に、周囲はざわつく。「それ、溺愛ですよ」 騎士団内ではついに“団長語翻訳係”まで誕生し、命令が全部“愛の保護”に変換されていく甘々溺愛コメディ!

冷遇妃ライフを満喫するはずが、皇帝陛下の溺愛ルートに捕まりました!?

由香
恋愛
冷遇妃として後宮の片隅で静かに暮らすはずだった翠鈴。 皇帝に呼ばれない日々は、むしろ自由で快適——そう思っていたのに。 ある夜、突然現れた皇帝に顎を掴まれ、深く口づけられる。 「誰が、お前を愛していないと言った」 守るための“冷遇”だったと明かされ、逃げ道を塞がれ、甘く囲われ、何度も唇を奪われて——。 これは冷遇妃のはずだった少女が、気づけば皇帝の唯一へと捕獲されてしまう甘く濃密な溺愛物語。

魔法務省の過労令嬢と残業嫌いな冷徹監査官の契約からはじまる溺愛改革

YY
恋愛
土日は5話投稿(7:00、8:00、12:00、19:00、20:00)。 平日は2話投稿(7:00、19:00)。 全100話、既に予約投稿設定済みなので、エタる事はありません。 「君はもう用済みだ」 過労の果てに婚約者から価値ゼロの烙印を押され、全てを失った令嬢アリア。 倒れた彼女を拾ったのは、「氷の悪魔」と恐れられる冷徹な監査官カインだった。 「君は興味深いサンプルだ。本日より、君の幸福度を24時間管理する」 追放先で始まったのは、人生初の定時退勤、栄養管理された(まずい)食事、そして「休むことは権利だ」と教え込まれる奇妙な日々。 冷徹なはずの彼の管理は、次第に不器用で過保護な「溺愛」へと変わっていく。 やがてアリアの血に眠る「失われた癒やしの力」と、この国を蝕む「システムの真実」が明らかになり、二人の個人的な関係は、国を揺るがす巨大な陰謀との戦いへと発展していく――! 絶望の淵から始まる、じれ甘ハッピーエンド!

冷酷騎士様の「愛さない」は一分も持たなかった件

水月
恋愛
「君を愛するつもりはない」 結婚初夜、帝国最強の冷酷騎士ヴォルフラム・ツヴァルト公爵はそう言い放った。 出来損ないと蔑まれ、姉の代わりの生贄として政略結婚に差し出されたリーリア・ミラベルにとって、それはむしろ救いだった。 愛を期待されないのなら、失望させることもない。 契約妻として静かに役目を果たそうとしたリーリアは、緩んだ軍服のボタンを自らの銀髪と微弱な強化魔法で直す。 ただ「役に立ちたい」という一心だった。 ――その瞬間。 冷酷騎士の情緒が崩壊した。 「君は、自分の価値を分かっていない」 開始一分で愛さない宣言は撤回。 無自覚に自己評価が低い妻に、激重独占欲を発症した最強騎士が爆誕する。 以後、 寝室は強制統合 常時抱っこ移動 一秒ごとに更新される溺愛 妻を傷つける者には容赦なし宣言 甘さ過多、独占欲過剰、愛情暴走中。 さらにはリーリアを取り戻そうとする実家の横槍まで入り――? 自己評価ゼロの健気令嬢と愛が一分も我慢できなかった最強騎士。 溺愛が止まらない、契約結婚から始まる甘すぎる逆転ラブコメ

淫紋付きランジェリーパーティーへようこそ~麗人辺境伯、婿殿の逆襲の罠にハメられる

柿崎まつる
恋愛
ローテ辺境伯領から最重要機密を盗んだ男が潜んだ先は、ある紳士社交倶楽部の夜会会場。女辺境伯とその夫は夜会に潜入するが、なんとそこはランジェリーパーティーだった! ※辺境伯は女です ムーンライトノベルズに掲載済みです。

【完結】新皇帝の後宮に献上された姫は、皇帝の寵愛を望まない

ユユ
恋愛
周辺諸国19国を統べるエテルネル帝国の皇帝が崩御し、若い皇子が即位した2年前から従属国が次々と姫や公女、もしくは美女を献上している。 既に帝国の令嬢数人と従属国から18人が後宮で住んでいる。 未だ献上していなかったプロプル王国では、王女である私が仕方なく献上されることになった。 後宮の余った人気のない部屋に押し込まれ、選択を迫られた。 欲の無い王女と、女達の醜い争いに辟易した新皇帝の噛み合わない新生活が始まった。 * 作り話です * そんなに長くしない予定です

処理中です...